↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
滅びるはずの小田原衆を、転生医師が救う  作者: チャプタさん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
49/50

第四十九話 師不在救命

第四十九話 師不在救命


「景継様。こちらを見てください」


 小夜の声が、遠くから聞こえた。


 景継は返事をしようとした。口は開いたが、声が出ない。


 綾の腕が、傾いた身体を支えていた。


「患者が……」


「患者はここにいる。お前は立てていない」


 綾は言い切った。


 小夜が膝をつき、景継の顔を確かめた。目は開いている。問いかければ答えも返る。だが、顔色は悪く、額には汗が浮かんでいた。


「今、ここがどこか分かりますか」


「荷車の……止まったところです」


「分かりました。今は休んでください」


 千代が水を持って戻ってきた。景継の様子を見ると、器を抱える手に力が入った。


「休める場所を空けます。荷をどけます」


「必要なものと、後でよいものを分けてください。人手も要ります」


 綾の声に、千代はうなずいた。近くの若者を呼び、荷の仕分けを頼む。


 若者は景継を気にしながら、すぐには動かなかった。


「先生が倒れたのに、私たちだけで何ができるでしょう」


「先生が倒れたから、患者を放っておくのか」


 綾は若者を見た。


「見たことを伝えろ。分からないことは、分からないと言え。自分だけで判断できないなら、判断できる者に知らせろ。まずはそれだ」


 若者は唇を結び、うなずいた。


 景継は綾に支えられ、道端の敷物へ腰を下ろした。身体から力が抜けていく。目を閉じると、そのまま眠りに落ちそうだった。


「私なら、まだ……」


「まだ、ではない」


 綾は景継の肩を押さえた。


「お前は、私たちに任せると言ったことがある。今度は本当に任せろ」


 荷車の方から、患者のうめき声が聞こえた。


 景継は立ち上がろうとした。視界が暗くなる。手をついた先で、器が小さく鳴った。


 小夜がそばへ戻った。


「景継様。患者の様子は、私が見ています。変化があれば知らせます」


「呼吸が変わったら、時刻も……」


「記します」


「分からないことは」


「分からないと書きます」


 小夜は景継の目を見て答えた。


「危険な変化があれば、すぐに知らせます」


 景継はしばらく彼女を見つめていた。


 それから、わずかにうなずいた。


「……お願いします」


 小夜は頭を下げ、患者のもとへ戻った。


     *


 荷車の陰に、胸の苦しさを訴える男が横たわっていた。


 小夜が声をかけると、男は目を開けた。返事はあったが、先ほどより息が浅い。言葉の終わりも弱く、胸が上下するたびに顔が歪んだ。


「息は、先ほどより苦しくなっていますか」


 男は、しばらくしてからうなずいた。


 小夜は帳面を開いた。


 刻限。呼吸の様子。本人が訴えたこと。


 原因は分からない。何が起きているのか、今の小夜には断定できなかった。


 だが、先ほどと違うことは分かった。


「そこの方。こちらへ来てください」


 荷を運んでいた若者が、手を止めた。


「この方のそばにいてください。呼びかけへの返事と、息の様子を見ていてください。変わったら、すぐに知らせてください」


「私に分かるでしょうか」


「分からないこともあるでしょう。それでも、先ほどと違うと気づいたら知らせてください。判断は、そのあとで一緒に考えます」


 若者は男の顔を見た。


「もし、見間違えたら」


「見間違えたかどうかは、あとで確かめられます。何も言わずにいれば、確かめることもできません」


 若者は男のそばに腰を下ろした。


 小夜は別の患者の様子を確かめに行った。男のそばには、若者が残った。


 しばらくして、若者が立ち上がった。


「小夜様」


 その声は、先ほどより大きかった。


「あの方の返事が遅くなっています。呼びかけると目は開けますが、答えるまでに間があります。息も、さっきより浅くなったように見えます」


 小夜はすぐに戻った。


「いつからですか」


「つい先ほどです。私が見ていた間に変わりました」


「知らせてくれて、ありがとうございます」


 小夜は男のそばに膝をつき、呼びかけへの反応と呼吸を確かめた。確かに、先ほどとは違っていた。


 小夜は近くの者に、綾を呼ぶよう頼んだ。


 綾が来ると、小夜は見たことを順に伝えた。男の返事が遅くなったこと。息が浅くなったこと。変化に気づいた時刻。原因はまだ分からないこと。


「移動は続けられるか」


 綾が尋ねた。


「私には、続けてよいとは言えません」


 小夜は答えた。


「先ほどより状態が変わっています。今、動かした場合にどうなるか、私には判断できません」


 綾は男を見た。次に、修理途中の荷車へ目を向けた。


