第四十九話 師不在救命
第四十九話 師不在救命
「景継様。こちらを見てください」
小夜の声が、遠くから聞こえた。
景継は返事をしようとした。口は開いたが、声が出ない。
綾の腕が、傾いた身体を支えていた。
「患者が……」
「患者はここにいる。お前は立てていない」
綾は言い切った。
小夜が膝をつき、景継の顔を確かめた。目は開いている。問いかければ答えも返る。だが、顔色は悪く、額には汗が浮かんでいた。
「今、ここがどこか分かりますか」
「荷車の……止まったところです」
「分かりました。今は休んでください」
千代が水を持って戻ってきた。景継の様子を見ると、器を抱える手に力が入った。
「休める場所を空けます。荷をどけます」
「必要なものと、後でよいものを分けてください。人手も要ります」
綾の声に、千代はうなずいた。近くの若者を呼び、荷の仕分けを頼む。
若者は景継を気にしながら、すぐには動かなかった。
「先生が倒れたのに、私たちだけで何ができるでしょう」
「先生が倒れたから、患者を放っておくのか」
綾は若者を見た。
「見たことを伝えろ。分からないことは、分からないと言え。自分だけで判断できないなら、判断できる者に知らせろ。まずはそれだ」
若者は唇を結び、うなずいた。
景継は綾に支えられ、道端の敷物へ腰を下ろした。身体から力が抜けていく。目を閉じると、そのまま眠りに落ちそうだった。
「私なら、まだ……」
「まだ、ではない」
綾は景継の肩を押さえた。
「お前は、私たちに任せると言ったことがある。今度は本当に任せろ」
荷車の方から、患者のうめき声が聞こえた。
景継は立ち上がろうとした。視界が暗くなる。手をついた先で、器が小さく鳴った。
小夜がそばへ戻った。
「景継様。患者の様子は、私が見ています。変化があれば知らせます」
「呼吸が変わったら、時刻も……」
「記します」
「分からないことは」
「分からないと書きます」
小夜は景継の目を見て答えた。
「危険な変化があれば、すぐに知らせます」
景継はしばらく彼女を見つめていた。
それから、わずかにうなずいた。
「……お願いします」
小夜は頭を下げ、患者のもとへ戻った。
*
荷車の陰に、胸の苦しさを訴える男が横たわっていた。
小夜が声をかけると、男は目を開けた。返事はあったが、先ほどより息が浅い。言葉の終わりも弱く、胸が上下するたびに顔が歪んだ。
「息は、先ほどより苦しくなっていますか」
男は、しばらくしてからうなずいた。
小夜は帳面を開いた。
刻限。呼吸の様子。本人が訴えたこと。
原因は分からない。何が起きているのか、今の小夜には断定できなかった。
だが、先ほどと違うことは分かった。
「そこの方。こちらへ来てください」
荷を運んでいた若者が、手を止めた。
「この方のそばにいてください。呼びかけへの返事と、息の様子を見ていてください。変わったら、すぐに知らせてください」
「私に分かるでしょうか」
「分からないこともあるでしょう。それでも、先ほどと違うと気づいたら知らせてください。判断は、そのあとで一緒に考えます」
若者は男の顔を見た。
「もし、見間違えたら」
「見間違えたかどうかは、あとで確かめられます。何も言わずにいれば、確かめることもできません」
若者は男のそばに腰を下ろした。
小夜は別の患者の様子を確かめに行った。男のそばには、若者が残った。
しばらくして、若者が立ち上がった。
「小夜様」
その声は、先ほどより大きかった。
「あの方の返事が遅くなっています。呼びかけると目は開けますが、答えるまでに間があります。息も、さっきより浅くなったように見えます」
小夜はすぐに戻った。
「いつからですか」
「つい先ほどです。私が見ていた間に変わりました」
「知らせてくれて、ありがとうございます」
小夜は男のそばに膝をつき、呼びかけへの反応と呼吸を確かめた。確かに、先ほどとは違っていた。
小夜は近くの者に、綾を呼ぶよう頼んだ。
綾が来ると、小夜は見たことを順に伝えた。男の返事が遅くなったこと。息が浅くなったこと。変化に気づいた時刻。原因はまだ分からないこと。
「移動は続けられるか」
綾が尋ねた。
「私には、続けてよいとは言えません」
小夜は答えた。
「先ほどより状態が変わっています。今、動かした場合にどうなるか、私には判断できません」
綾は男を見た。次に、修理途中の荷車へ目を向けた。
「分かった。ここで待つ。荷車を動かすな」
近くにいた男が眉を寄せた。
「このままでは、先へ進めません」
「分かっている。だが、今の状態で運んで、途中でさらに悪くなれば、そこでまた止まることになる」
