↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
滅びるはずの小田原衆を、転生医師が救う  作者: チャプタさん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
29/50

第二十九話 違う答え

第二十九話 違う答え


 昼を過ぎた診療所には、洗い終えた布の湿った匂いが残っていた。


 軒先に干した布は、風を受けて揺れている。だが、乾いたものを取り込んでも、すぐに使えるわけではなかった。汚れが残っていないか確かめ、傷に当てるものと、患部を押さえるためのものを分ける。使い終えた布を洗う者も、乾いた布を畳む者も、ほかの仕事を抱えていた。


 景継は、棚に置かれた布の束を数えた。


 清潔なものは、残りわずかだった。


「これだけか」


「朝に数えたときから、あまり変わっておりませぬ」


 小夜が答えた。手には、患者の様子を書き留めた紙がある。


「ただ、使う量は増えております。昨日から傷の痛みを訴える者が二人増えました。一人は熱も出ております」


「傷口は」


「膿が出ている者はおりますが、熱のある者と同じ原因かどうかは分かりませぬ。傷の周りが赤くなっている者もおります」


 小夜は紙を見直した。


「今朝より赤みが広がっているように見えました。もう一度、確かめたほうがよいと思います」


「分かった。あとで私も診る」


 景継は棚の奥を覗いた。布の束の下には、使いかけの薬種を包んだ紙が並んでいる。薬も潤沢ではない。何に使えるか分からないものを、足りないからという理由だけで使うわけにはいかなかった。


 戸口から千代が入ってきた。後ろには、布を入れた籠を抱えた女がいる。


「頼んでいた布ですが、これだけ届きました」


 千代は籠の中を確かめた。


「先方も、すぐに出せる分はこれで終わりだそうです。次に用意できるのは、早くても数日先。運ぶ者の都合もあるので、日までは約束できぬと」


「代金は」


「決めた分を支払います。ただし、次の分も同じ値で出せるとは限らないそうです」


 景継は頷いた。


 千代は必要なものを持ち帰ってくる。しかし、頼めばいくらでも手に入るわけではない。相手にも商いがあり、布を織る家にも、売る先と暮らしがある。


「届いた分は、ひとまず棚へ。使う分は、これから決める」


 千代が籠を置こうとしたところへ、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。


「景継様、負傷者です!」


 呼びに来た男の声に、景継は振り返った。


「どこを負傷した」


「荷を運んでいた者が、足を滑らせまして。脛を深く切ったようです。血が止まりませぬ」


「こちらへ運べ。傷を押さえる布を用意してくれ。身体を揺らさず、急いで」


 男が走り去る。景継も診療所の奥へ向かった。


 運ばれてきたのは、三十歳ほどの荷運びだった。脛に巻かれた布は、すでに血を吸って暗く染まっている。男は歯を食いしばり、戸板の上で身体を強張らせていた。


「名は」


「……弥吉にございます」


「弥吉、聞こえるか。気が遠くなりそうか」


「少し……」


 景継は顔色と呼吸を確かめ、脈に触れた。速い。痛みや恐怖の影響もあるが、出血が続いていることを考えれば油断はできない。


「布を押さえたまま、脚を動かさないでくれ」


 景継は傷を覆う布の上から圧迫を続けるよう指示した。無理に剥がせば、固まりかけた血まで取り除いてしまうおそれがある。血が染み出している場所と、傷の周囲を確かめながら、必要な処置を進めた。


 綾がそばへ来て、戸板の周囲を見回した。


「ここでは人が通れない。戸板を少し奥へ寄せてくれ。道具を持ってくる者と、患者を運ぶ者を分けろ。押さえている手は離すな」


 指示を受けた男たちが動き始める。綾は片腕で戸板の端を押さえ、周囲の者に位置を示した。右腕を失った身体では、できない動作もある。だが、誰に何を任せれば現場が動くかは、彼女がよく知っていた。