「分かった。ここで待つ。荷車を動かすな」


 近くにいた男が眉を寄せた。


「このままでは、先へ進めません」


「分かっている。だが、今の状態で運んで、途中でさらに悪くなれば、そこでまた止まることになる」


「では、どうするのです」


「今は様子を見る。荷車を動かさずに済むよう、道を空けろ。患者のそばに人を残せ。ほかの者は、必要な荷と水を確かめる」


 綾は一人で抱え込まず、周囲へ仕事を分けた。


 誰かが道を空けた。誰かが荷を寄せた。千代は水の残りを確かめ、患者のそばに必要なものを運ばせた。


 小夜は男のそばを離れなかった。


 景継がいれば、別の判断をしたかもしれない。もっと早く気づいたかもしれない。小夜には、それを否定できなかった。


 それでも、今ここで確かめられることはある。


 男の息が浅くなったこと。返事が遅くなったこと。移動を急ぐべきではないと考えられること。


 小夜は、見たことを一つずつ確かめ続けた。


     *


 千代は荷車の脇で物資を数えていた。


 布は汚れたものと、まだ使えるものに分けた。水は残りを数え、どこへ運んだかを記した。すべての者に、望むだけ配れる量ではなかった。


「向こうにも水を回さなければなりません」


 男が言った。


「こちらにも必要な者がいます。どこに何人いるか、先に確かめてください」


「そんなことをしている暇があるのか」


「確かめずに運べば、必要なところへ届かないかもしれません」


 千代は水の器を並べ直した。


 足りないものは、足りないと書いた。使えるものと、使えないものを一緒にしなかった。数え違いがあれば、あとで直せるようにした。


 帳面の数字だけで、水が増えるわけではない。


 それでも、何が残っているか分かれば、どこへ回すべきかを考えられる。


 綾は、移動できる者と、今は動かさない方がよい者を分けていた。


「歩けると言っている者は、歩かせてよいのですか」


 手伝いの男が尋ねた。


「歩けることと、歩かせてよいことは同じではない。痛みが強くなれば、途中で動けなくなる者もいる。本人の言葉だけで決めず、何ができるかを確かめろ」


「私たちだけで決められない者は」


「無理に決めるな。小夜に伝えろ。必要なら、私にも知らせろ」


 綾は荷車を支える者たちにも声をかけた。


「重いものは下だ。片側に寄せるな。積んだら、動かす前にもう一度確かめろ」


「分かっている」


「なら、声に出して確かめろ。お前一人が分かっていても、隣の者が知らなければ意味がない」


 男は不満そうな顔をしたが、隣の者に荷の位置を伝え始めた。


 その声を聞きながら、千代は帳面に水と布の数を書き足した。


 誰かが動けば、別の誰かがそれを知る。足りないものがあれば、足りないと知らせる。患者の様子が変われば、そばにいる者が伝える。


 まだ、すべてがうまくいっているわけではない。


 それでも、何も分からないまま、誰か一人の判断を待つよりは先へ進めた。


     *


 知らせを受けた景継は、身体を起こそうとした。


「すぐに行きます」


 立ち上がろうとした途端、視界が揺れた。手をついた先で、器がかすかに鳴った。


 若者が慌てて手を伸ばした。


「先生、まだ立ってはいけません」


「ですが、患者が」


「小夜様が見ています。綾様も、移動を止めました」


「状態は」


「返事が遅くなり、息も浅くなったそうです。私は、その変化を見て、小夜様に伝えました」


 若者はそこで言葉を切った。


「それ以上のことは、私には分かりません」


 景継は、若者を見た。


「……そうですか」


「はい。だから、分からないと伝えました。今も、小夜様が様子を見ています」


 景継は、身体を起こしかけた手を下ろした。


 患者のそばへ行きたい。自分の目で確かめたい。自分が判断すれば、何か変わるかもしれない。


 その思いは、まだ消えなかった。


「ありがとう。変化があれば、また知らせてください」


「はい」


 若者は一礼し、患者のもとへ戻っていった。


 景継は、その背を見送った。


 彼は診断をしたわけではない。処置を決めたわけでもない。ただ、目の前の男に起きた変化を見つけ、隠さず、小夜へ伝えた。


 その報告がなければ、変化に気づくのが遅れたかもしれない。


 綾は移動を止めた。小夜は観察を続けた。千代は必要なものを確かめた。若者は男のそばに残った。


 誰か一人が、すべてをしたのではなかった。


     *


 夕刻になっても、男の状態が完全に落ち着いたとは言えなかった。


 小夜は呼吸と返事を確かめ続けた。変化した時刻と、男が訴えたことを帳面に残した。原因については、まだ分からないと記した。


 綾は移動を急がせなかった。荷車の修理が終わっても、男をすぐに運ぶとは決めなかった。小夜から伝えられる様子を聞き、動かせる者と休ませる者を組み直した。


 千代は水と布を数え直した。若者たちは、患者のそばを交代で見守った。


