第二十五話 疑いの代償
第二十五話 疑いの代償
朝、診療の場へ運び込まれた布の包みは、いつもより小さかった。
千代が包みを開き、中身を一枚ずつ確かめる。傷口を覆うために使える布はある。だが、前に約束していた量には届いていなかった。
「これで全部ですか」
荷を運んできた男は、千代の問いにすぐ答えなかった。包みの口を結び直し、背後に控える若い者へ目を向ける。
「しばらくは、これ以上お渡しできません」
「前にお願いした分は、まだ残っているはずですが」
「残っております。ですが、今は出せません」
男は言い切ったあと、言葉を探すように唇を結んだ。
千代は包みから手を離した。
「何か事情が変わったのですね」
「……こちらにも、店の都合がございます」
男はそれ以上を語ろうとせず、頭を下げた。千代も無理に引き止めなかった。相手が口を閉ざしたままでは、条件を聞き出すこともできない。
男たちが去ると、千代は布を包み直した。いつもなら受け取った量と日付を記しておくところだが、筆を取る前に景継の方を見た。
「先生。約束していた布が、届かなくなりました」
景継は患者の傷を覆っていた布を押さえ、結び目を確かめてから顔を上げた。
「理由は聞けたか」
「はっきりとは。ただ、こちらとの取引を続けることに不安があるようです」
景継は手を止めた。
宗助を診たことが、城内でどのように伝わっているかは分かっていた。敵方に通じる者を助けた。身元も分からない男を庇っている。そうした話が、診療の場を離れて広がっていた。
患者の傷を診た。それだけのことだと説明しても、相手が何を恐れているのかを変えることはできない。
「ほかの取引先はどうだ」
「まだ確かめておりません。ですが、同じ話を聞いている者はいるでしょう」
千代は包みを見下ろした。
「医療に必要だからと頼めば、相手も出してくれると思っていたわけではありません。ただ、これまでの取引で、こちらが約束を違えたことはないはずです。それでも、疑いを持たれれば、約束そのものが危うくなります」
「そうだな」
景継は短く答えた。
善意を訴えれば、相手が安心して物を渡せるようになる。そう考えるのは簡単だった。だが、商人には商人の暮らしがある。取引先に目をつけられることも、扱う品を疑われることも、彼らにとっては損失だった。
景継が患者を診たことで、千代が積み重ねてきた信用まで揺らいでいる。
「ほかの品も、すぐに確認した方がよさそうです」
千代はそう言って、手元の帳面を開いた。
「布だけではありません。薬種を扱う者も、運ぶ者も、こちらと付き合うことで何が起こるかを考え始めているはずです。届かなくなってから探していては、間に合わないことがあります」
「頼む。まず、どこから何が届くことになっているか、確かめてくれ。無理に約束を取りつける必要はない」
千代はうなずき、帳面に目を落とした。
その日の昼過ぎ、診療の場に来る人の流れも変わっていた。
以前は、傷を見せに来た者が帰り際に家族の具合を尋ねたり、近くで働く者が余った布を持ち込んだりすることがあった。今日は戸口で中をのぞき、景継の姿を見つけると、そのまま引き返す者がいた。
綾が戸口の近くに立ち、通り過ぎる男へ声をかけた。
「どうした。診てもらうつもりで来たのではないのか」
「いや、たいした傷ではない」
「なら、そう言えばいい。ここまで来て、何も言わずに帰ることはないだろう」
男は綾の顔を見たあと、診療の場の奥へ目をやった。
「先生は、あの男をまだ診ているのか」
綾の表情が硬くなった。
「誰を診るかは、先生が決めることだ」
「敵方の者かもしれないと聞いた」
「聞いた話だけで、何が分かる」
「分からぬから、皆が用心しているのだ」
男の声には怒りよりも不安があった。綾はその顔を見て、すぐには言い返さなかった。
「お前が何を心配しているのかは分かった。だが、傷があるなら、隠して悪くする前に診せろ。診るかどうかを、噂で決めるな」
男は返事をしなかった。しばらく戸口に立っていたが、結局、傷を見せずに帰っていった。
綾はその背を見送り、戸口から離れた。
「言い負かしても、戻っては来ないか」
景継が近くまで来ていた。綾は振り返った。
「追いかけて連れ戻すこともできる。だが、あの様子では、無理に連れてきても何も話さないだろう」
「そうだな」
「先生が間違っていないと、皆に分からせたいのか」
景継はすぐには答えなかった。
