第二十六話 小夜の弓
第二十六話 小夜の弓
朝の診療が始まる前から、診療所の外が落ち着かなかった。
戸口のそばで、物資を運んできた男と、受け取りを手伝う者が声を低くして言い争っている。男の荷には布と薬種が入っているはずだったが、荷を下ろそうとせず、何度も周囲へ目を向けていた。
「こちらへ置いてくれ。中で確かめる」
「いや、ここで渡す約束だった。中へ持ち込むのは困る」
「今まで何度も運んでもらっているだろう」
「今までと同じではない」
男はそれだけ言うと、口を閉ざした。
景継は診療の記録から顔を上げた。宗助の治療をめぐる噂は、まだ消えていない。患者を診たことと、敵方に通じていることは別だと説明しても、疑いを持つ者すべてが納得するわけではなかった。物資を渡す側にも、余計な疑いをかけられたくない事情がある。
千代が男の前に立ち、荷の口を確かめた。
「中身を改めるのが心配なのですか。それとも、ここへ渡したと知られることが困るのですか」
男はすぐには答えなかった。
「……どちらもだ。あんたたちの仕事に文句をつけたいわけじゃない。だが、こちらまで何かの仲間だと思われてはかなわん」
「分かりました。受け取る品と数をここで確かめ、受け渡しの記録も残します。あなたが何を納めたか、こちらで曖昧にはしません」
千代はそう言って、帳面を取りに戻った。
男はなおも不安そうだったが、荷を抱え直して立ち去ろうとはしなかった。
その様子を見ていた小夜は、戸口の向こうへ視線を向けた。通りの先に、弓を背負った若い男が立っていた。こちらを見ているようにも、通り過ぎる者を見ているようにも見える。小夜はしばらく目を離さなかった。
「小夜、どうした」
景継に問われ、小夜はわずかに肩を揺らした。
「いえ……何でもありません」
答えながらも、視線は通りへ戻っていた。
弓を見たせいだった。
背に負う位置。肩の向き。右手が腰の近くにあること。ひとつひとつは、何でもない動きだった。それなのに、小夜の胸の奥には、忘れようとしてきた光景がよみがえっていた。
あのときも、弓を持った男がいた。
小夜がまだ戦場に出ていた頃、味方の小勢が山道を押さえていた。敵の動きを探るため、彼女は斜面の陰から道を見張っていた。やがて、木立の向こうに人影が現れた。男は身を低くし、こちらの陣へ近づいてくる。手には長いものを持ち、肩には何かを背負っていた。
小夜には、それが弓に見えた。
敵の斥候が陣の位置を探っている。そう考えた彼女は、近くの者へ知らせるより先に弓を引いた。男が顔を上げた瞬間、矢を放った。
矢は男の肩に当たった。
男は倒れ、持っていたものを取り落とした。駆け寄った味方が確かめると、男は敵兵ではなかった。こちらの陣へ伝令を届けに来た味方の若者だった。肩に担いでいたのは弓ではなく、巻いた旗竿だった。身を低くしていたのも、敵に見つからぬためではない。斜面で足を滑らせ、傷めた脚をかばっていたのだという。
若者は命を落とさなかった。だが、肩の傷が癒えるまで戦場へ戻ることはできず、伝令の役目も果たせなかった。
小夜は、その後に何度も考えた。もっと近くまで確かめていれば。味方の位置を先に確認していれば。声をかけることができていれば。
あのとき、自分は何を見たのか。何を見たつもりになり、何を確かめなかったのか。
答えは分かっていた。男の姿を見たことと、男の正体を知ったことを、同じにしてしまったのだ。
「小夜?」
もう一度呼ばれ、小夜はようやく景継へ顔を向けた。
「通りにいる男が、気になります」
「何か見つけたのか」
「まだ分かりません。ただ、こちらを見ています。弓を持っていますが、それだけで危険だとは言えません」
言い終えたあと、小夜は自分の言葉に驚いたように口を閉じた。以前なら、気になったことそのものを口にしなかったかもしれない。確かな証拠がないのに報告すれば、また間違えるのではないか。そんな思いが先に立っていた。
景継は戸口へ目を向けた。
「そうだな。見たことと、そこから考えたことを分けておこう。男は何をしている」
小夜は、もう一度通りを観察した。
「荷を運んできた男を見ています。こちらへ近づこうとはしていません。弓を持つ手も、今は動いていません」
「ほかには」
「歩くとき、右脚をかばっています。ですが、傷があるのか、ただ歩き方に癖があるのかまでは分かりません」
景継はうなずいた。
「確かめるなら、こちらから声をかけるしかないな。ただし、相手を決めつけずに聞こう」
