第三十二話 備蓄不足
第三十二話 備蓄不足
布を広げた千代の手が止まった。
畳の上に並べられた反物は、どれも長さが揃っていない。端のほつれたもの、染みの残るもの、何度も洗われて薄くなったもの。使える布を選り分けるたび、山は目に見えて小さくなっていった。
「これで、どれほど持ちますか」
景継が尋ねると、千代はすぐには答えなかった。
手元の布を一枚持ち上げ、透かすように光へかざす。指の間から、向こうの障子の明るさがわずかに滲んだ。
「今までと同じ人数なら、しばらくは。けれど、これから怪我人が増えるのであれば……」
「足りない、ということだな」
「はい。布だけではございません。洗う水も、煮炊きの薪も、運ぶ者の手も要ります」
千代は、残った布を畳み直した。
「足りないと分かっているからといって、今日の分まで惜しめば、今ここにいる者の手当てができません。かといって、全部を使えば、明日運び込まれる者に渡せなくなります」
景継は、並べられた布を見下ろした。
どれも、ただの布ではない。傷を覆うもの、血を拭うもの、患者の身体を支えるもの。使い方を誤れば、同じ一枚でも役目を果たせなくなる。
だが、何にでも使えるほどの量はなかった。
「まず、今ある分を分けよう。傷に直接当てるものと、汚れを拭うもの。洗って再び使えるものと、そうでないものも分けておく」
「それで足りますか」
千代の声に、責める響きはなかった。
景継は顔を上げた。
「足りるとは言えない。だから、何に使ったかを残す。どれだけ使い、どれだけ戻り、何が失われたか。それが分からなければ、次に何を求めるべきかも決められない」
千代は小さく頷き、そばに置いていた帳面を開いた。
そのとき、廊下から足音が近づいた。
「景継殿。外から人が来ています」
小夜だった。手には、使い古した布を包んだ風呂敷を持っている。
「怪我人か」
「いえ。村の女です。夫が腕を傷めたので、診てほしいと。ですが、ここへ連れてくることはできないそうです」
「どうしてだ」
「田から戻れない、と」
小夜は言葉を切った。
「夫を置いて来られないのだそうです。家には子供もいると」
景継は、立ち上がりかけた膝を止めた。
腕の傷を診ることはできる。だが、患者が来られないなら、こちらから出向くしかない。出向けば、その間はこの場を離れることになる。
「どの辺りだ」
小夜が地名を告げる。城から遠すぎる場所ではなかった。しかし、往復して診察を終えれば、半日は費やすだろう。
景継は千代を見た。
「今、ここを任せられる者はいるか」
「軽い傷の者なら、綾殿が様子を見ています。ただ、今日運ばれてきた者の中には、まだ目を離せない方もいます」
綾が片腕で何もかもできるわけではない。それでも、患者の様子を見て、変化があれば知らせることはできる。だが、任せる範囲を誤れば、綾自身に無理を強いることになる。
「綾殿に、今の患者の状態を聞こう。俺が出るかどうかは、それから決める」
「私も行きます」
小夜が言った。
景継は彼女を見た。
「患者の様子を見て、こちらへ戻って伝える役目が要る。傷の場所、出血の具合、腫れ、熱があるか。見たことと、分からないことを分けて話してくれ」
「分かりました」
小夜は、風呂敷を抱え直した。
「それと、布を少し持っていきます。傷に使えるかどうかは、景継殿に見てもらいます」
「頼む」
小夜が出ていくと、千代は帳面に新しい項目を書き足した。
「村へ出向く分も、記しておきます。戻らなかった布も、戻った布も」
「そうしてくれ」
景継は立ち上がり、綾のいる部屋へ向かった。
綾は、横になった男の足元に座り、包帯代わりに巻いた布の緩みを確かめていた。片手で結び目を押さえ、歯を使って端を引く。男が痛みに顔をしかめると、綾はすぐに手を止めた。
「痛むなら言え。黙っていれば分からない」
「すみません」
「謝ることじゃない」
綾は男の顔色を見てから、景継へ目を向けた。
「今のところ、急に悪くなった者はいない。ただ、熱が出ている者が一人いる。朝より息が荒い。水は飲めているが、あまり食べていない」
「あとで俺が診る。ほかは?」
「二人は自分で歩ける。ただし、無理に動かすと傷が開きそうだ。もう一人は、起き上がると目が回ると言っている」
綾は、患者のそばに置かれた水椀を指した。
「水を飲ませる者と、傷を見る者が同じだと、片方を見落とす。だから、私は水を運ぶ者に、飲めたかどうかも聞くようにした。返事が曖昧なら、もう一度確かめる」
景継は、男の呼吸を見ながら頷いた。
「そのやり方で続けてくれ。熱のある者は、ほかの者と少し離しておこう。原因が分からないうちは、同じ椀や布を使わせない。俺が戻るまでに変化があれば、時刻と様子を小夜に伝えてくれ。伝聞と、自分で見たことは分けておく」
「分かった」
綾は迷わず答えた。
「それで、どこへ行く」