「では、どうするのです」
「今は様子を見る。荷車を動かさずに済むよう、道を空けろ。患者のそばに人を残せ。ほかの者は、必要な荷と水を確かめる」
綾は一人で抱え込まず、周囲へ仕事を分けた。
誰かが道を空けた。誰かが荷を寄せた。千代は水の残りを確かめ、患者のそばに必要なものを運ばせた。
小夜は男のそばを離れなかった。
景継がいれば、別の判断をしたかもしれない。もっと早く気づいたかもしれない。小夜には、それを否定できなかった。
それでも、今ここで確かめられることはある。
男の息が浅くなったこと。返事が遅くなったこと。移動を急ぐべきではないと考えられること。
小夜は、見たことを一つずつ確かめ続けた。
*
千代は荷車の脇で物資を数えていた。
布は汚れたものと、まだ使えるものに分けた。水は残りを数え、どこへ運んだかを記した。すべての者に、望むだけ配れる量ではなかった。
「向こうにも水を回さなければなりません」
男が言った。
「こちらにも必要な者がいます。どこに何人いるか、先に確かめてください」
「そんなことをしている暇があるのか」
「確かめずに運べば、必要なところへ届かないかもしれません」
千代は水の器を並べ直した。
足りないものは、足りないと書いた。使えるものと、使えないものを一緒にしなかった。数え違いがあれば、あとで直せるようにした。
帳面の数字だけで、水が増えるわけではない。
それでも、何が残っているか分かれば、どこへ回すべきかを考えられる。
綾は、移動できる者と、今は動かさない方がよい者を分けていた。
「歩けると言っている者は、歩かせてよいのですか」
手伝いの男が尋ねた。
「歩けることと、歩かせてよいことは同じではない。痛みが強くなれば、途中で動けなくなる者もいる。本人の言葉だけで決めず、何ができるかを確かめろ」
「私たちだけで決められない者は」
「無理に決めるな。小夜に伝えろ。必要なら、私にも知らせろ」
綾は荷車を支える者たちにも声をかけた。
「重いものは下だ。片側に寄せるな。積んだら、動かす前にもう一度確かめろ」
「分かっている」
「なら、声に出して確かめろ。お前一人が分かっていても、隣の者が知らなければ意味がない」
男は不満そうな顔をしたが、隣の者に荷の位置を伝え始めた。
その声を聞きながら、千代は帳面に水と布の数を書き足した。
誰かが動けば、別の誰かがそれを知る。足りないものがあれば、足りないと知らせる。患者の様子が変われば、そばにいる者が伝える。
まだ、すべてがうまくいっているわけではない。
それでも、何も分からないまま、誰か一人の判断を待つよりは先へ進めた。
*
知らせを受けた景継は、身体を起こそうとした。
「すぐに行きます」
立ち上がろうとした途端、視界が揺れた。手をついた先で、器がかすかに鳴った。
若者が慌てて手を伸ばした。
「先生、まだ立ってはいけません」
「ですが、患者が」
「小夜様が見ています。綾様も、移動を止めました」
「状態は」
「返事が遅くなり、息も浅くなったそうです。私は、その変化を見て、小夜様に伝えました」
若者はそこで言葉を切った。
「それ以上のことは、私には分かりません」
景継は、若者を見た。
「……そうですか」
「はい。だから、分からないと伝えました。今も、小夜様が様子を見ています」
景継は、身体を起こしかけた手を下ろした。
患者のそばへ行きたい。自分の目で確かめたい。自分が判断すれば、何か変わるかもしれない。
その思いは、まだ消えなかった。
「ありがとう。変化があれば、また知らせてください」
「はい」
若者は一礼し、患者のもとへ戻っていった。
景継は、その背を見送った。
彼は診断をしたわけではない。処置を決めたわけでもない。ただ、目の前の男に起きた変化を見つけ、隠さず、小夜へ伝えた。
その報告がなければ、変化に気づくのが遅れたかもしれない。
綾は移動を止めた。小夜は観察を続けた。千代は必要なものを確かめた。若者は男のそばに残った。
誰か一人が、すべてをしたのではなかった。
*
夕刻になっても、男の状態が完全に落ち着いたとは言えなかった。
小夜は呼吸と返事を確かめ続けた。変化した時刻と、男が訴えたことを帳面に残した。原因については、まだ分からないと記した。
綾は移動を急がせなかった。荷車の修理が終わっても、男をすぐに運ぶとは決めなかった。小夜から伝えられる様子を聞き、動かせる者と休ませる者を組み直した。
千代は水と布を数え直した。若者たちは、患者のそばを交代で見守った。