 景継が傷の状態を確かめていると、小夜が清潔な布を持ってきた。


「こちらを使ってください」


 景継は受け取ろうとして、手を止めた。


 小夜が持ってきた布は、棚に残っていた最後のまとまった束の一つだった。


「ほかにあるか」


「今すぐ使えるものは、これだけです」


 小夜は迷いなく答えた。


「傷が深いです。まず、この人に使うべきだと思います」


「待ってください」


 千代が口を挟んだ。


「その布を全部使えば、今夜まで持つか分かりません。熱のある患者もおります。先ほどの布が届かなければ、明日には足りなくなるかもしれません」


「今、血が止まらなければ、この人は危ないのです」


「それは分かっています。けれど、ここで使い切れば、ほかの患者が悪くなったときに何もできなくなります」


 小夜は千代を見た。


「今の患者を後回しにして、まだ起きていないことに備えるのですか」


「後回しにしろとは言っていません。使い切ってよいか、考えてほしいのです」


 二人の声が、わずかに強くなった。


 景継は弥吉の傷から目を離さなかった。布を節約するために圧迫を弱めることはできない。一方で、使える布がなくなれば、別の患者の処置にも支障が出る。


「綾はどう思う」


 景継に問われ、綾はすぐには答えなかった。患者の顔を見てから、周囲にいる者たちへ視線を巡らせた。


「いま、ここにいる人間だけで考えるなら、この者の手当てを優先するのがよい。だが、運ばれてくる者が増えたら、手当てをする場所も、人を動かす者も足りなくなる」


「では、布は残すべきだと?」


「違う。布を残すことだけを考えて、運ぶ者も押さえる者も足りなければ、結局は使える布まで無駄になる」


 綾は、戸板の脇で立ち尽くしていた若者を見た。


「お前、さっきから何を持っている」


「水でございます」


「それを置いて、こちらの者と交代しろ。傷を押さえている手が疲れている。人を替えながら、押さえ続けられるようにしろ」


 若者は戸惑ったが、綾の指示に従った。


「布の数だけではない。誰が何をしているかも見なければならぬ。人手が足りないまま布だけあっても、必要なときに使えぬ」


 綾の言葉に、千代は籠の中を見た。


「届いた分を、すべて棚にしまうのはやめましょう。今使うものと、次に使うものを分けます。使い終えた布も、すぐに捨てるものと、洗って再利用できるか確かめるものを分ける。ただし、傷に当てる布と、汚れを拭う布を一緒にしてはいけません」


「その分け方を誰がする」


 綾が尋ねた。


「私が手順を決めます。実際に分ける者は、こちらで頼める者を探します。ただ、今いる人手をすべて布の仕事に回すわけにはいきません」


 千代は景継を見た。


「何人までなら出せますか」


 景継はすぐに答えなかった。弥吉の出血は、先ほどより少なくなっている。しかし、布を外してよい段階ではない。傷の深さや損傷の程度も、まだ確かなことは分からなかった。


「一人だ。布を扱う者は一人に絞る。ほかの者は患者の世話と運搬に残してくれ」


「承知しました」


 千代は頷いた。


 景継は小夜に向き直った。


「熱のある患者の記録を見せてくれ。傷の変化が分かるように、いつから赤くなったか、熱が出たのはいつか、食事や水の様子も確かめたい」


「はい」


「ただし、記録を取るために患者から離れすぎないでくれ。急に状態が変わったら、そちらを先に知らせる」


 小夜は一瞬、弥吉の傷へ目を向けた。


「この人の様子も、私が見ていてよいでしょうか」


「頼む。顔色と呼吸、痛みの変化を見てくれ。何か変わったら、すぐに知らせてほしい」


「分かりました」


 小夜は弥吉のそばへ移った。景継の判断に従ったからといって、自分の考えを引っ込めたわけではない。傷を押さえる布が足りないことも、熱のある患者を見落とせないことも、彼女には分かっていた。


