第三十一話 戦雲到来
第三十一話 戦雲到来
朝から、街道を行き交う人の数が増えていた。
荷を背負った者。馬を引く者。道の端に寄り、急ぎ足の武士を見送る者。いつもなら荷車の音が途切れる時間になっても、車輪の軋みは遠くから絶えず聞こえてきた。
景継は診療所の戸口に立ち、街道を眺めていた。
荷車の一台が、道の窪みに車輪を取られた。後ろから押していた男が声を上げ、前にいた者が振り返る。しばらくして車輪は動き出したが、荷を引く馬は首を振り、荒い息を吐いていた。
荷台には、米俵が積まれている。
その後ろを、武具を背負った若者が二人、足早に通り過ぎていった。
「増えましたね」
千代が、景継の隣へ来た。
「ああ」
「荷も、人もです。昨日までは、これほどではありませんでした」
千代は街道の先を見た。荷車の列は、遠くの曲がり角まで続いている。だが、積んでいるものは米ばかりではなかった。縄や木材、布を包んだ荷も見える。何かを運び込む者がいる一方、荷を背負って城下から離れていく者もいた。
「どこへ向かう荷か、確かめておきます。こちらへ回せるものがあるかもしれません。ただし、売ってもらえるかは別です」
「頼む。無理に引き留めなくていい」
「分かっています」
千代は短く答え、帳面を抱え直した。
街道の人波は、ただ増えただけではなかった。急ぐ者と、立ち止まらざるを得ない者が同じ道を使っている。荷車が一台止まれば、その後ろにいた者たちも足を緩めた。道を譲るために荷を端へ寄せれば、今度は馬が通れなくなる。
景継は、さきほど車輪を取られた窪みを見た。
あの場所で、戸板に患者を乗せて通ろうとすれば、どうなるか。
考えをまとめる前に、道の向こうから男が駆けてきた。
肩で息をし、額には汗が浮かんでいる。着物の裾には泥が跳ね、片方の草履は鼻緒が切れかけていた。
「医者は、ここか!」
「そうだ。どうした」
「怪我人だ。街道で倒れた者がいる。すぐに来てくれ」
「どこを怪我した」
「それが……」
男は言葉を切った。何かを説明しようとして、うまく息が整わないらしい。
「歩けるのか。意識はあるのか」
「意識はある。だが、立てぬ。腕から血が出ている」
「誰か一緒にいるか」
「荷を運んでいた者が二人。ひとりは怪我人についている」
景継は診療所の奥へ顔を向けた。
「綾!」
「聞こえている」
返事とともに、綾が姿を現した。左手には、折り畳んだ戸板の脇に置いていた縄を持っている。
「街道のどこだ」
「西へ少し行ったところです。荷車が止まっている場所の先で……」
「分かった。案内しろ」
綾は男の足元を見た。
「その草履では走れないだろう。無理に先へ行かなくていい。道を知っている者をもう一人、呼んでくれ」
「しかし、早くしなければ」
「急ぐことと、途中で倒れることは違う。道を知る者がいれば、そちらを先に行かせられる」
男は一瞬ためらったが、やがて近くにいた若者へ声をかけた。若者が駆け出すのを見届けると、綾は戸板を運ぶための人手を確かめ始めた。
景継は手元の布と道具を確認した。出血があるなら、まず傷を押さえるものが要る。水も持っていく。運び込まれた患者の状態によっては、診療所へ戻るまで待てないかもしれない。
「小夜、来てくれ。患者の顔色と呼吸を見てほしい。傷だけで判断しないように」
「はい」
小夜は、手にしていた記録を棚へ置いた。何を持っていくかを確かめ、必要なものを包みにまとめる。景継が言い終わる前に動き始めたが、急いでいるからといって、持ち出す物を確かめずに詰め込むことはなかった。
「布は、これだけでよろしいですか」
小夜が包みを持ち上げた。
「まずはそれでいい。余分に持てば、ここに残る患者に使う分が減る。足りなければ、状況を見て考える」
「分かりました」
小夜は包みの口を結んだ。持ち出す分と残す分を、帳面にも記しておく。
綾は運搬に使う戸板を若者たちに持たせ、前後の役割を決めた。
「患者を乗せたら、足元の段差を先に知らせろ。持ち上げるときは合図を待つ。途中で痛みが強くなったり、息が苦しくなったりしたら、すぐに言うんだ。黙って運び続けるな」
若者の一人がうなずいた。
