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滅びるはずの小田原衆を、転生医師が救う  作者: チャプタさん


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第三十四話 水の分け前

第三十四話 水の分け前


 朝から、井戸の前に人が並んでいた。


 桶を抱えた女たちの後ろには、荷を運んできた男たちがいる。診療所へ水を届ける者もいれば、兵の詰所へ向かう者もいた。城下の道では荷車が行き交い、馬のいななきと人の怒鳴り声が、絶え間なく聞こえていた。


 景継が井戸端へ出ると、桶を持った男が声を荒らげていた。


「こちらは朝から荷を運んでいるんだ。水の一つくらい、先に汲ませてもらってもよかろう」


「こちらだって、家族が待っているんです」


 女は桶の柄を握りしめていた。男の背後には、荷車が二台止まっている。積まれているのは米俵と布の包みだった。


 景継は、二人の間へ割って入ることはしなかった。まず井戸の周囲を見た。


 列は昨日より長い。水を汲む者が増えたのか、それとも一度に運べる量が減ったのか。井戸の水面はまだ十分に深いようだったが、汲み上げる桶が絶えず往復している。


「何があった」


 近くにいた若い男へ尋ねた。


「兵の詰所からも、診療所からも、水を急いでくれと言われております。どちらを先にすればいいのか、井戸を守る者にも決められないそうで」


「誰かが先に汲めば、ほかの者が待つ。そういうことか」


「はい」


 景継は、列の先頭を見た。


 水はある。だが、運ぶ手が足りない。誰が何のために使う水なのかも、ここでは分からない。急ぐ者が声を上げれば、その者が先に汲むことになる。声を上げられない者は、ただ待つしかなかった。


「診療所へ運ぶ分は、こちらで必要な量を伝える。詰所の分は、詰所で受け取る者を決めてもらおう。家々の水まで、ここで一括して止めることはできない。声の大きさで順を決めるのではなく、行き先ごとに受け取る者と必要量を先に決め、足りなければ足りないと伝える」


「それでは、兵の分が遅れます」


 荷を運んできた男が言った。


「兵にも水は要る。だが、ここに並んでいる者にも要る。どちらかを無用だと決めるつもりはない」


 景継は男の荷車を見た。


「その荷は、どこへ運ぶ」


「城内の蔵です」


「運び終えるまで、何人が残る」


「二人です。ほかは次の荷を取りに戻りました」


「なら、戻ってくる者に水を運ぶ役を頼めないか。荷を運ぶついでに、詰所へ届ける分を決めておく。こちらも、診療所へ運ぶ者を決める。井戸の前で声を張り上げるより、運ぶ者を定めたほうが早い」


 男はすぐには答えなかった。


「荷を運ぶのが遅れれば、こちらが叱られます」


「分かっている。だから、運ぶ量と回数を先に決める。荷を運ぶ仕事を止めてまで頼むつもりはない。できるかどうか、戻ってくる者と相談してくれ」


 男は女の方を一度見た。それから、荷車の手綱を握り直した。


「話はしてみます。ただし、約束はできません」


「それでいい」


 男が荷車を動かすと、女も桶を持ち直した。二人の争いは収まったが、井戸の列はすぐには短くならなかった。


 景継は診療所へ戻った。


 入口では、綾が二人の男を待たせていた。一人は肩を押さえ、もう一人は腰のあたりをかばうように立っている。


「荷運びの途中で転んだそうだ。肩の男は腕を上げられない。もう一人は、歩けるが腰を痛めているらしい」


 綾は二人を順に見た。


「先に肩の男を診る。もう一人は、無理に座らせず、楽な姿勢で待たせてある」


「分かった」


 景継は肩を押さえる男へ向き直った。


「転んだとき、どこを打った」


「荷車の横木です。肩をぶつけました」


「頭は打ったか。息苦しさはないか」


「頭は打っていません。息は……少し痛みます」


 景継は男の顔色と呼吸を確かめ、肩の周囲に目を向けた。衣をずらして腫れを見たが、無理に腕を動かさせることはしなかった。骨に異常があるかどうか、ここで確実に言い切ることはできない。胸の痛みも気にかかった。