「そう思わないわけではない。だが、私が正しいと認めさせることと、あの男が安心して傷を見せられることは、同じではない」
綾は片方の肩をわずかに動かした。
「なら、何をする」
「何をしたのか、確かめられるようにする」
景継はそう答え、診療の場へ戻った。
宗助の容体は、まだ予断を許さなかった。呼吸の様子には注意が必要で、傷の処置を続けても、胸の内側で起きていることまでは分からない。景継は変化を見落とさないよう、診た時刻と呼吸、脈、呼びかけへの反応を記録していた。
その記録を、小夜が机の端に置いていた。
「先生。宗助の様子は、こちらにまとめてあります」
小夜は記録を景継へ差し出した。記したのは、容体の変化と、その時に行った処置だった。確かなことと、まだ分からないことは、分けて書いてある。
「呼吸が浅くなった時刻と、その前後の様子も記しました。私が見たことと、先生が確かめたことが混ざらないようにしています」
景継は紙面を追った。
「よく整理できている。これなら、あとから見直せる」
小夜は少しだけ息をついたが、表情は晴れなかった。
「この記録を見せれば、疑いはなくなるでしょうか」
「なくならないかもしれない」
景継は記録を置いた。
「記録に書けるのは、私たちが見たことと、したことだ。宗助が何者なのか、何を考えているのかまでは分からない」
「では、何のために残すのですか」
「私たちが何をしたのかを、確かめられるようにするためだ。覚えているつもりでも、あとになれば曖昧になる。疑われている時ほど、記憶だけで説明してはいけない」
小夜は記録を見つめた。
「私が見たことも、残しておいた方がいいのですね」
「そうだ。分からなかったことも含めてな」
小夜は筆を取り、記録の端に、まだ判断できない点を書き加えた。
夕刻、千代が戻ってきた。手には帳面があり、顔には疲れが見えた。
「二つの取引先が、次の納めを先延ばしにしたいと言っています。一方は、しばらく様子を見たいと。もう一方は、品を渡す前に、誰が使うのかを確かめたいそうです」
「こちらが何を診ているか、知りたいのか」
「それもあるでしょう。ただ、誰が何を言っているのか、話がいくつも重なっているようです。宗助を診たという話だけでなく、先生が身元を隠しているという話まで出ていました」
景継は眉を寄せた。
「身元を隠しているつもりはない。分からないものを、分かったように言っていないだけだ」
「その違いを、相手に説明する必要はあると思います。でも、言葉だけでは足りません」
千代は帳面を開き、品目ごとの残りと、次に届く予定の日を書き並べた。
「布は、今ある分でしばらく持ちます。ただし、患者が増えれば分かりません。薬種は品によって余裕がありません。納めが遅れた場合、どの処置に影響が出るか、先に確かめたいのです」
「分かった。使った分と残りを、これまで以上に正確に記録しよう。必要なものを一度に頼むのではなく、急ぐものから相談する」
「それなら、相手にも条件を示せます。こちらが何を必要としているのか、どれだけ待てるのか。曖昧なまま頼むよりは、話ができるはずです」
綾が腕を組んだまま、二人の話を聞いていた。
「だが、こちらがどれほど正確に記録しても、疑う者は疑うだろう」
「そうだろうな」
景継は否定しなかった。
「記録は、誰もが信じてくれるようにするためのものではない。何が起きたかを、後から確かめられるようにするためのものだ」
綾はしばらく黙っていた。
「なら、現場で見たことも残しておく。誰が運ばれてきて、どこで待ち、誰がそばにいたか。私が見ていたことなら、私の言葉で書ける」
「頼む」
景継はうなずいた。
四人は、できることを分けて進めた。千代は物資の残量と取引先との約束を整理し、綾は患者の出入りと運搬の記録をつけた。小夜は宗助を含めた患者の経過を、見たことと判断を分けて書き残した。景継は診療の内容と、処置を選んだ理由を記した。
記録が増えても、失った信用が戻るわけではない。翌日、予定どおりに物資が届く保証もなかった。
それでも、何が不足し、どの処置に影響し、誰が何を判断したのかを確かめることはできる。
景継は最後の記録を書き終え、筆を置いた。
宗助の身元は、まだ分からない。彼を診たことで生じた疑いも、消えてはいなかった。
ただ、疑いを恐れて記録を残さなければ、後に残るのは噂だけになる。
景継は帳面を閉じず、次の患者を診るために立ち上がった。