「分かりました」
「分かっただけでは足りない。分からなくなったら、止まって聞け」
綾はそう言って、街道へ向かった。
*
怪我人は、道端に敷かれた筵の上に横たわっていた。
三十歳ほどの男だった。左腕を胸の前に抱え、歯を食いしばっている。肘の近くから前腕にかけて布が巻かれていたが、すでに血が染み出していた。
傍らには、荷を積んだ小さな荷車が止まっている。荷台の縄が一本切れ、積んでいた包みが傾いていた。
「名は」
景継が膝をついて尋ねると、男は顔を上げた。
「……弥平です」
「弥平、聞こえるか。気が遠くなりそうか」
「少し、くらくらします」
「息苦しさは」
「ありません。腕が……痛むだけで」
景継は顔色を見て、呼吸を確かめた。手首に触れる。脈は速かった。痛みや恐怖もあるだろうが、出血が続いている以上、安心はできない。
「いつ怪我をした」
「荷を下ろそうとしたときです。車輪が石に当たって、荷が崩れました。縄を直そうとして……」
「刃物で切ったのか」
「荷の下に、折れた金具がありました」
景継は巻かれた布の周囲を確かめた。傷は長く、深さは一目では分からない。布を無理に剥がせば、押さえられていた出血が再び強くなるおそれがある。
「まず、ここを押さえ続ける。腕を無理に動かさないでくれ」
景継は傷を覆う布の上から圧迫を続けるよう指示した。小夜が患者の顔色を見ながら、呼吸の変化を確かめる。
「先ほどより、顔色が白いように見えます」
「分かった。呼びかけへの返事も見ていてくれ」
「はい」
景継は傷の周囲を確かめ、布を取り替える必要があるかを見極めた。出血は続いているが、勢いが急に増した様子はない。まずは圧迫を保ち、腕を動かさずに診療所へ運ぶのがよさそうだった。
「ここから診療所まで、どれくらいだ」
景継が尋ねると、案内してきた男が答えた。
「歩けば、そう遠くはありません。ただ、今日は荷車が多く、道が詰まっております」
景継は街道を見た。
確かに、荷車が行き交うたびに人が道の端へ寄り、狭い場所では立ち止まって譲り合っている。戸板を運べば、途中で何度も足を止めることになるだろう。
「綾、先に道を確かめてくれ。荷車を無理に動かさせず、人が通れる場所を作ってほしい」
「分かった」
綾は片腕でできる範囲を見極めながら、近くにいた者たちへ声をかけた。荷車を引く者には、車輪を道の端へ寄せられるかを尋ねる。動かせない荷車はそのままにし、別の場所から通れる道を探す。
その指示に、すぐ従わない者もいた。
「こちらも急いでいるんだ。荷を止めるわけにはいかぬ」
「止めろとは言っていない。動かせるかどうかを聞いている」
綾は声を荒らげなかった。
「この者を運ぶ間だけ、通り道を空けてほしい。お前たちの荷を傷つけるつもりはない」
荷車の男は、戸板と弥平を見比べた。しばらくして、手綱を引き直す。
「少しなら寄せられる。ただし、荷を崩したら、こちらでは責任を持てぬぞ」
「分かった。荷には触れない」
綾は約束し、運搬する者たちへ道を示した。
道を空ける間、別の荷車が後ろから近づいてきた。御者らしい男が何か言いかけたが、前の荷車が動けないと知ると、舌打ちして手綱を引いた。
「いつまで止まっていればいい」
「戸板が通るまでだ。通ったら知らせる」
綾はそう答え、道の先を確かめた。狭い場所を抜けた先にも窪みがある。そこを越えるときは、戸板を持つ者たちに足を止めさせる必要があった。
やがて戸板が持ち上げられた。景継は弥平の腕が揺れないよう支え、小夜は顔色と呼吸を見続けた。道の段差を越えるたび、運ぶ者たちの足が止まる。時間はかかったが、無理に急がせることはしなかった。
診療所へ戻るころには、弥平の額に汗が浮かんでいた。
「少し、気持ちが悪い……」
「分かった。無理に話さなくていい。呼びかけには返事をしてくれ」
景継は患者を寝かせ、改めて傷と全身の状態を確かめた。出血を抑えながら、傷の深さや腕の動きを見ていく。折れた金具がどのように当たったのか、内部に損傷があるかまでは、まだ分からない。
できることを一つずつ進めるしかなかった。
*
処置がひと区切りついたころ、千代が診療所へ戻ってきた。
