第二十九話 違う答え
第二十九話 違う答え
昼を過ぎた診療所には、洗い終えた布の湿った匂いが残っていた。
軒先に干した布は、風を受けて揺れている。だが、乾いたものを取り込んでも、すぐに使えるわけではなかった。汚れが残っていないか確かめ、傷に当てるものと、患部を押さえるためのものを分ける。使い終えた布を洗う者も、乾いた布を畳む者も、ほかの仕事を抱えていた。
景継は、棚に置かれた布の束を数えた。
清潔なものは、残りわずかだった。
「これだけか」
「朝に数えたときから、あまり変わっておりませぬ」
小夜が答えた。手には、患者の様子を書き留めた紙がある。
「ただ、使う量は増えております。昨日から傷の痛みを訴える者が二人増えました。一人は熱も出ております」
「傷口は」
「膿が出ている者はおりますが、熱のある者と同じ原因かどうかは分かりませぬ。傷の周りが赤くなっている者もおります」
小夜は紙を見直した。
「今朝より赤みが広がっているように見えました。もう一度、確かめたほうがよいと思います」
「分かった。あとで私も診る」
景継は棚の奥を覗いた。布の束の下には、使いかけの薬種を包んだ紙が並んでいる。薬も潤沢ではない。何に使えるか分からないものを、足りないからという理由だけで使うわけにはいかなかった。
戸口から千代が入ってきた。後ろには、布を入れた籠を抱えた女がいる。
「頼んでいた布ですが、これだけ届きました」
千代は籠の中を確かめた。
「先方も、すぐに出せる分はこれで終わりだそうです。次に用意できるのは、早くても数日先。運ぶ者の都合もあるので、日までは約束できぬと」
「代金は」
「決めた分を支払います。ただし、次の分も同じ値で出せるとは限らないそうです」
景継は頷いた。
千代は必要なものを持ち帰ってくる。しかし、頼めばいくらでも手に入るわけではない。相手にも商いがあり、布を織る家にも、売る先と暮らしがある。
「届いた分は、ひとまず棚へ。使う分は、これから決める」
千代が籠を置こうとしたところへ、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。
「景継様、負傷者です!」
呼びに来た男の声に、景継は振り返った。
「どこを負傷した」
「荷を運んでいた者が、足を滑らせまして。脛を深く切ったようです。血が止まりませぬ」
「こちらへ運べ。傷を押さえる布を用意してくれ。身体を揺らさず、急いで」
男が走り去る。景継も診療所の奥へ向かった。
運ばれてきたのは、三十歳ほどの荷運びだった。脛に巻かれた布は、すでに血を吸って暗く染まっている。男は歯を食いしばり、戸板の上で身体を強張らせていた。
「名は」
「……弥吉にございます」
「弥吉、聞こえるか。気が遠くなりそうか」
「少し……」
景継は顔色と呼吸を確かめ、脈に触れた。速い。痛みや恐怖の影響もあるが、出血が続いていることを考えれば油断はできない。
「布を押さえたまま、脚を動かさないでくれ」
景継は傷を覆う布の上から圧迫を続けるよう指示した。無理に剥がせば、固まりかけた血まで取り除いてしまうおそれがある。血が染み出している場所と、傷の周囲を確かめながら、必要な処置を進めた。
綾がそばへ来て、戸板の周囲を見回した。
「ここでは人が通れない。戸板を少し奥へ寄せてくれ。道具を持ってくる者と、患者を運ぶ者を分けろ。押さえている手は離すな」
指示を受けた男たちが動き始める。綾は片腕で戸板の端を押さえ、周囲の者に位置を示した。右腕を失った身体では、できない動作もある。だが、誰に何を任せれば現場が動くかは、彼女がよく知っていた。
景継が傷の状態を確かめていると、小夜が清潔な布を持ってきた。
「こちらを使ってください」
景継は受け取ろうとして、手を止めた。
小夜が持ってきた布は、棚に残っていた最後のまとまった束の一つだった。
「ほかにあるか」
「今すぐ使えるものは、これだけです」
小夜は迷いなく答えた。
「傷が深いです。まず、この人に使うべきだと思います」
「待ってください」
千代が口を挟んだ。
「その布を全部使えば、今夜まで持つか分かりません。熱のある患者もおります。先ほどの布が届かなければ、明日には足りなくなるかもしれません」
「今、血が止まらなければ、この人は危ないのです」
「それは分かっています。けれど、ここで使い切れば、ほかの患者が悪くなったときに何もできなくなります」
小夜は千代を見た。
「今の患者を後回しにして、まだ起きていないことに備えるのですか」
「後回しにしろとは言っていません。使い切ってよいか、考えてほしいのです」
二人の声が、わずかに強くなった。
景継は弥吉の傷から目を離さなかった。布を節約するために圧迫を弱めることはできない。一方で、使える布がなくなれば、別の患者の処置にも支障が出る。
「綾はどう思う」
景継に問われ、綾はすぐには答えなかった。患者の顔を見てから、周囲にいる者たちへ視線を巡らせた。
「いま、ここにいる人間だけで考えるなら、この者の手当てを優先するのがよい。だが、運ばれてくる者が増えたら、手当てをする場所も、人を動かす者も足りなくなる」
「では、布は残すべきだと?」
「違う。布を残すことだけを考えて、運ぶ者も押さえる者も足りなければ、結局は使える布まで無駄になる」
綾は、戸板の脇で立ち尽くしていた若者を見た。
「お前、さっきから何を持っている」
「水でございます」
「それを置いて、こちらの者と交代しろ。傷を押さえている手が疲れている。人を替えながら、押さえ続けられるようにしろ」
若者は戸惑ったが、綾の指示に従った。
