第二十七話 千代の道
第二十七話 千代の道
朝、診療に使う布の残りを数え終えた千代は、帳面を閉じずに、しばらく数字を見つめていた。
昨日まで使えると思っていた分が、もう残り少ない。洗い直している布もあるが、乾くまでには時間がかかる。傷の手当てに使ったものを、すぐ別の患者へ回すわけにはいかなかった。
「今日の分は、何とか足りそうです。でも、明日も同じように患者が来れば、足りなくなります」
千代は帳面を景継の前へ置いた。品の名と残りの数、その横には、次に手に入る見込みが書き添えられている。
「頼んでいた店からは、まだ返事がないのか」
「使いの者が戻ってきました。しばらくは、こちらへ品を回せないそうです」
「何かあったのか」
「仕入れ先が、別の注文を先に受けたのだそうです。詳しい事情までは聞けませんでした。ただ、荷を運ぶ人も、いつものようには集まらないと言っていました」
千代は、帳面の端を指で押さえた。
「戦の支度が進めば、布も人手も、ほかのところで必要になります。こちらが頼んでいる分だけ、先に回してほしいとは言えません」
景継は帳面に目を落とした。物資が店にないのか、あっても売れないのか、運べないのか。それによって取るべき手は変わる。
「品そのものがないのか、運ぶ手がないのか。そこは分けて確かめたいな」
「はい。まずは、別の店へ行ってみます」
千代はすぐに立ち上がった。景継が同行を申し出ると、彼女は首を横に振った。
「景継様は、ここを離れないでください。昨日から具合の悪い方もいますし、宗助殿の様子も確かめなければなりません。私が品を見て、条件を聞いてきます」
景継は一度、返事をためらった。千代ひとりに交渉を任せることが心配なのではない。彼女が持ち帰った条件を、診療の側で受け止められるようにしておかなければならなかった。
「分かった。買う前に、何がどれだけ必要かを確かめてくれ。足りないからといって、使い道の分からないものまで抱える必要はない」
「ええ。値だけでなく、いつ届くかも聞いてきます」
千代は帳面を持ち、診療所を出ていった。
城下の通りは、いつもより荷車が少なかった。人通りが絶えたわけではないが、荷を背負った者たちは足を止めず、店先で品を眺める者も少ない。道の端では、荷を積み直している男たちが、次の行き先について声を潜めて話していた。
千代は最初の店へ入る前に、荷車の上を見た。積まれているのは布の包みだったが、数は多くない。
「今日は、布を分けてもらえますか」
店の主人は千代の顔を見てから、棚の奥へ目を向けた。
「何に使うかは聞いております。ですが、前にお話ししたほどの量は出せません」
「残っている分も、ですか」
「残っている品には、すでに渡す約束をしたものがあります。こちらの都合で、先方との約束を違えるわけにはいきません」
主人の声に、申し訳なさはあった。だが、譲るつもりがないことも分かった。
「では、約束のない分だけでも、見せていただけますか。種類と量を確かめたいのです」
主人は少し考えたあと、店の者を呼んだ。奥から持ち出された布は、千代が必要としていた量には遠く及ばなかった。それでも、まったく手に入らないわけではない。
千代は布の種類を確かめ、値を聞き、いつ渡せるかを尋ねた。主人が答えた納期は曖昧だった。品はあるが、運び手が決まっていない。荷を引き受ける者が見つからなければ、店先に置かれたままになるという。
「こちらで運び手を探せば、早くなりますか」
「人が見つかれば。ただし、運ぶ先や荷の量によって、頼める者も違います。今は、どこも先の予定を決めたがりません」
千代は返事を急がなかった。布を買う金を用意しても、診療所まで届かなければ意味がない。運ぶ者を別に頼めば、その分の費用もかかる。
「今日渡せる分だけ、買わせてください。残りは、運べる見込みが立ったところで改めて相談します」
主人はうなずいた。千代は代金を確かめ、受け取った布の数を帳面に記した。
次に訪ねた店では、薬種を扱っていた。主人は必要な品の名を聞き、いくつかの包みを出したが、千代はすぐには買わなかった。
「こちらは、どこから入った品ですか」
「いつもの仕入れ先です。ただ、次の荷がいつ届くかは分かりません」
「今ある分は、すべて売れるのですか」
「一部は別の注文に取ってあります。残りならお見せできます」
