第三十話 家族の約束
第三十話 家族の約束
夕刻、診療所の庭に長い影が伸びていた。
昼間に運び込まれた負傷者のうち、歩ける者はそれぞれの家へ帰り、動けない者は奥の部屋で休んでいる。使い終えた道具は洗われ、布は仕分けられていた。千代が数え直した物資の帳面も、棚の脇に置かれている。
景継はその帳面を閉じた。
足りないものは、まだ多い。布も薬種も、思うようには集まらない。人手も十分ではなかった。ひとつの問題を片づければ、別の場所に無理が出る。今日の診療でも、四人の意見が最後まで一致しなかったことがある。
それでも、誰か一人の判断だけで押し切らずに済んだ。
景継は帳面を棚へ戻し、庭へ出た。
縁側には綾が座っていた。失った右腕の袖が風に揺れている。左手で湯呑みを持ち、庭の向こうを眺めていた。
「終わったのか」
「ひとまずは」
「ひとまず、か」
綾は口元をわずかに緩めた。
「お前は、いつもそう言うな。治ったとは言わない。足りたとも言わない」
「言い切れるだけのことが、まだないからな」
「そういうところは、嫌いじゃない」
景継は綾の隣に腰を下ろした。
以前なら、綾は景継が近づくと、わずかに身を引くことがあった。今も、すべてを預けるような様子ではない。だが、隣に座ることを拒みもしなかった。
「昼のことだが」
景継が切り出すと、綾は湯呑みを置いた。
「物資の分け方か」
「ああ。お前の言うとおり、あの場に人を残さなければ、運び込まれた者を安全に動かせなかった」
「小夜の言うとおり、あの男の息の変化も見逃せなかった。千代の言うとおり、布を使い切れば、次の傷を手当てできなくなる」
「だから、どれか一つだけを選ぶのは難しかった」
「難しかったから、お前は黙って考え込んだ。こっちは返事を待っていたんだぞ」
綾の声には、責める響きがあった。
景継は言い返さなかった。あのとき、自分は最善の答えを探すことに気を取られ、判断を待つ者たちに何も伝えていなかった。
「悪かった。考えていることを伝えるべきだった」
「そうだ。お前が迷うのは構わない。迷っていることまで隠されたら、こちらは動きようがない」
綾は湯呑みを取り上げ、残っていた茶を飲んだ。
「私は、お前に守られるだけのつもりはない。腕を失ったからといって、何もできなくなったわけじゃない。それは、お前も分かっているだろう」
「分かっている」
「なら、分かっているように扱え」
景継は綾を見た。
彼女が求めているのは、できないことを忘れてもらうことではない。できることまで奪われないことだった。
「次からは、判断を任せるところをはっきりさせる。危険があるなら、危険も伝える」
「私も、任されたからといって、何でもできるとは言わない。無理なことは無理だと言う」
「頼む」
綾は小さくうなずいた。
そこへ、小夜が庭を横切ってきた。手には、今日の患者の経過を書き留めた紙がある。景継の前に差し出す前に、彼女は一度目を通し、記した時刻を確かめた。
「昼の患者ですが、息は落ち着いています。まだ歩かせないほうがよいと思います。傷の痛みが強くなるようなら、もう一度見たほうがいいでしょう」
「分かった。夜のうちに変化があったら知らせてくれ」
「私が見ておきます。ただ、ずっと一人で見張るのは無理です。交代できる者を決めておきたいです」
「そうしよう」
小夜は紙を景継へ渡した。以前なら、報告の最後に「私の判断でよいのでしょうか」と付け加えていたかもしれない。今は、自分が見たことと、そこから考えたことを分けて伝えている。
景継が紙を確かめる間、小夜は綾の隣に腰を下ろした。
「また、何か話していたのですか」
「昼のことだ。景継が考え込んで、皆を待たせた」
「それは困りますね」
「小夜まで言うのか」
「私も待っていましたから」
小夜は真面目な顔で答えたが、目元には笑みがあった。
景継は苦笑した。
「次からは気をつける」
「次があると決めているのですね」
小夜の言葉に、三人の間に短い沈黙が落ちた。
次がある。明日も患者が来る。明後日も、何かが足りなくなる。今までのように、目の前の仕事だけを片づけていれば済むとは限らない。
城下では、戦の話が増えていた。
