第二十八話 綾の指揮
第二十八話 綾の指揮
負傷者が運び込まれてきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
先に入ってきた男は、額から血を流していた。続いて二人が担ぎ込まれ、その後ろから、片足を引きずる若い兵が壁に手をつきながら歩いてきた。運んできた者たちは口々に状況を説明しようとしたが、声が重なり、誰の話も最後まで聞き取れない。
「こちらへ運べ。いや、そっちは先に寝かせろ。布はどこだ」
治療所の中がたちまち騒がしくなった。
景継は、運び込まれた男の一人に膝をついていた。脇腹を押さえる手の間から血が滲んでいる。衣をずらして傷の様子を確かめると、浅い傷ではなかった。
「手を離すな。今のまま押さえていろ」
景継は男の手を傷口に戻し、その上から自分の手を重ねた。出血の具合を見ながら、近くにいた者へ顔を向ける。
「清潔な布を。湯を沸かす者も呼んでくれ。傷の周りを拭く水と、飲ませる水は分けるんだ」
返事があったかどうか確かめる間もなく、別の場所で声が上がった。
「こちらの者が息苦しいと申しております!」
「顔を見せてくれ」
景継が振り返ると、壁際に座り込んだ兵が胸を押さえていた。額には汗が浮かび、呼吸が浅い。傍らの男は肩を貸したまま、どうすればよいか分からずに立ち尽くしている。
景継は脇腹の負傷者から手を離せなかった。押さえる位置がずれれば、出血が増えるおそれがある。ほかの者に任せられる仕事と、自分が見なければならない患者。その区別をつける時間すら足りなかった。
「景継様、こちらも……!」
「待ってくれ。今は――」
言いかけたところで、景継は口を閉じた。
待てと言われた者が、いつまで待てばよいのか分からずにいる。運んできた者たちは次の指示を求め、道具を持つ者は誰のところへ行けばよいのか迷っていた。このままでは、治療そのものよりも、治療を始めるまでの混乱で時間を失う。
「私がやります」
声を上げたのは綾だった。
彼女は壁際から立ち上がり、周囲を見回した。左手で帯の位置を直し、右腕のない側をかばうことなく、人々の間へ進み出る。
「まず、運ぶ者はその場で止まりなさい。歩ける者は、そこの壁際へ。自分で歩けない者を、無理に立たせては駄目です」
近くにいた男が、戸惑った顔で綾を見た。
「しかし、誰を先に運べばよいのか……」
「だから、今いる場所で止めるのです。動かすことが先ではありません」
綾は男の返事を待たず、入口近くの者へ向き直った。
「あなたは、歩ける者を二人連れて、あちらの壁際へ。歩けるからといって、勝手に帰さないこと。具合が変わる者がいるかもしれません。あなたは水を運んでください。傷に使う布とは別に置くのです」
「どこへ置けばよいのでございますか」
「入口から離れた、あの台の上です。使った布を置く場所とは分けなさい」
指示を受けた男たちは、ようやく動き始めた。
綾は、運ばれてきた者たちを一人ずつ見た。額から血を流す男は意識があり、自分で座っている。足を引きずる若い兵は、壁に手をついたまま顔をしかめていた。胸を押さえる兵は、先ほどよりも呼吸が速くなっている。
「あなた、こちらへ来てください」
綾は、そばにいた年配の男を呼んだ。
「胸を押さえている者を見ていてください。息の様子と、呼びかけに答えるかどうかを確かめる。悪くなったら、すぐに私を呼ぶのです」
「わしに、そんなことが分かるでしょうか」
「分からないことを、分かったふりをする必要はありません。今の様子を覚えておいて、変わったら知らせてください。それならできます」
男は一度、兵の顔を見た。それから、ためらいがちにうなずいた。
綾は次に、足を引きずる若い兵の前へしゃがんだ。
「どこを負傷したのです」
「足でございます。歩けぬほどではありません」
「それは、私が決めることではありません。どこが痛むのか、話してください」