記録には、曖昧なところが残った。時刻を正確に覚えていない者もいた。観察した者によって、同じ様子を違う言葉で記した箇所もあった。
「ここは、いつ見たことですか」
小夜が尋ねると、若者は首を横に振った。
「正確な刻は分かりません。昼を過ぎたころです」
「では、そのように書いておきましょう。次は、刻も確かめてください」
「はい」
「分からないことを、分かったように書かないでくれればいいのです。次に確かめられるようにしておけば、役に立ちます」
若者は帳面に書き足した。
その文字は、小夜のものとは違っていた。
それでも、次に読む者には伝わる。
夜になり、景継はようやく上半身を起こせるようになった。立ち上がることは、まだできなかった。
「患者は」
「小夜が見ている。まだ、良くなったとは言い切れない」
綾はそう答えた。
「ただ、変化があればすぐ知らせが来る。お前が休んでいる間も、誰も放ってはいなかった」
「私がいれば、もっと早く判断できたかもしれません」
「そうかもしれない」
綾は否定しなかった。
「お前がいれば気づけたこともある。それは変わらない。だが、お前がいない間に、何もできなかったわけでもない」
景継は目を伏せた。
しばらくして、小夜が帳面を持って戻ってきた。
「今日の記録です。先ほどからの変化と、私たちが確かめたことを分けてあります。まだ分からないことも、そのまま記しました」
景継は受け取ろうとしたが、小夜は帳面をすぐには渡さなかった。
「今、すべてを読まなくてもよいのです。必要なところだけ、お伝えします」
景継は手を止めた。
小夜は、男の呼吸と返事の変化、若者から報告された時刻、移動を止めた経緯を説明した。自分で確かめたことと、ほかの者から聞いたことを混ぜずに伝えた。
「状態は、今のところ先ほどより落ち着いています。ただ、まだ安心はできません」
「分かりました」
「このまま、様子を見ます。変化があれば、また記します」
景継はうなずいた。
「お願いします」
小夜は帳面を抱え直した。
「景継様が戻るまで、何もできないとは思いたくありませんでした」
景継は、返事をするまで少し時間がかかった。
「……ありがとうございます」
小夜は頭を下げ、患者のもとへ戻った。
*
夜半を過ぎたころ、若者が再び景継のもとへ来た。
「先生。あの方は、まだ注意して様子を見る必要があります。ただ、今のところ、先ほどより状態は落ち着いています」
「小夜は」
「そばにいます。私は、呼びかけへの返事と、息の様子を記しました。次に確かめることも、帳面に残してあります」
景継は身体を起こしかけた。
若者が一歩近づいた。
「先生、まだ休んでいてください」
景継の手が止まった。
「……私が行かなくても、大丈夫ですか」
若者は、すぐには答えなかった。
「大丈夫だと言い切ることはできません。私は先生のように診ることはできませんし、分からないこともあります」
若者は景継を見た。
「でも、変化を見つけたら知らせることはできます。小夜様が見ていることも、綾様が移動を止めたことも、私には分かります。だから、今も何をすべきか、皆で確かめています」
景継は、ゆっくりとうなずいた。
「そうですか」
「はい」
若者は一礼し、患者のもとへ戻っていった。
外からは、まだ人々の声が聞こえていた。
水の残りを読み上げる声。荷車の通路を空けるように呼びかける声。患者の名を尋ね、返ってきた言葉を帳面に記す声。
景継は、そばに置かれた帳面を見た。
文字は揃っていない。曖昧な箇所も残っている。これだけで、すべての命を救えるわけではない。
それでも、男の変化は見つけられた。報告は届いた。移動は止められた。小夜は観察を続け、綾は判断を保留し、千代は必要な物を確かめ、若者は患者のそばに残った。
男が助かると、まだ言い切ることはできない。
だが、彼はひとりきりで放置されてはいなかった。
景継は帳面に手を伸ばし、途中で止めた。
今夜は、自分が書き足す番ではない。
明日、身体が戻れば、皆と一緒に確かめればいい。間違いがあれば直し、足りないことがあれば教えればいい。
今夜は、彼らが見ている。
景継は横になった。
患者の様子を伝える声が聞こえた。別の誰かが、その声を聞いて必要なものを取りに行く。帳面をめくる音が続いた。
誰かが休めなくなれば、別の誰かが代わる。
まだ危うい。まだ足りない。明日になれば、また判断を迫られるだろう。
それでも、今夜、救命は止まらなかった。
景継は目を閉じた。
外では、若者が患者の名をもう一度確かめていた。
返事は弱かったが、確かに返ってきた。
その声を聞き届けた者が、帳面に一行を書き足した。




