第三十五話 水の行先
第三十五話 水の行先
水桶が、昼を待たずに空になった。
北条景継は、桶の底に残った濁りを見つめた。泥が混じっている。昨日までなら、汲み直せば済む話だった。だが、城内へ運び込まれる負傷者が増えた今、水を汲む者にも、運ぶ者にも、ほかの仕事がある。
「次の水は、いつ届く」
帳面を抱えた千代が、戸口から答えた。
「早くても半刻ほど先です。井戸から運ぶ者を増やせば早まりますが、今は別の場所にも人手を取られています」
「どこへ回している」
「炊き出しと、兵の持ち場です。こちらだけを優先すれば、向こうが困ります」
景継は頷いた。
必要なのは分かっている。だからといって、ほかの場所にも必要な水を、こちらへ寄せればよいわけではない。
奥の部屋から、男の呻き声が聞こえた。
運び込まれた負傷者は三人。ひとりは額を切り、ひとりは脚を傷め、もうひとりは腕に深い裂傷を負っていた。いずれも命に関わるほどの出血は見られないが、傷を洗い、汚れを落とし、布を替える必要がある。
景継は水桶を置いた。
「いま残っている水は、飲み水と傷を洗う水に分けてくれ。使い終えた水を、桶へ戻さないこと」
「ですが、これだけでは足りませぬ」
手伝いの男が言った。
「分かっている。だから、使い道を分ける」
景継は桶の中を覗き込んだ。
濁った水を見ただけで、どのような危険があるかを言い切ることはできない。井戸から汲んだ水でも、運ぶ途中で汚れることがある。反対に、澄んで見える水が安全とも限らない。
いま確かなのは、この水を何に使ったのか、誰も記録していないということだった。
「新しく届いた水は、まず別の桶に受けてくれ。飲み水に回すものと、洗浄に使うものを混ぜない。汚れた布を洗う水も、傷に使う水とは別だ」
「桶が足りませぬ」
千代が帳面から顔を上げた。
「空いた桶はあります。ただ、食料を運ぶのに使っていたものも混じっています。中を確かめずに使うわけにはいきません」
「使えるものを選んでくれ。足りない分は、何が足りないのか教えてほしい」
「承知しました。ですが、すべてをすぐに揃えることはできません」
「できる分でいい。無理なものは、無理だと言ってくれ」
千代は一瞬だけ景継を見た。
「では、桶を探す者と、水を運ぶ者を分けます。水を運ぶ者には、戻ってきたら次の指示を待つよう伝えます。勝手に別の用事を引き受けられると、いつ戻るのか分からなくなりますから」
「頼む」
千代は帳面を抱え直し、戸口へ向かった。
景継が奥の部屋へ入ると、綾が負傷者のそばに膝をついていた。片腕で扱えるよう戸板の位置を変え、通路を塞いでいた荷を壁際へ寄せている。
「水が足りないそうだな」
「ああ」
「なら、運ぶ者が通る道を空ける。桶を置く場所も決めておく。運んできた者が迷えば、その分だけ遅れる」
綾は戸口の脇を指した。
「ここなら、負傷者を通す邪魔にもならない。飲み水は奥へ運ばず、入口の脇に置けばいい。誰がどこへ持っていくのかも決めておく」
「分かった」
「それから、あの男を先に診てくれ」
綾が目を向けたのは、腕を傷めた男だった。男は傷口を押さえながら、歯を食いしばっている。布には血が滲み、指先にも赤い色が残っていた。
「額の男より、こちらか」
「額の男は、意識がはっきりしている。自分で話せるし、いまのところ出血も増えていない。こちらは、布を押さえる手が震えている。痛みだけとは限らない」
景継は男のそばへ寄った。
「名は」
「……弥一郎でございます」
「いつ傷を負った」
「朝方に。荷を運んでいるところへ、刃が当たりまして」
「傷を押さえている布を、少し緩めてくれ。無理に剥がさなくてよい」
男の手が動いた。
傷は前腕に走っていた。深さはあるが、血が勢いよく噴き出している様子はない。景継は傷の周囲を確かめ、指先の色と動き、感覚を尋ねた。
「指は動くか」
男が指を曲げた。
「動きます」
「痺れは」
「少し……いや、よく分かりませぬ」
景継は男の指先に触れた。
傷の深さによっては、腱や神経が傷ついている可能性がある。ここで断定はできない。いま必要なのは、出血を抑え、傷をできる範囲で清潔にし、指の動きと感覚の変化を見ていくことだった。