若い兵は一瞬、口をつぐんだ。周囲には、彼より重い傷を負った者がいる。自分が痛みを訴えれば、邪魔になると思っているのかもしれなかった。
「膝の下です。踏み込むと痛みます」
「では、無理に歩かないこと。そこへ座って、足を動かさずに待ちなさい。景継様に診てもらいます」
「ですが、まだ持ち場へ戻らねば……」
「戻れるかどうかを確かめるために、今は座るのです。無理をして歩けなくなれば、もっと長く戻れなくなります」
若い兵は不満そうに眉を寄せたが、やがて壁際へ腰を下ろした。
綾はその様子を確かめ、治療所の奥へ目を向けた。景継は脇腹の傷を押さえたまま、運び込まれた男の顔色を見ている。そばには布を持った者が立っていたが、何をすべきか分からず、景継の手元を見つめていた。
「布を持っている方、景継様のそばへ。言われるまで手を出さず、必要なものを渡してください。使い終えた布は、清潔なものと一緒にしないこと」
男ははっとしたようにうなずき、景継のそばへ移った。
それからしばらく、綾は治療所の中を歩き続けた。
右腕があれば、両手で人を支えたり、重い桶を持ち上げたりできただろう。以前の自分なら、負傷者を担ぐ側に回っていたかもしれない。今は、できない動作がある。人の身体を支えるにも、道具を扱うにも、片手では難しいことがあった。
それでも、目の前にいる者たちが何をすればよいのか分からず立ち尽くしていることは、腕の有無とは関係なかった。
「そこの二人、同じ場所に集まらないで。こちらの者を先に運ぶのです」
綾は、互いに肩を貸そうとして動けなくなっていた男たちに声をかけた。
「ですが、この者も怪我をしております」
「見れば分かります。だから、どちらを先に動かすか決めるのです。そちらの方は自分で立てる。もう一人は、立とうとしても膝が崩れているでしょう。二人で支えれば運べます。先にこちらを移しなさい」
男たちは互いの顔を見合わせたあと、綾の指示に従った。
少しずつ、人の流れが整い始めた。
入口で負傷者を運び込む者が止まり、歩ける者は壁際で待つ。必要な道具は決められた場所へ運ばれ、使用済みの布は別にまとめられた。患者のそばにつく者も定まり、景継が処置を中断して指示を出す回数が減っていった。
それでも、綾の指示に従わない者が一人いた。
「女に命じられる筋合いはない」
年若い武士が、運び込んだ負傷者を抱えたまま言った。綾の右腕がないことを見て、彼はわずかに口元を歪めていた。
「俺は戦場で何人も担いできた。運び方まで教わる必要はない」
「担ぐことと、今この者をどこへ運ぶかは別です」
「何だと」
「その者は、息が乱れています。ここで無理に運び続ければ、状態が悪くなったときにすぐ対応できません。まず、そこへ下ろしなさい」
「俺のやり方が間違っていると申すのか」
男の声が大きくなり、周囲の者が動きを止めた。
綾は男を見返した。言い返すことはできた。だが、いま必要なのは、彼女の言葉を認めさせることではない。
「その者を見てください」
綾は、男の腕の中にいる負傷者へ目を向けた。
「顔色が変わっています。息も先ほどより浅い。あなたが悪いと言っているのではありません。今は、運び続けるより下ろして様子を見る方がよいのです」
男は腕の中の負傷者を見た。
患者の胸が小さく上下している。額には汗が浮かび、目を開けてはいるものの、視線が定まっていなかった。
「……どうすればいい」
「ゆっくり下ろしてください。頭をぶつけないように、そちらの方も手を貸して」
近くにいた者が加わり、負傷者は床に敷いた布の上へ移された。綾はそばに膝をつき、患者の呼吸を確かめるよう促した。男は言われたとおり、顔の近くで患者の様子を見た。
「呼吸が落ち着かない。景継様を呼んでくる」
「お願いします。ただし、ここにいる者を一人にしないでください。あなたはそばに残って、変化を見ていてください」
男は短くうなずいた。先ほどの反発は消えていなかったが、少なくとも、綾の指示を無視して運び続けることはしなかった。
やがて景継がやってきた。