「弥平殿の荷ですが、届け先は分かりました。ただ、荷を運ぶ者をすぐには見つけられませんでした」
「荷主には連絡できたか」
「使いの者を出しました。いつ返事が来るかは分かりません。こちらで勝手に別の者へ頼めば、運賃や荷の扱いで揉めるおそれもあります」
「そうか」
景継は弥平を見た。男は目を閉じているが、呼びかけには返事をした。出血は先ほどより落ち着いている。だが、すぐに仕事へ戻れる状態ではない。
弥平は、景継の視線に気づいたように目を開けた。
「荷は……」
「届け先には使いを出した。今は傷を治すことを考えてくれ」
「けれど、約束した日が……」
「分かっている。だが、お前が無理に動いて傷を悪くすれば、もっと長く働けなくなるかもしれない」
弥平は唇を噛んだ。
景継は、それ以上は言わなかった。休めと言うだけで、弥平が抱えている問題は消えない。荷を届けられなければ、信用を失うかもしれない。代わりを頼める者がいなければ、仕事そのものを失う可能性もある。
千代が、荷の控えを書き留めた紙を景継へ渡した。
「荷の中身と、届け先、約束の日をまとめました。返事が来たら、こちらからできることを考えます。ただし、運ぶ者が見つからなければ、今日中に届けるのは難しいでしょう」
「ありがとう。返事が来たら知らせてくれ」
「はい」
千代は帳面を開き、使った布と残りの数を記した。今回の処置で使った分だけでなく、洗って再利用できるか確かめるものも分けてある。
「清潔な布は、また減りました。次の荷がいつ届くか、先方もはっきりとは答えてくれませんでした」
「今ある分で、どこまでできるか確認しておこう」
「分かりました。ですが、景継様。今後、患者が増えれば、今のやり方では追いつかなくなるかもしれません」
千代の言葉に、景継はうなずいた。
「そのときは、何を先にするか相談する。足りないものを、足りることにはできないからな」
千代は少しだけ表情を和らげた。
「そうしていただけると助かります」
小夜が、弥平の経過を書いた紙を持ってきた。
「呼びかけへの返事はあります。顔色はまだ白いですが、先ほどよりは落ち着いています。ただ、腕の痛みは続いています」
「ありがとう。引き続き、変化を見ていてくれ」
「はい。交代する者も決めておきます。一人だけでは、夜まで見続けられませんから」
小夜はそう言って、誰に見守りを頼めるか考え始めた。
景継はその様子を見ていた。
以前なら、彼女は自分の判断が正しいかを尋ねていたかもしれない。今は、自分が見たことを伝え、必要な手順を自分で考えている。まだ分からないことはある。それでも、分からないからといって、何も言わずにいるわけではなかった。
綾も、運搬に関わった者たちから話を聞いていた。どこで戸板が止まり、どの場所で道が狭くなったのか。誰が荷車を動かし、誰が患者を支えたのか。次に同じことが起きたとき、少しでも早く運べるように確かめている。道を空けた場所だけでなく、動かせなかった荷車の位置も書き留めた。次に同じ道を使うとき、そこを避けるためだった。
「次は、戸板を出す前に道を見に行く者を決めておく。荷車が詰まっている場所だけでなく、窪みと、荷車を動かせない場所も知らせてもらう。運ぶ者が行ってから立ち止まらずに済む」
綾が言った。
「ただし、道を空けるために荷を壊したり、無理に動かしたりはしない。急いでいるのはこちらだけではないからな」
「分かっている」
景継は答えた。
四人がそれぞれ動いても、診療所の仕事がなくなるわけではない。
布は減った。弥平が仕事へ戻れる時期は分からない。荷主から返事が来る保証もない。道を行き交う人の数は、朝よりさらに増えていた。
景継は戸口へ出た。
街道の先から、武具を積んだ荷車が二台、ゆっくりと近づいてくる。その後ろには、家財を背負った女と子供の姿があった。女は何度も後ろを振り返りながら歩いている。子供は疲れたのか、母親の袖を引いていた。
そのさらに向こうから、馬に乗った武士が駆けてきた。
人々が道を空ける。馬は診療所の前を通り過ぎようとしたが、乗り手は手綱を引き、急に足を止めた。