千代は品の名と量、値を記した。薬として使えるかどうかは景継が確かめる必要がある。名が分かるだけで、必要な働きをするとは限らない。手に入るというだけで買い集めれば、肝心の布や運搬の費用が足りなくなる。
「今日は、これだけお願いします。ほかの品は、景継様に確かめてから、改めて伺います」
主人は包みをまとめながら、千代の帳面を見た。
「何軒も回るのは、大変でしょう。ひとつの店でまとめて買ってくだされば、こちらも荷を用意しやすいのですが」
「それができれば、私も助かります。ただ、一度に揃わなくなったとき、すべてが止まってしまいますから」
「店を分ければ、支払いも受け取りも増える。お手間ではありませんか」
「手間は増えます。けれど、どこで何が止まったのかは分かります」
千代はそう答え、帳面を閉じた。
帰り道、彼女は荷を運ぶ男たちに声をかけた。診療所まで布と薬種を運べる者を探していると伝えると、二人は顔を見合わせた。
「今日なら、荷を運べるかもしれません。ただ、帰りに積むものがないと、こちらも割に合わない」
「帰りの荷が必要なのですね」
「空の荷車を引いて戻るだけでは、日当にもなりません。別の荷を積める場所があれば考えますが、今はどこも先のことが分からない」
千代は、すぐに頼むとは言わなかった。
「今日の分を運んでいただいた場合、いくらになりますか。帰りの荷については、こちらで確約できません」
「なら、運ぶ分だけの値で決めるしかないでしょう。ただし、次も同じ値で請け負えるとは限りません」
「分かりました。今日の分は、その条件でお願いします」
男は荷の大きさと道の具合を確かめ、運賃を告げた。千代は値を聞き直し、店で払った代金と合わせて帳面に記した。予定していた出費より増えたが、手元に残った金をすべて使うわけにはいかない。次に必要になる布の分を残し、今日運ぶ量を決めた。
診療所へ戻ると、景継は患者の傷を確かめているところだった。千代は邪魔をしないよう、受け取った包みを決められた場所へ置き、帳面を広げた。
景継が手を洗い終えてから、千代は今日の結果を伝えた。
「布は少し手に入りました。薬種も、確かめてもらいたいものがあります。ただ、どちらも次に同じ量が届くとは限りません」
「運ぶ手は見つかったのか」
「今日の分だけは。帰りの荷がないと割に合わないそうです。次も頼めるかは、まだ分かりません」
景継は帳面を受け取り、品の数と費用を確かめた。布は当面の不足を埋められる量だったが、長く持つほどではない。薬種も、使えるかどうかを確かめてからでなければ、次の注文は決められない。
「助かった。これで今日の処置は続けられる」
「でも、明日以降のことは決まっていません。ひとつの店に頼りきるのも、運ぶ人を一人に決めるのも危ないと思います」
「その通りだな。店ごとに、何がいつ手に入るかを残しておこう。運ぶ人についても、頼める条件を確かめておきたい」
千代はうなずき、帳面の余白に、今日分かったことを書き足した。店の名、手に入った品、値、受け取りの日、運賃。まだ決まらないものには、決まらないと記した。
景継はその文字を見ていた。
「確かなことと、まだ分からないことが、分けてあるんだな」
「はい。手に入ると思っていたのに届かなければ、困るのはこちらですから。分からないことを、決まったことにはできません」
千代は帳面を閉じず、次に話を聞きに行く店の名をその下へ書いた。
診療所の奥から、患者を呼ぶ声がした。千代は立ち上がりかけたが、綾がすでにそちらへ向かっていた。小夜も患者の様子を確かめに行っている。景継は帳面を千代へ返した。
「今日は、ここまででいい。運んできてくれたものを確かめてから、必要な分をまた相談しよう」
「分かりました。次は、別の店にも話を聞いてみます。値だけでなく、いつ渡せるか、どう運ぶかも先に確かめます」
千代は帳面を抱え、受け取った布の包みをもう一度数えた。
調達先は一つ増えた。だが、道が一本できたからといって、いつでも荷が届くわけではない。店には店の約束があり、運ぶ者には暮らしがある。こちらの都合だけで、それらを変えることはできなかった。
千代は帳面をしまう前に、次に必要な布の数をもう一度確かめた。
足りないものは、まだ残っている。
それでも、どこへ尋ねればよいのか、何を聞かなければならないのかは、昨日より少しだけ分かっていた。