患者の呼吸と意識を確かめ、必要な処置を指示したあと、景継は綾を見た。
「ほかの者たちは」
「歩ける者は壁際にまとめました。自分で歩けない者は、無理に立たせていません。こちらの者は、呼吸の様子が変わったので、すぐに知らせてもらいました」
「分かった。助かる」
景継はそれだけ言うと、再び患者のそばへ戻った。
綾はその背を見送り、次の負傷者へ向かった。
すべてが片づいたわけではない。傷の深い者もいれば、これから容体が変わるかもしれない者もいる。布も水も、人手も十分ではなかった。治療所の外には、まだ誰かが助けを求めて待っている。
それでも、先ほどまでの混乱は収まっていた。
負傷者を運ぶ者は、入口で立ち止まり、指示を待つようになった。道具を持つ者は、どこへ何を運べばよいか分かっている。患者のそばには、状態の変化を見守る者がついていた。
綾は、壁際に座っている若い兵のもとへ戻った。
「足はどうですか」
「先ほどより、少し痛みます」
「痛みが変わったのですね。景継様に伝えます。ほかに変わったことはありますか」
「いえ……。ただ、皆が動いているのに、自分だけ座っているのが落ち着かず」
「動ける者が動くためにも、あなたは今、座っているのです。無理に立つことが役目ではありません」
若い兵は、視線を落とした。
「……分かりました」
綾は彼の顔色をもう一度確かめてから、景継のいる方へ向かった。
夕刻が近づく頃、最後に運び込まれた負傷者の処置が始まった。景継は一人ずつ状態を確かめ、すぐに手当てが必要な者と、経過を見ながら対応できる者を分けていた。綾が整えた流れは、まだ完全ではない。それでも、誰もが一斉に景継の前へ押し寄せることはなくなっていた。
景継は布を受け取りながら、ふと入口の方を見た。
綾が、運び込まれた者の話を聞いている。右腕のない身体を補うように、左手と肩の動きを使い、周囲の者へ短く指示を出していた。自分でできないことを、他の者に任せる。任せた相手が動けるように、何をすればよいかを伝える。
それは、景継が治療所で繰り返し求めてきたことでもあった。
綾は、景継の視線に気づいた。
「何かありましたか」
「いや。助かった」
景継は手元の処置を続けたまま答えた。
「君が全体を見てくれたおかげで、こちらに集中できた」
綾はすぐには返事をしなかった。褒められたことよりも、景継が自分に任せた仕事を、当然のこととして受け止めている。そのことに、わずかな戸惑いがあった。
「私は、できることをしただけです」
「それで十分だ」
景継は顔を上げずに言った。
「できることを見つけて、必要な場面で使う。それが一番難しい」
綾は、しばらく彼の横顔を見ていた。
以前なら、役に立つことを示さなければ、ここにいる意味がないと思っていた。腕を失った自分に何ができるのか、確かめることさえ怖かった。けれど今日、誰かの傷を自分の手で治したわけではない。重い荷を担いだわけでもない。それでも、混乱していた人々は動き始め、景継は目の前の患者に向き合うことができた。
自分の身体にできないことがあるのは、変わらない。
だが、それだけで、自分にできることまで失われるわけではなかった。
綾は、左手で帯を整えた。
「まだ、うまくできないこともあります」
「それは、これから確かめればいい」
景継はようやく顔を上げた。
「今日できたことまで、なかったことにする必要はない」
綾は小さくうなずいた。
治療所の中では、まだ患者のうめき声が聞こえていた。清潔な布は残り少なく、明日になれば、また別の問題が起こるだろう。今日の混乱が二度と起きない保証もない。
それでも、綾はもう、誰かが指示を出すまで立ち尽くすつもりはなかった。
次に負傷者が運び込まれたとき、自分が何を見て、誰に何を頼むべきか。そのことを、今日の経験から考えることができる。
景継は再び患者へ向き直った。
綾もまた、入口へ歩き出した。
彼女の仕事は、そこで終わりではなかった。