名胡桃をめぐる報せが届いてから、武士たちの顔つきが変わった。人の出入りや物資の動きにも、以前とは違う緊張が混じっている。まだ何も決まったわけではない。それでも、景継は知っていた。来年、北条家は大きな戦に巻き込まれる。そして、領国を失う。
知っているからといって、誰をどこへ逃がせばよいのか、どの家が生き残るのかまで分かるわけではなかった。
「戦になれば、今の暮らしは変わる」
景継は二人に言った。
「患者は増える。物資は今より手に入りにくくなるかもしれない。俺も、今までどおりに動けるとは限らない」
「それで?」
綾が尋ねた。
「危険があることを、二人に隠したくない」
「隠して、私たちを遠ざけるつもりだったのか」
「そういうつもりはない」
「なら、最初からそう言えばいい」
綾は景継の顔をまっすぐに見た。
「危ないから来るな、と命じられたら、私は従わないかもしれない。だが、何が危ないのかを話してくれれば、どう動くかは自分で考えられる」
小夜も、膝の上で両手を重ねた。
「私も同じです。怖くないわけではありません。けれど、何も知らされずに、後から決められたことだけを聞くのは嫌です」
「……分かった」
「本当に?」
「本当にだ」
小夜は、まだ確かめるように景継を見ていた。やがて、ゆっくりとうなずいた。
「私も、自分で見て、自分で考えます。間違えることはあると思います。それでも、見たことまで黙っているのはやめます」
景継は、その言葉を聞きながら、以前の小夜を思い出した。
自分の判断を口にすることをためらい、答えを他人に委ねようとしていた娘。今も過去の悔いが消えたわけではない。それでも、彼女は自分の目で見たものを伝え、必要なら行動しようとしている。
「俺も、二人の判断を聞く。俺の考えと違っていても、すぐに退けない」
「すぐに、というのが大事だな」
綾が口を挟んだ。
「お前は、考え始めると人の話が聞こえなくなる」
「……気をつける」
「気をつけるだけでは足りない」
「分かった。返事をする」
綾は満足したように、今度こそ笑った。
千代が戻ってきたのは、そのときだった。物資の確認を終えたらしく、帳面を抱えている。
「何の話をしていたのですか」
「景継が一人で決めないようにする話です」
小夜が答えると、千代は帳面を胸に抱えたまま、景継を見た。
「それは、私も加えていただかないと困りますね」
「もちろんだ」
「本当でしょうか。景継様は、必要な物を尋ねると、足りないものを全部並べます。そのうえで、何とかしてくれとおっしゃることがあります」
「そんなことを言ったか」
「何度も」
千代はすぐに答えた。
「布が足りない、薬種が足りない、人手が足りない。どれも本当のことです。でも、私が相手に頼めば、向こうにも事情ができます。こちらに回した分、別の誰かへ売れなくなることもある。運ぶ者がいなければ、荷は届きません。必要だからといって、何もかも手に入るわけではないのです」
「分かっているつもりだった」
「つもりでは困ります」
千代は帳面を開き、今日の物資の残りを示した。
「私は、できる限りの道を探します。でも、無理なものは無理だと言います。約束できないことを、できるとは言いません。それを責めないでください」
「責めない。むしろ、無理なことは早く教えてほしい」
「では、景継様も、できないことを一人で抱え込まないでください。人手が足りないなら、足りないと伝える。手が回らないなら、どこを後にするかを一緒に考える。それができなければ、私がどれだけ走っても追いつきません」
景継は、帳面に記された数字を見た。
千代が集めた物資は、決して多くない。だが、何があり、何がなく、どれがいつ届くかを把握できるようになったのは、彼女が交渉を重ねたからだった。彼女の仕事は、景継の望みを叶えることではない。限られた条件の中で、何を可能にするかを見極めることだ。
「そのとおりだ。俺は、三人に頼ることと、三人へ押しつけることを間違えないようにする」
「頼るのは構いません」
千代は帳面を閉じた。
「私も、頼りますから」
四人は縁側に並んだ。
日が落ちかけ、庭の隅から冷たい風が吹いてきた。遠くから、荷車の軋む音が聞こえる。明日になれば、また物資を運び、患者を診て、足りないものを数え直さなければならない。