 景継は、弥吉の傷の処置を続けた。


 血は少しずつ落ち着いてきたが、安心できる状態ではなかった。傷の周囲を確かめ、出血が再び増えないか見ながら、患者の呼吸と意識を確かめる。すぐに歩けるようになるとは限らない。荷運びの仕事へ戻れるまで、どれほどかかるかも分からなかった。


 処置がひと区切りついたころ、弥吉は薄く目を開けた。


「……仕事が」


「いまは傷を治すことを考えろ」


「荷を……届けねば」


「誰かに引き継げるか」


 弥吉は苦しそうに首を振った。


「今日中に届ける約束で……」


 景継は言葉を止めた。


 怪我をした者が休めば、その分の仕事は誰かが引き受ける。だが、代わりを頼める相手がいるとは限らない。約束が守れなければ、荷主との関係にも響くだろう。


「千代、荷の行き先を聞いて、代わりに運べる者がいるか確かめてくれ。引き受ける者がいなければ、無理に約束はするな。荷主にも事情を伝える必要がある」


「分かりました。まずは荷がどこにあるのか、誰が預かっているのかを確かめます」


 千代は、すぐに動き出した。


 綾は患者を運んできた男たちへ、弥吉をどうやってここまで運んだのか尋ねている。今後、同じような負傷者が来たとき、誰が戸板を用意し、誰が傷を押さえ、誰が道を空けるのか。彼女は次の混乱を減らすために、必要なことを確かめていた。


 小夜は患者の様子を記録し、景継が処置を終えたあとも、呼吸と顔色を見続けた。


 それぞれの仕事が動き始めると、診療所に漂っていた緊張は少しだけ和らいだ。


 だが、棚に残る布の量は変わらない。


 夕刻、景継は千代がまとめた数を確かめた。新たに届いた布のうち、傷の処置に回せるもの。洗って再利用できるか確認するもの。汚れを拭うために使うもの。それぞれを分けても、十分とは言えなかった。


「明日、もう一度、調達先へ話をしに行きます。ただ、すぐに増やせるとは限りません」


 千代はそう告げた。


「分かっている。無理な約束はしなくていい」


「それでも、こちらの必要を伝えるだけでは、相手も動けません。こちらがどれだけ使い、どれだけ残っているのか、数字を示せるようにしておきます」


 景継は頷いた。


 小夜が記録を差し出した。


「今日、傷の処置に使った布と、熱のある患者の経過をまとめました。まだ分からないこともありますが、明日も同じように確かめられます」


「助かる」


 綾は、片手で戸口の柱に触れながら言った。


「人手の割り振りも、明日から変えたほうがいい。今のままでは、負傷者が重なったとき、誰が何をするか決めるだけで時間を取られる」


「頼む。綾の考えで組み直してくれ。ただし、誰か一人に負担が偏らないようにしてほしい」


「分かった。できることと、できないことを最初に確かめておく」


 四人は同じ問題を見ていた。


 しかし、見ている場所は違っていた。


 綾は人が動けるかを見ていた。小夜は患者の変化を見ていた。千代は、物資がいつまで持つかを見ていた。景継は、目の前の処置と、その先に続く患者への影響を考えていた。


 誰か一人の答えだけでは、足りなかった。


 景継は、棚に残った布を見た。


 必要なものが足りない。それは変わらない。今日の判断が、明日の不足を消してくれるわけでもない。


 それでも、互いの見ているものを持ち寄れば、見落としていた危険に気づける。


「明日も、同じように確かめよう」


 景継が言うと、三人はそれぞれ頷いた。


 診療所の外では、夕暮れの風が布を揺らしていた。


 乾いた布を取り込む者の姿が、軒先に見えた。明日になれば、また使えるものもあるだろう。だが、すべてが間に合うとは限らない。


 景継は、使い終えた布を入れた籠を見つめた。


 救うために使うものを、ただ惜しんではならない。


 惜しまぬために、使い方を考えなければならない。


 その二つは、どちらか一方を選べば済むことではなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。