小夜は戸口へ向かった。
外へ出ると、弓を背負った男は小夜に気づき、わずかに身構えた。小夜は距離を詰めすぎず、相手の手が見える場所で足を止めた。
「何か用があって、こちらを見ていたのですか」
「いや。荷を渡せるかどうか、見ていただけだ」
男は、千代と話している商人へ目を向けた。
「このところ、ここへ物を運ぶと面倒に巻き込まれると聞いた。どんな場所なのか、確かめていた」
「それなら、何を心配しているのか聞かせてもらえますか」
「俺は荷運びの手伝いをしている。弓は昔から使っているが、今は誰かを狙うために持っているんじゃない。だが、弓を持っているだけで疑われるなら、ここへ来るのはやめた方がいいと思ってな」
男の声には警戒があった。しかし、脅すような様子はない。小夜は弓から目を離し、男の脚へ視線を落とした。
「右脚を痛めていますか」
男は眉を寄せた。
「なぜ分かった」
「歩くとき、右へ体重をかけないようにしていました。いつからですか」
「三日前だ。荷を運んでいて、石を踏み外した。大したことはない」
「痛みはありますか」
「歩くときだけだ」
小夜は、すぐに診療を勧めることはしなかった。男が本当に何を求めているのか、どこまで話すつもりなのか。それを決めつける必要はない。ただ、歩き方と本人の言葉が一致しているか、確かめることはできる。
「腫れはありますか。足をついたとき、痛みが強くなることは」
「少し腫れている。だが、歩けないほどじゃない」
「それなら、無理に歩き続けない方がいいと思います。痛みが強くなるなら、診てもらってください」
男は意外そうに小夜を見た。
「俺を疑わないのか」
「疑う理由があるかどうかは、まだ分かりません。弓を持っていることだけでは、何も決められませんから」
自分の口から出た言葉を、小夜は静かに受け止めた。
男はしばらく彼女を見ていたが、やがて肩の力を抜いた。
「……そうか。なら、荷の受け渡しが終わるまで待つ。話を聞いてから決めることにする」
男は通りの端へ移り、壁際に腰を下ろした。小夜はその場を離れ、景継のもとへ戻った。
「話を聞きました。荷運びを手伝っている者で、右脚を三日前に痛めたそうです。弓は以前から持っているとのことです。いまのところ、こちらへ近づこうとしたり、何かを探ったりする様子はありませんでした」
「分かった。脚のことは本人が望むなら診よう。身元について確かめる必要があるなら、それは別に行えばいい」
景継はそれ以上、小夜に尋ねなかった。
小夜は戸口の外へ目をやった。男は座ったまま、千代が商人と荷の数を確かめる様子を見ている。彼が何者なのか、話したことがすべて本当なのか、まだ分からない。それでも、分からない部分を想像だけで埋めずに済んだ。
昼近くになり、千代は受け取った布と薬種の数を帳面に記した。商人は受け取りの控えを確かめると、ようやく荷を手放した。供給が元どおりになるわけではないが、今日の分は確保できた。
宗助のいる部屋から、小夜を呼ぶ声がした。
「小夜、宗助の様子を見てくれ。呼吸と顔色、それに傷に当てた布を確かめてほしい」
「分かりました」
小夜はすぐに返事をした。
宗助は横になったまま、目を開けていた。顔色はまだ悪く、太腿の傷も安心できる状態ではない。小夜は傷に触れないよう注意しながら、布に新たな血が広がっていないかを確かめた。それから呼吸を見て、声をかけた。
「宗助殿、聞こえますか。息苦しさはありませんか」
「……今は、ない」
「痛みはどうですか」
「動かなければ、何とか」
小夜は返答と時刻を記録し、景継へ伝えた。宗助の身元については、まだ確かなことが分かっていない。手当てを受けているからといって、疑いが晴れたわけでもなかった。
それでも、小夜は患者の呼吸を見続けた。
過去に誤った判断をしたことは消えない。あの若者の肩に残った傷も、自分が放った矢も、なかったことにはならない。
だが、目の前の人間を見て、確かめられることを確かめる。それをせずに、間違いを恐れて目をそらすなら、あのときの失敗から何も学んでいないことになる。
小夜は宗助の胸の動きを数え、記録へ書き留めた。
見たことを伝える。分からないことは、分からないままにする。そして、確かめるべきことから目をそらさない。
弓を持つ手を、もう一度信じられるかどうかは、まだ分からない。
けれど、小夜は自分の目を閉じることだけは、もうやめようと思った。