それがいつまで続くのか、誰にも分からなかった。
「景継」
綾が呼んだ。
「お前は、私たちを守ると言うつもりだったのだろう」
景継は答えなかった。
「言っておくが、守るという言葉だけでは足りない。お前が私たちのために何かを決めて、私たちがそれを知らされないのなら、私たちはお前と一緒にいる意味がなくなる」
「……ああ」
「私は、お前に助けられた。だが、助けられたからといって、この先ずっとお前の決めたとおりに生きるつもりはない」
「分かっている」
「なら、約束しろ」
景継は、綾を見た。それから小夜と千代へ目を向けた。
「危険を隠さない。三人の意思を聞く。俺と意見が違っても、理由を聞かずに退けない。俺だけで決めなければならないときも、できる限り、何を選んだのかを伝える」
「それだけですか」
千代が尋ねた。
「それから、できないことをできると言わない。俺自身も、三人も」
小夜が静かにうなずいた。
「私も約束します。自分の判断を隠さず、分からないことは分からないと言います」
「私もだ」
綾は、左手を膝の上に置いた。
「できることはする。できないことは、できないと言う。それでも必要なら、別のやり方を考える」
「私も、約束します」
千代は帳面を脇に置いた。
「ただし、明日から物資が増えるわけではありませんよ」
「それは分かっている」
「本当に分かっているなら、明日の朝、帳面を見て驚かないでください」
小夜が小さく笑い、綾も肩を揺らした。景継も、こらえきれずに笑った。
その笑いは長くは続かなかった。外では、戦に備える者たちが動いている。いずれ、ここで診てきた者たちも、戦のために呼び出されるかもしれない。物資が途絶え、診療を続けられなくなる日も来るだろう。
約束だけで、そうしたことを防げるわけではない。
それでも、何も話さずに一人で決めるよりはよかった。
「これから先、俺たちの暮らしがどうなるかは分からない」
景継は言った。
「北条家が、今のまま残るとも限らない。俺にも、どうにもできないことがある」
三人は黙って聞いていた。
「それでも、俺は三人と一緒にいたい。誰かを守るために、誰かの意思を奪うのではなく、一緒に考えて、一緒に決めていきたい」
言い終えてから、景継は自分の言葉が、いかにも頼りないものに聞こえる気がした。
領国を守ると約束することはできない。誰一人失わないとも言えない。これから先に起きることを知っていても、すべてを変えられるわけではない。
だが、だからといって、共に生きたいという願いまで口にしない理由にはならなかった。
綾が、景継の左手に自分の左手を重ねた。
「私は、お前と生きていきたい。だが、何も考えずについていくつもりはない」
「それでいい」
小夜は二人の手を見つめたあと、自分の手をそっと重ねた。
「私も一緒にいたいです。過去のことを忘れたわけではありません。それでも、これからのことまで諦めたくない」
千代も、ためらわずに手を添えた。
「私もです。景継様のためだけではありません。私自身が、この先も皆と一緒に生きたいのです」
四人の手が重なった。
誰かが誰かのものになるための約束ではなかった。危険を知らされずに守られることでも、ひとりの決断に全員が従うことでもない。それぞれが自分の意思を持ったまま、同じ先を選ぼうとする約束だった。
正式な形を決めるには、家の事情も、周囲との話し合いも必要になる。今ここで言葉を交わしたからといって、明日から何もかも変わるわけではない。
だが、四人の間に、これまでとは違うものが残った。
景継は、重なった手を見つめた。
目の前の命を救うことなら、何をすべきか考えられる。傷を確かめ、危険を見極め、できる処置を選ぶ。それでも、救えない命はある。戦の行方も、家の運命も、自分の知識だけでは変えられない。
だからこそ、一人で背負うことを正しさだと思ってはいけないのだろう。
「明日も、よろしく頼む」
景継が言うと、綾がすぐに答えた。
「明日だけじゃない」
小夜も、千代も、うなずいた。
庭の向こうでは、夕闇が城下へ降りていた。
戦の気配は、確実に近づいている。
それでも四人は、手を離す前に、もう一度だけ互いの顔を見た。