「布の数だけではない。誰が何をしているかも見なければならぬ。人手が足りないまま布だけあっても、必要なときに使えぬ」
綾の言葉に、千代は籠の中を見た。
「届いた分を、すべて棚にしまうのはやめましょう。今使うものと、次に使うものを分けます。使い終えた布も、すぐに捨てるものと、洗って再利用できるか確かめるものを分ける。ただし、傷に当てる布と、汚れを拭う布を一緒にしてはいけません」
「その分け方を誰がする」
綾が尋ねた。
「私が手順を決めます。実際に分ける者は、こちらで頼める者を探します。ただ、今いる人手をすべて布の仕事に回すわけにはいきません」
千代は景継を見た。
「何人までなら出せますか」
景継はすぐに答えなかった。弥吉の出血は、先ほどより少なくなっている。しかし、布を外してよい段階ではない。傷の深さや損傷の程度も、まだ確かなことは分からなかった。
「一人だ。布を扱う者は一人に絞る。ほかの者は患者の世話と運搬に残してくれ」
「承知しました」
千代は頷いた。
景継は小夜に向き直った。
「熱のある患者の記録を見せてくれ。傷の変化が分かるように、いつから赤くなったか、熱が出たのはいつか、食事や水の様子も確かめたい」
「はい」
「ただし、記録を取るために患者から離れすぎないでくれ。急に状態が変わったら、そちらを先に知らせる」
小夜は一瞬、弥吉の傷へ目を向けた。
「この人の様子も、私が見ていてよいでしょうか」
「頼む。顔色と呼吸、痛みの変化を見てくれ。何か変わったら、すぐに知らせてほしい」
「分かりました」
小夜は弥吉のそばへ移った。景継の判断に従ったからといって、自分の考えを引っ込めたわけではない。傷を押さえる布が足りないことも、熱のある患者を見落とせないことも、彼女には分かっていた。
景継は、弥吉の傷の処置を続けた。
血は少しずつ落ち着いてきたが、安心できる状態ではなかった。傷の周囲を確かめ、出血が再び増えないか見ながら、患者の呼吸と意識を確かめる。すぐに歩けるようになるとは限らない。荷運びの仕事へ戻れるまで、どれほどかかるかも分からなかった。
処置がひと区切りついたころ、弥吉は薄く目を開けた。
「……仕事が」
「いまは傷を治すことを考えろ」
「荷を……届けねば」
「誰かに引き継げるか」
弥吉は苦しそうに首を振った。
「今日中に届ける約束で……」
景継は言葉を止めた。
怪我をした者が休めば、その分の仕事は誰かが引き受ける。だが、代わりを頼める相手がいるとは限らない。約束が守れなければ、荷主との関係にも響くだろう。
「千代、荷の行き先を聞いて、代わりに運べる者がいるか確かめてくれ。引き受ける者がいなければ、無理に約束はするな。荷主にも事情を伝える必要がある」
「分かりました。まずは荷がどこにあるのか、誰が預かっているのかを確かめます」
千代は、すぐに動き出した。
綾は患者を運んできた男たちへ、弥吉をどうやってここまで運んだのか尋ねている。今後、同じような負傷者が来たとき、誰が戸板を用意し、誰が傷を押さえ、誰が道を空けるのか。彼女は次の混乱を減らすために、必要なことを確かめていた。
小夜は患者の様子を記録し、景継が処置を終えたあとも、呼吸と顔色を見続けた。
それぞれの仕事が動き始めると、診療所に漂っていた緊張は少しだけ和らいだ。
だが、棚に残る布の量は変わらない。
夕刻、景継は千代がまとめた数を確かめた。新たに届いた布のうち、傷の処置に回せるもの。洗って再利用できるか確認するもの。汚れを拭うために使うもの。それぞれを分けても、十分とは言えなかった。
「明日、もう一度、調達先へ話をしに行きます。ただ、すぐに増やせるとは限りません」
千代はそう告げた。
「分かっている。無理な約束はしなくていい」
「それでも、こちらの必要を伝えるだけでは、相手も動けません。こちらがどれだけ使い、どれだけ残っているのか、数字を示せるようにしておきます」
景継は頷いた。
小夜が記録を差し出した。
「今日、傷の処置に使った布と、熱のある患者の経過をまとめました。まだ分からないこともありますが、明日も同じように確かめられます」
「助かる」
綾は、片手で戸口の柱に触れながら言った。
「人手の割り振りも、明日から変えたほうがいい。今のままでは、負傷者が重なったとき、誰が何をするか決めるだけで時間を取られる」
「頼む。綾の考えで組み直してくれ。ただし、誰か一人に負担が偏らないようにしてほしい」
「分かった。できることと、できないことを最初に確かめておく」
四人は同じ問題を見ていた。
しかし、見ている場所は違っていた。
綾は人が動けるかを見ていた。小夜は患者の変化を見ていた。千代は、物資がいつまで持つかを見ていた。景継は、目の前の処置と、その先に続く患者への影響を考えていた。
誰か一人の答えだけでは、足りなかった。
景継は、棚に残った布を見た。
必要なものが足りない。それは変わらない。今日の判断が、明日の不足を消してくれるわけでもない。
それでも、互いの見ているものを持ち寄れば、見落としていた危険に気づける。
「明日も、同じように確かめよう」
景継が言うと、三人はそれぞれ頷いた。
診療所の外では、夕暮れの風が布を揺らしていた。
乾いた布を取り込む者の姿が、軒先に見えた。明日になれば、また使えるものもあるだろう。だが、すべてが間に合うとは限らない。
景継は、使い終えた布を入れた籠を見つめた。
救うために使うものを、ただ惜しんではならない。
惜しまぬために、使い方を考えなければならない。
その二つは、どちらか一方を選べば済むことではなかった。




