第三十三話 傷病到来
第三十三話 傷病到来
最初に運び込まれた男は、自分の足で歩いていた。
肩を借りてはいたが、顔色は悪くない。左の額に切り傷があり、こめかみから流れた血が頬を伝っている。
「大した傷ではございません。先に、こちらの者を」
男は、後ろから担ぎ込まれた負傷者を振り返った。
戸板の上に横たわる男は、目を閉じていた。着物の裾は土に汚れ、右脚の膝から下が不自然に曲がっている。担ぎ手の一人が、息を切らしながら声を上げた。
「道で倒れていたのです。馬が通ったあとで……。声をかけても、返事がありませんでした」
「いつからですか」
「それは、分かりませぬ。見つけたのは、つい先ほどで」
景継は膝をつき、横たわる男の顔を覗き込んだ。
「名前は」
「知りませぬ。近くの村の者ではないかと」
返事をしながら、担ぎ手の目は戸口へ向いていた。外には、まだ人が待っているらしい。荷を下ろす音と、誰かを呼ぶ声が途切れず聞こえていた。
景継は男の口元へ手を寄せ、呼吸を確かめた。胸は動いている。呼びかけても目を開けない。首元に指を当てると、脈は触れたが、弱く、速かった。
「綾、こちらを頼む。頭と首をなるべく動かさず、呼吸を見てくれ。小夜は、顔色と息の変化を記録してほしい。いつ、何が変わったかもだ」
「分かった」
綾は片膝をつき、男の頭の両側へ手を置いた。片腕だけでは難しい姿勢だったが、すぐに近くの者へ声をかけ、肩と胴を支えるよう指示した。
「そこの二人、頭を動かすな。持ち上げるのは私が合図してからだ。勝手に脚を引っ張るんじゃない」
担ぎ手たちがうなずく。
景継は曲がった脚に目をやった。骨折の可能性が高い。しかし、今はそれだけを見ている場合ではなかった。意識が戻らない理由も、呼吸が弱くなっていないかも、まだ分からない。
「千代、清潔な布と、湯を用意してくれ。使った布を分ける場所も要る。足りなければ、足りないとすぐに知らせてほしい」
「承知しました」
千代は返事をすると、戸口に立つ若者へ向き直った。
「あなた、手を洗ってからこちらへ。運んできた方々も、次の人を運ぶ前に手を洗ってください。水はここへ置きます。飲むための水と、手当てに使う水を一緒にしないでください」
「そんな暇があるのか」
若者の声には苛立ちがあった。
「次々に運ばれてくるのです。いちいち手を洗っていては、間に合わなくなります」
「汚れた手で傷に触れれば、助けられるはずの人まで悪くすることがあります」
千代は声を荒らげなかった。
「だから、ここで洗ってから次へ進めるようにします。あなたが一人ずつ水場を探す必要はありません」
若者は言い返しかけ、戸口の外から聞こえたうめき声に口を閉じた。
景継は、男の呼吸をもう一度確かめた。
まだ、間に合うかもしれない。
だが、何をすれば必ず助かるという段階ではなかった。
*
昼を過ぎるころには、手当てを待つ者が部屋の外まで並んでいた。
腕を切った足軽。荷車から落ちて腰を打った老人。額を割った若者。歩ける者もいれば、肩を借りなければ立てない者もいた。
傷の大きさだけでは、順番を決められなかった。
「先生、こちらの者は血が止まりませぬ」
布を腕に巻いた足軽が、別の男を連れてきた。巻かれた布の端から、赤いものが滲んでいる。
景継はすぐに男を座らせた。傷は前腕にあった。刃物で深く切られている。布を外すと、傷口から血が流れ出した。
「ここを強く押さえてください。傷の上から、手を離さないように」
景継が指示すると、付き添っていた足軽はためらった。
「ですが、傷の中に何か入っているようで……」
「今は、血を止めることが先です。中を探ろうとして、指を入れないでください」
景継は清潔な布を重ね、傷口を圧迫した。男の顔から血の気が引いている。唇も白くなり始めていた。
「いつ切った」
「朝でございます。敵の姿を見て、逃げる途中で……」
「それから、どれほど歩いた」
「半刻ほどかと」
景継は、男の手の冷たさを確かめた。
傷そのものだけでなく、失った血の量が問題だった。圧迫を続けながら、呼吸と受け答えを確認する。すぐに血が止まるとは限らない。傷の奥に大きな血管の損傷があれば、手元の処置だけでは足りない可能性もある。
「綾、こちらを頼めるか。圧迫を続けて、意識と顔色を見てほしい。変化があれば、すぐに呼んでくれ」
「分かった。お前は?」
「ほかの者を見る」
景継が立ち上がろうとしたとき、戸口で声が上がった。
「この者を先にしてくだされ!」
小夜が、外から連れてこられた男の前に立っていた。
男は自分の足で立っていたが、片手で腹を押さえていた。着物に血は見えない。顔には苦痛が浮かんでいたものの、声を出す余裕はあるらしい。
「どこを打ちましたか」
小夜が尋ねた。
「荷車にぶつかっただけだ。大したことはない」