「水が届くまで、傷を強くいじらない。押さえている布が濡れたら、上から新しい布を重ねてくれ」
「このままでは、腐ってしまうのでは……」
男の声に、不安が混じった。
「その危険がないとは言えない。だから、汚れを落とし、変化を見ていく。いま、分からないことまで決めつけるつもりはない」
景継は傷口を覆う布を整えた。
男は何か言いかけたが、やがて口を閉じた。
「……腕が使えなくなれば、家へ戻っても仕事ができませぬ」
「今は、指が動くかどうかを確かめよう。先のことは、その結果を見ながら考える」
景継は、約束できないことを約束しなかった。
そのとき、小夜が紙を手に入ってきた。
「景継様。水を運んでいる者たちを見てきました」
「何かあったか」
「同じ桶を、飲み水にも、汚れた布を洗う水にも使っているところがありました。運ぶ者が足りず、空いた桶をそのまま使っているようです」
「どこで」
「裏手です。いまは、こちらへ回す分と、炊き出しへ回す分を分けようとしているところでした」
小夜は紙を開いた。
「桶の数と、置かれていた場所を書きました。誰が運んできたかも、分かる範囲で記しています。ただ、すべてを見届けたわけではありません」
「それで十分だ。見ていないことまで書く必要はない」
小夜は小さく頷いた。
「ひとつ、気になったことがあります。運ぶ者が途中で呼び止められ、そのまま別の場所へ行ってしまうことがありました。水が届かないのは、量が足りないだけではないのかもしれません。昨日、運ぶ者と行き先を決めましたが、途中で別の仕事を頼まれると、戻る時刻が分からなくなります。道が塞がれば、決めた時刻にも届きません」
景継は紙を受け取った。
水がない。そう聞けば、汲む量を増やすことを考える。だが、運んだ水が途中で別の仕事に回されれば、どれだけ汲んでも、必要な場所には届かない。
「千代に伝えてくれ。運ぶ者には行き先と戻る場所を決めておく。途中で別の用事を頼まれたら、まず水を届けてから戻る。ただし、人命に関わる急ぎの用なら、勝手に断らず、誰に頼まれ、どこへ向かったかを知らせてほしい。遅れた理由も分かれば記す」
「分かりました」
小夜は紙をしまうと、入口へ向かった。
景継は綾を振り返った。
「負傷者を運ぶ道も、同じように決められるか」
「できる。だが、通路を決めたからといって、そこに物を置く者がいなくなるわけじゃない。見張る者が必要だ」
「人手が要るな」
「そうだ。私がずっと立っているわけにはいかない。交代できる者を二人、見つける」
綾は、近くで待機していた若い兵に声を掛けた。
「お前、歩ける負傷者の案内をしていたな」
「はい」
「いまから、この道を空けておけ。荷が置かれていたら、勝手に遠くへ運ぶな。置いた者を探して、どこへ移すか確かめろ。ひとりでは難しければ、すぐに呼べ」
「承知しました」
「もうひとり、交代できる者を連れてこい。ずっと立ち続ける必要はないが、誰もいなくなる時間を作るな」
若い兵は返事をし、戸口へ走っていった。
景継は綾の動きを見ていた。
片腕でできることには限りがある。重い物を運ぶにも、両手を使う者と同じようにはいかない。それでも、どこを空け、誰を配置し、何を確認させるかは、彼女が自分の目で決めていた。
「助かる」
「礼は、水が届いてからにしろ」
綾は短く答えた。
半刻を待たず、水を運ぶ者が戻ってきた。
千代が選んだ桶には、使い道が分かるよう、それぞれ違う印がつけられていた。飲み水を入れる桶。傷を洗うための水を受ける桶。汚れた布を洗う桶。十分な数ではない。だが、どれを何に使うのか、運ぶ者にも分かるようになっていた。
「まずは、こちらへ」
千代が指示を出した。
「飲み水は、決めた場所へ。こちらは傷の洗浄に使います。使い終えた水は戻さないでください。桶が空いたら、誰が使ったか分かるようにしてから、次の水を受けます」
運び手のひとりが、桶を置く場所を確かめた。
「こちらは、どこへ持っていけばよいので」
「奥の部屋です。ただし、負傷者のそばへ置きっぱなしにしないでください。使う分だけ渡し、残りはここへ戻します」
千代は一つずつ確認した。
運び手たちは頷き、決められた場所へ水を運んだ。桶を置いて終わりではない。何に使う水なのかを確かめ、次の運搬に備えて戻す。その順番を、ひとりずつ手元で覚えていった。