 記録には、曖昧なところが残った。時刻を正確に覚えていない者もいた。観察した者によって、同じ様子を違う言葉で記した箇所もあった。


「ここは、いつ見たことですか」


 小夜が尋ねると、若者は首を横に振った。


「正確な刻は分かりません。昼を過ぎたころです」


「では、そのように書いておきましょう。次は、刻も確かめてください」


「はい」


「分からないことを、分かったように書かないでくれればいいのです。次に確かめられるようにしておけば、役に立ちます」


 若者は帳面に書き足した。


 その文字は、小夜のものとは違っていた。


 それでも、次に読む者には伝わる。


 夜になり、景継はようやく上半身を起こせるようになった。立ち上がることは、まだできなかった。


「患者は」


「小夜が見ている。まだ、良くなったとは言い切れない」


 綾はそう答えた。


「ただ、変化があればすぐ知らせが来る。お前が休んでいる間も、誰も放ってはいなかった」


「私がいれば、もっと早く判断できたかもしれません」


「そうかもしれない」


 綾は否定しなかった。


「お前がいれば気づけたこともある。それは変わらない。だが、お前がいない間に、何もできなかったわけでもない」


 景継は目を伏せた。


 しばらくして、小夜が帳面を持って戻ってきた。


「今日の記録です。先ほどからの変化と、私たちが確かめたことを分けてあります。まだ分からないことも、そのまま記しました」


 景継は受け取ろうとしたが、小夜は帳面をすぐには渡さなかった。


「今、すべてを読まなくてもよいのです。必要なところだけ、お伝えします」


 景継は手を止めた。


 小夜は、男の呼吸と返事の変化、若者から報告された時刻、移動を止めた経緯を説明した。自分で確かめたことと、ほかの者から聞いたことを混ぜずに伝えた。


「状態は、今のところ先ほどより落ち着いています。ただ、まだ安心はできません」


「分かりました」


「このまま、様子を見ます。変化があれば、また記します」


 景継はうなずいた。


「お願いします」


 小夜は帳面を抱え直した。


「景継様が戻るまで、何もできないとは思いたくありませんでした」


 景継は、返事をするまで少し時間がかかった。


「……ありがとうございます」


 小夜は頭を下げ、患者のもとへ戻った。


     *


 夜半を過ぎたころ、若者が再び景継のもとへ来た。


「先生。あの方は、まだ注意して様子を見る必要があります。ただ、今のところ、先ほどより状態は落ち着いています」


「小夜は」


「そばにいます。私は、呼びかけへの返事と、息の様子を記しました。次に確かめることも、帳面に残してあります」


 景継は身体を起こしかけた。


 若者が一歩近づいた。


「先生、まだ休んでいてください」


 景継の手が止まった。


「……私が行かなくても、大丈夫ですか」


 若者は、すぐには答えなかった。


「大丈夫だと言い切ることはできません。私は先生のように診ることはできませんし、分からないこともあります」


 若者は景継を見た。


「でも、変化を見つけたら知らせることはできます。小夜様が見ていることも、綾様が移動を止めたことも、私には分かります。だから、今も何をすべきか、皆で確かめています」


 景継は、ゆっくりとうなずいた。


「そうですか」


「はい」


 若者は一礼し、患者のもとへ戻っていった。


 外からは、まだ人々の声が聞こえていた。


 水の残りを読み上げる声。荷車の通路を空けるように呼びかける声。患者の名を尋ね、返ってきた言葉を帳面に記す声。


 景継は、そばに置かれた帳面を見た。


 文字は揃っていない。曖昧な箇所も残っている。これだけで、すべての命を救えるわけではない。


 それでも、男の変化は見つけられた。報告は届いた。移動は止められた。小夜は観察を続け、綾は判断を保留し、千代は必要な物を確かめ、若者は患者のそばに残った。


 男が助かると、まだ言い切ることはできない。


 だが、彼はひとりきりで放置されてはいなかった。


 景継は帳面に手を伸ばし、途中で止めた。


 今夜は、自分が書き足す番ではない。


 明日、身体が戻れば、皆と一緒に確かめればいい。間違いがあれば直し、足りないことがあれば教えればいい。


 今夜は、彼らが見ている。


 景継は横になった。


 患者の様子を伝える声が聞こえた。別の誰かが、その声を聞いて必要なものを取りに行く。帳面をめくる音が続いた。


 誰かが休めなくなれば、別の誰かが代わる。


 まだ危うい。まだ足りない。明日になれば、また判断を迫られるだろう。


 それでも、今夜、救命は止まらなかった。


 景継は目を閉じた。


 外では、若者が患者の名をもう一度確かめていた。


 返事は弱かったが、確かに返ってきた。


 その声を聞き届けた者が、帳面に一行を書き足した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。