男はそう言いながら、腹を押さえる手に力を込めた。
「ぶつかったのは、いつですか」
「今朝だ」
「それから、痛みは強くなっていますか」
男は答えなかった。
小夜は景継を見た。
「最初は歩いていたそうです。でも、ここへ来るまでに、何度も立ち止まっています。痛む場所も、少しずつ変わっていると」
景継は男の顔を見た。
「腹を見せてください。触れますが、痛みが強くなるときは言ってください」
男は渋々とうなずいた。
衣を緩め、腹部を確かめる。目立つ傷はない。だが、右の脇腹を軽く押しただけで、男の顔が歪んだ。腹の内側で何が起きているのか、この場で断定することはできない。
「横になってください。今は歩かないで」
「だが、家へ戻らねば……」
「戻るのは、状態を確かめてからです。今、無理に歩いてよくなるとは限りません」
男は不満そうに景継を見たが、立ち上がろうとはしなかった。
小夜は男のそばに座り、痛みの場所と強さ、息の様子を確かめ始めた。景継が次の患者へ移ろうとすると、彼女が声をかけた。
「景継様。こちらの者は、あとで必ずもう一度見てください。今は話せていますが、さきほどより顔色が悪くなっています」
「分かった。変化があれば、すぐに知らせてくれ」
小夜はうなずき、男のそばを離れなかった。
景継は、その背中を一瞬だけ見た。
彼女は、判断を誰かに預けているのではない。自分が見たことを伝え、その先の責任を引き受けようとしていた。
*
夕刻、千代が帳面を持ってきた。
「布が、今日だけでかなり減りました」
景継は、手当てを終えたばかりの患者から目を離した。
「どれほど残っている」
「今夜の分までは、何とか。ですが、明日も同じ数が運ばれてくれば足りません。洗って再び使えるものと、血や汚れがひどく、傷に当てるには不安が残るものを分けています」
「洗えば、すべて使えるわけではないな」
「はい。水も薪も要ります。乾かす場所も必要です。布だけを数えても、足りるかどうかは分かりません」
千代は帳面を開いた。
そこには、持ち込まれた布の数、使用した数、洗いに回した数が記されていた。すべてが正確とは限らない。それでも、何がどれほど減っているかを知らずに使い続けるよりは、次の手を考えられる。
「明朝までに、使える布をもう一度確かめます。近くの者にも声をかけますが、どれだけ集まるかは分かりません」
「頼む。ただし、無理に取り上げるな。向こうにも必要なものがある」
「分かっています。こちらが必要だからといって、相手の暮らしまで止めるわけにはいきません」
千代は帳面を閉じた。
「それと、運び込まれる人が増えたため、手当てを待つ場所が足りません。重い者と、歩ける者を同じところに寝かせると、出入りも難しくなります」
「場所を分けよう。歩ける者には、状態を確かめたうえで別の場所で待ってもらう。ただし、急に悪くなる者を見逃さないよう、誰が何を見ているか決めておく」
「綾に相談します。人を置ける場所も、あの人なら見当がつくでしょう」
千代が去ると、景継は室内を見渡した。
横たわる者。座って待つ者。傷を押さえながら、家族の名を尋ねる者。
助けを求める声は絶えない。
景継は、すべての声にすぐ答えたかった。だが、目の前の一人に時間をかければ、別の一人を待たせることになる。早く済ませようとすれば、見落とす危険が増す。
どちらを選んでも、責任は残った。
「景継」
綾が呼んだ。
振り返ると、昼に運び込まれた男のそばにいた。男の目は、まだ閉じられたままだった。
「息は続いている。だが、呼びかけても反応がない。脚も腫れてきた」
「分かった。今、見る」
景継は男のもとへ戻り、呼吸を確かめた。胸の動きは浅い。脈も速いままだった。脚の腫れだけでなく、意識が戻らないことが気にかかる。
確かなことは少なかった。
それでも、確かめるべきことは残っている。
「小夜、記録を続けてくれ。前に見たときと違うところを、分かる範囲で書いてほしい」
「はい」
「綾は、運んできた者たちに、見つけた場所と時刻をもう一度聞いてくれ。分からないことは、分からないままでいい」
「分かった」
景継は、男の顔を覗き込んだ。
「聞こえますか。目を開けられますか」
返事はなかった。
外では、また新たな足音が近づいていた。
戸口に立った若者が、息を切らして告げた。
「先生、次の者たちが着きました。今度は、子供もおります」
景継は立ち上がった。
「どこを負傷している」
「それが……。傷を負った者ばかりではないのです。何人かは、歩けなくなっていて」
若者は言葉を切り、戸口の外を振り返った。
「村から逃げてきた者たちだそうです。家を出てから、ほとんど何も食べていないと」
景継は、手元の布を置いた。
傷を診るだけでは、足りない。
今度は、傷のない者たちにも、何が起きているのかを確かめなければならなかった。