「村の負傷者を診に行くかもしれない。戻るまで、ここを頼みたい」
「分かった。ただし、私一人で全員を見ることはできない。熱のある者と、起き上がると目が回る者は、誰がいつ様子を見るか決めておく。悪くなった者がいれば、すぐ呼びに行かせる」
「それでいい」
景継は、綾の前に膝をついた。
「無理をして一人で抱えないでくれ」
綾は一瞬、目を細めた。
「それは、こちらの台詞だ」
返す言葉がなく、景継は短く息を吐いた。
綾は視線を患者へ戻した。景継も、それ以上は言わなかった。
外へ出ると、城下の道を荷を担いだ男が急ぎ足で通り過ぎていった。背負った籠の中には、米俵ではなく、畳んだ筵と縄が積まれている。通りの先では、女たちが井戸端に集まり、いつもより少ない声で話していた。
戦が始まる前から、人々の暮らしは変わり始めている。
景継は、それを止めることはできない。だが、何が足りなくなるのかを見落とさず、足りないものを誰に、どのように回すかを決めることはできる。
小夜が戻ってきたのは、しばらくしてからだった。
息を整えながら、彼女は見たことを一つずつ伝えた。
「夫の左腕です。手首から肘の間が腫れています。布で巻いてありましたが、血が滲んでいました。指は動かせます。ただ、握ろうとすると痛むそうです」
「傷は深そうだったか」
「布を外していないので、分かりません。本人は、昨日、荷を運んでいるときに転んだと言っています。熱はないそうですが、顔色は悪く、食事もあまり取れていないと」
小夜はそこで一度、言葉を止めた。
「私が見たのは、そこまでです。傷の中までは分かりません」
「それでいい。見ていないことを、見たように言わないのは大切だ」
小夜は、わずかに肩の力を抜いた。
「その人は、ここへ来るのを嫌がっているのではありません。夫を一人にできないのです。子供も、家にいるそうです」
景継は、しばらく考えた。
診察に出向けば、ここを離れる。だが、放っておけば、傷が悪化しても気づくのが遅れるかもしれない。本人が歩けるかどうかも、傷の深さも、まだ分からない。
「小夜。もう一度、村へ行ってくれるか。今度は、本人に腕を見せてもらいたい。無理に布を剥がさず、本人ができる範囲でいい。指が動くか、手の色が左右で違わないか、腫れが広がっていないかも見てほしい」
「はい」
「危険そうなら、その場で待っていてくれ。俺が行く。歩けるかどうかも確かめてくれ。動かせば悪くなる傷もある」
小夜は頷いた。
「分かりました。今度は、見たことを順に伝えます」
彼女が再び出ていくと、千代が帳面を閉じた。
「布は、今ある分を分け終えました。傷に直接使うものは、むやみに減らせません。ただ、村から戻った布を洗い、使えるものだけを選び直すことはできます」
「頼む。ただし、汚れた布をそのまま使い回さないでくれ」
「承知しています。洗う水も別に用意します」
千代は帳面を抱えたまま、戸口へ向かった。
「もう一つ、お願いがあります」
「何だ」
「今後、誰が何を持ってきたのか、分かるようにしたいのです。布を出してくれた者にも、運んでくれた者にも、何が戻ったのか伝えられるように。そうでなければ、次に頼むとき、相手は引き受けてよいのか判断できません」
景継は頷いた。
「その通りだ。頼んだ物だけでなく、返せた物も記そう」
千代は、ようやく少しだけ表情を和らげた。
その日の暮れ、村から戻った小夜は、景継に短く報告した。
「傷の周りは赤くなっています。腫れもあります。指は動きますが、手の甲が反対の手より冷たく感じました。本人は、腕を動かすと痛むと言っています」
景継の表情が変わった。
「手の色は?」
「少し白く見えました。日が傾いていたので、確かではありません。ただ、左右で違いがあるように思いました」
それだけで、傷の状態を断定することはできない。だが、腫れと痛みだけでなく、手の冷たさや色の違いがあるなら、放置してよいとは言えなかった。
「今から行く」
景継は道具をまとめた。小夜も立ち上がろうとしたが、彼は首を振った。
「ここに残ってくれ。綾と千代に、村へ行くことを伝えてほしい。戻る時刻は約束できない。患者の様子によっては、夜までかかる」
「分かりました」
小夜は、すぐに動いた。
景継が戸口を出ると、夕暮れの道に長い影が伸びていた。村へ続く道の先では、荷を運ぶ人々がまだ行き交っている。誰もが、明日も暮らしを続けるために手を動かしていた。
その中で、腕を傷めた男は、家族を置いてここへ来ることさえできずにいる。
景継は歩みを速めた。
布は足りない。人手も足りない。自分が一人で動ける時間にも限りがある。
それでも、今見なければならない傷がある。
そして、彼が村へ向かったあとも、城の中では綾が患者を見て、小夜が変化を伝え、千代が残った布と水を数えている。
景継は、振り返らなかった。