景継は、傷を負った男のそばへ戻った。
水を使い、傷の周囲をできるだけ清潔にする。汚れを取り除き、傷の状態を確かめる。深い部分を無理に探ることはしない。傷口を覆い、圧迫を続け、指の動きと感覚を再び確認した。
「指を動かしてみてくれ」
弥一郎は、ゆっくりと指を曲げた。
先ほどと同じように動いている。痺れが消えたとは言えなかったが、悪化した様子も見られなかった。
「痛みはどうだ」
「まだ痛みます。ですが、先ほどよりは……」
「分かった。しばらくは腕を使わず、変化があれば知らせてくれ。指が動かなくなったり、痺れが強くなったりしたときもだ」
「承知しました」
男の肩から、わずかに力が抜けた。
景継は傷を覆う布を整え、次の患者へ向かった。
額を切った男は、意識もはっきりしていた。傷の周囲を確かめ、出血が増えていないことを確認する。脚を傷めた男は、腫れと痛みがあり、自分で立とうとしていたが、無理に歩かせるわけにはいかなかった。
「家へ帰らねばなりませぬ」
男は言った。
「家族が待っております」
「歩けるかどうかだけで、帰れるとは決められない。まずは脚の状態を見よう」
「しかし……」
「帰りたいのは分かる。だが、途中で倒れれば、迎えに行く者が必要になる。いまは、ここで休んでくれ」
男は不満そうに口を結んだが、やがて頷いた。
景継は、すべての患者が納得しているわけではないことを知っていた。診療所に留まることにも、仕事へ戻れないことにも、それぞれの事情がある。だが、事情があるからといって、身体の状態を無視してよいわけではなかった。
夕刻が近づくころ、景継は帳面を開いた。
水が届いた時刻。使い道。残った量。傷を洗った患者。交換した布。指の動きに変化があったか。小夜の記録と照らし合わせ、分かる範囲を書き加えていく。
その横で、千代が桶の数を数えていた。
「今日は、何とか持ちました」
「明日はどうだ」
「分かりません。今日と同じ量が届くとは限りませんし、桶がすべて使えるとも限りません。運ぶ者も、ずっと同じ人数を出せるわけではありません」
「そうだな」
「ですが、何が足りないかは分かるようになりました。水そのものが足りないのか、桶が足りないのか、運ぶ者が足りないのか。そこを分けて考えられます」
千代は帳面を閉じた。
「明日の分まで約束はできません。でも、今日と同じことを繰り返さずに済むよう、できるところから整えます」
「頼む」
小夜が記録を持ってきた。綾は、通路の見回りを交代する者を決め終えていた。
四人が同じ場所に集まったのは、日が傾いてからだった。
「今日の水は、何とか足りたな」
景継が言うと、綾が首を振った。
「足りたのではない。足りない分を、何とか使い分けたんだ。明日も同じようにいくとは限らない」
「そのとおりだ」
小夜が記録を差し出した。
「明日の朝、最初に確認することをまとめました。水の残り、桶の数、傷の変化。今日と同じ順で見れば、違いに気づきやすいと思います」
「私も、運び手の数と、どこへ水を回したかを記しておきます」
千代が続けた。
「ただし、帳面をつける者を一人に決めてしまうと、その者がいないときに止まります。書き方を揃えて、代わりの者にも分かるようにしておきます」
景継は三人を見た。
今日、救えた命がいくつあったのか。それを、いま断言することはできない。傷を負った男たちが、この先どう回復するかも分からない。
それでも、ひとつだけ変わったことがある。
水を運ぶ者は、行き先を知っていた。桶を受け取る者は、何に使う水なのかを知っていた。傷を診る者は、何を確かめたのかを記録に残していた。
景継がすべてを見て回らなくても、動く者たちがいた。
それは、明日の命を保証するものではない。
だが、今日の失敗を、明日もそのまま繰り返さないための手掛かりにはなる。
奥の部屋から、弥一郎の声がした。
「景継様」
景継が振り返る。
「どうした」
「指が……先ほどより、動かしにくいような気がいたします」
景継は、すぐに男のもとへ向かった。
水の行先は定まった。
だが、届いた水がすべてを救うわけではない。
傷もまた、まだ終わってはいなかった。