「この辺りに、傷を診る者がいると聞いた」
「ここだ」
景継が答えると、武士は馬上から見下ろした。
「小田原へ向かう者たちが増えている。道中で倒れる者も出るだろう。怪我人が運び込まれたとき、受け入れられるか」
景継はすぐには答えなかった。
診療所には、弥平がいる。ほかにも、経過を見なければならない患者がいた。清潔な布も、人手も限られている。受け入れられるかと問われても、何人でも受け入れるとは言えなかった。
「状態を見て、できる限りの手当てはする。ただし、何人でも、どんな怪我でも、必ず助けられるとは約束できない」
武士は不満そうに眉を寄せた。
「それでは困る。これから、もっと人が来るのだ」
「だからこそ、できることを確かめておきたい。患者を運ぶ者、手当てをする者、見守る者がいなければ、受け入れたとしても十分な処置はできない」
武士は黙った。
景継は、彼が何をどこまで知っているのか分からなかった。どこから来たのか、どの軍に属しているのか。今は、それを問い詰めるよりも、目の前の仕事に必要な情報を確かめるべきだった。
「怪我人が出たら、まず、どこを傷めたか、意識があるか、出血が続いているかを伝えてくれ。運べない者がいるなら、その場で無理に動かさず、知らせてほしい」
武士は景継を見つめたあと、短くうなずいた。
「分かった。伝えておこう」
「それから、どこで見つけたのかも頼む。道が塞がっているなら、その場所を先に知らせてくれ。こちらから迎えに出るにしても、道が分からなければ動けない」
「承知した」
馬の向きを変え、再び街道へ走り出す。
景継はその背を見送った。
戦が始まれば、怪我人は増えるだろう。だが、いつ、どこで、どれほどの者が運ばれてくるのかは分からない。今のうちに備えなければならないことは多い。それでも、すべてを先回りして用意することはできなかった。
「景継」
振り返ると、綾が立っていた。
「今の話、聞いていたか」
「ああ」
「これから患者が増える。運ぶ者も、手当てをする者も足りなくなるかもしれない」
「そうだな」
「なら、今日のうちに決めておくことがある。誰が戸板を用意するか。誰が道を空けるか。誰が患者の様子を見るか。全員が何でもできるわけではないが、何を頼めるかは確かめられる」
綾は、街道へ目を向けた。
「私は、運ぶ者たちの役割を整理する。できないことまで引き受けるつもりはない。だが、動ける者がいるのに、誰が何をするか分からず立ち尽くすのは避けたい」
「頼む」
「それから、景継。お前も、分からないことは分からないと言え。何人来るか分からないのに、全部受け入れると約束するな」
「分かっている」
「本当に?」
景継は、わずかに苦笑した。
「……気をつける」
「気をつけるだけでは足りないと言ったはずだ」
「そうだったな。必要なことは、先に相談する」
綾はうなずいた。
診療所の中から、小夜が呼ぶ声がした。弥平が目を覚まし、水を求めているという。
景継はすぐに戸口を離れた。
外では、荷車の列が途切れずに続いていた。誰もが自分の荷を運び、約束を果たし、家族のもとへ帰ろうとしている。道を急ぐ理由は、それぞれにある。
その道の先で、何が起きているのか。
景継には、まだ分からなかった。
ただ、今日から先、診療所へ運ばれてくる者の数が、今までと同じでは済まないことだけは分かっていた。
彼は弥平のいる部屋へ戻り、枕元に膝をついた。
「弥平、聞こえるか」
「……はい」
「もう一度、腕の具合を確かめる。痛みが変わったら、すぐに言ってくれ」
景継は患者の顔色を見て、呼吸を確かめた。
戸の向こうでは、綾が人を集め、小夜が交代の手順を考え、千代が物資の帳面を開いている。街道では、誰かが荷を運び、誰かが道を譲り、誰かが急ぎ足で先へ向かっていた。
戦の行方を変えることはできないかもしれない。
それでも、ここで何をするかは、まだ自分たちで決められる。
景継は、傷を覆う布へ目を落とした。
次に戸口を叩く者が、どのような状態で運ばれてくるのかは分からない。
だからこそ、今いる患者の様子を見続けることから、手を離すわけにはいかなかった。