「痛みが強くなるか、息苦しさが増すなら、すぐに知らせてくれ。腕は動かさず、今は楽な姿勢で休むんだ」


 男はうなずいた。


 次に腰を痛めた男を診た。足先の感覚と動き、腰の痛みがどこまで広がっているかを確かめる。男は立っていられたが、歩くたびに顔をしかめた。


「今日は荷を運ばないことだ。痛みが強くなる、足が動かしにくくなる、しびれが出る。そういう変化があれば、すぐに伝えてくれ」


「しかし、仕事を休めば、次の荷を運ぶ者が足りなくなります」


「今、無理をして動けなくなれば、もっと長く休むことになる」


 男は口を閉じた。納得したのか、仕事を失う不安を飲み込んだのか、景継には分からなかった。


 処置を終えると、小夜が記録を持ってきた。


「二人とも、荷運びの途中で負傷しています。今朝から、同じような訴えがほかにもありました」


「何人だ」


「三人です。ただし、二人は軽い擦り傷で、診療所まで来るほどではありませんでした。綾が聞き取った話も、ここにまとめています」


 小夜は紙を差し出した。負傷した場所、荷の種類、運んでいた時間。まだ記録は少なかったが、どの者も荷を急いで運んでいたことが分かった。


「急がされているのか」


「そうかもしれません。でも、皆が同じ理由とは限りません。荷が増えたからなのか、運ぶ者が減ったからなのか、まだ分かりません」


「そうだな。分からないことは、そのまま残しておこう」


 小夜はうなずき、記録に一行を書き加えた。


 そこへ千代が入ってきた。手には、物資の残りを書き留めた帳面がある。


「布の受け取り先から返事がありました。今日の分は届きます。ただ、明日以降は、運ぶ者を確保できるか分からないそうです」


「荷車が足りないのか」


「荷車だけではありません。人が足りないのです。荷を運ぶ者も、荷を受け取る者も、別の仕事を抱えています。こちらが急いでほしいと頼めば、その分、向こうの仕事が遅れます」


 千代は帳面を開いた。


「水の運搬も、同じことが起きているようです。井戸に水があっても、必要な場所へ運ぶ者がいなければ、届きません」


「今朝、井戸で揉めていた。運ぶ者を決めて、荷を運ぶついでに水も届けられないか、話をしてもらっている」


「それなら、まずは今日だけ試すのがよいでしょう。運ぶ者、行き先、受け取る者、運べる回数を決めておきます。毎日できると約束してしまえば、できなかったときに困ります」


「分かった。今日の結果を見て、明日以降を考えよう」


 千代は帳面に短く記した。


「それから、診療所で使う水を、飲むための水と、器具や手を洗うための水に分けておいた方がよさそうです。今のままでは、何にどれだけ使ったのか分からなくなります」


「そのとおりだ。ただし、洗うための水を減らしすぎて、かえって不潔になっては意味がない」


「では、必要な分を先に見積もりましょう。足りなくなったら、その時点で知らせます」


 景継はうなずいた。


 水を分ける。布を分ける。仕事を分ける。


 何も新しいことではない。だが、誰が何に使うのかを決めなければ、足りないものは声の大きい者から消えていく。


 昼過ぎ、荷車が一台、診療所の裏へ回ってきた。


 荷を運んできたのは、朝に井戸で声を荒らげていた男だった。荷台には布の包みが積まれ、その横に水桶が二つ置かれている。


「戻ってくる者と話をしました。今日は、こちらへ水を運べます。ただし、明日も同じようにできるとは限りません」


「十分だ。助かる」


「礼は、荷を受け取ってからにしてください」


 男はそう言って、荷台から布を下ろし始めた。


 千代が受け取りの数を確かめ、小夜が布の状態を見て記録する。綾は荷を運ぶ男たちの足元に目を配り、無理な持ち方をしている者がいれば声をかけた。景継は水桶を確認し、診療所で使う分を別に置くよう指示した。


 朝には、誰もが自分の必要を訴えていた。


 今も必要なものが満ちたわけではない。水桶は二つだけで、布も明日以降の分まで確保できたわけではなかった。それでも、誰が何を運び、どこへ届けるのかが決まれば、動ける者がいた。


 夕方、景継は水桶の残りを確かめた。


 治療に使った分。飲むために残した分。汚れを落とすために使った分。小夜の記録と千代の帳面を見比べると、思っていたよりも洗浄に使う水が多かった。


「明日は、もう少し多く必要になりそうだな」


 景継が言うと、千代はすぐには答えなかった。


「必要だと分かっても、届くとは限りません」


「分かっている」


「なら、届かなかったとき、何を先にするのかも考えておきましょう」


 景継は帳面から顔を上げた。


 千代の言葉は、冷たいものではなかった。約束できないことを約束しない。その代わり、できなかったときに何が起きるのかを、先に考えておく。


「そうだな。明日の朝、残りを見て決めよう」


 診療所の外では、荷車の音が遠ざかっていった。


 水は届いた。布も届いた。だが、今日うまくいったやり方が、明日も通用する保証はない。


 景継は、桶の底に残った水を見つめた。


 明日、ここへ来る患者の数は、まだ分からなかった。

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