第二十三話 戻らぬ兵
第二十三話 戻らぬ兵
昼を過ぎた頃、診療の場へひとりの男が運び込まれた。
肩を借りて歩いてはいたが、足を地につけるたびに顔を歪めている。着物の裾には土がこびりつき、左足首のあたりがひときわ膨らんでいた。
「訓練場で転びまして。足をひねっただけです」
男はそう言った。付き添ってきた若い兵が、男の腕を支えながら口を挟む。
「転んだあとも槍を持って立っていました。けれど、しばらくして歩けなくなって……」
「名は」
「弥三郎と申します」
景継は男を座らせ、まず顔色と呼吸を確かめた。足首に触れようとすると、弥三郎は反射的に足を引いた。
「痛むか」
「少しばかり。これくらいで騒ぐほどではございません」
「少しばかりなら、立って歩けるはずだ」
弥三郎は返事をせず、膝の上で拳を握った。
景継は草履を脱がせ、足首の腫れを確かめた。外くるぶしの周囲が大きく膨らみ、皮膚も張っている。骨の損傷を見た目だけで否定することはできない。強く押せば、かえって傷を深めるおそれがあった。
「いつ転んだ」
「朝方です」
「それから、どれだけ歩いた」
「訓練場から詰所まで。それから、ここまで」
「痛みは強くなったか」
「……歩くほどに」
景継は足を動かさず、腫れの範囲と皮膚の色を見た。足先の冷たさを確かめ、指を動かせるか尋ねる。弥三郎は顔をしかめながらも、ゆっくりと指を曲げた。
「骨が折れていないとは、まだ言えない。足首の傷も軽くはない。今は体重をかけるな」
「しかし、明日には持ち場へ戻らねばなりません」
「明日のことは、明日、足の具合を見て決める」
「明日になれば治るということですか」
「そうは言っていない」
景継は腫れた足首を支え、布を巻く位置を確かめた。締めつけすぎれば血の巡りを妨げる。固定するにしても、足先の色や冷たさが変わらないか、あとから確かめる必要がある。
小夜がそばへ来て、弥三郎の足先を見た。
「こちらの指は動きます。けれど、触れられたときの痛みは強いようです」
「その変化も見ておいてくれ。腫れが増すか、足先の色が変わるか。痛みが急に強くなったときも知らせてほしい」
小夜はうなずき、経過を書き留めるための紙を手元へ引き寄せた。
景継は足首を安定させるように布を巻き、足を少し高くして休ませた。歩かずに済む場所を確保し、しばらくは自分で移動しないよう言い含める。
処置が終わると、弥三郎は巻かれた布を見つめた。
「これで、明日には戻れますか」
「今の時点では分からない。無理に歩けば、腫れも痛みも増す。骨に傷があれば、なおさらだ」
「ですが、私が休めば、持ち場に穴が開きます」
「代わりの者はいないのか」
「皆、それぞれの役目があります。私の分まで引き受けてもらうわけにはいきません」
弥三郎は言葉を切り、足を動かさないようにしながら上体を起こした。
「ここで寝ていれば、足は治るかもしれません。けれど、家の者はどうなります。私が働けなければ、明日の食い扶持にも困るのです」
景継は返事を急がなかった。
傷を診ることはできる。腫れが引くまで休ませることもできる。だが、男が休んでいる間の暮らしまで、薬や布で支えられるわけではない。
弥三郎は、痛みに耐えられないから戻れないのではない。戻らなければ困るから、痛みを隠しているのだ。
「いつも、どのような仕事をしている」
「詰所の番と、訓練の手伝いです。人手が足りぬときは、荷も運びます」
「足を使わずにできる仕事はあるか」
「番の者が座っていては、務まりません」
「立ち続けることだけが番の仕事なのか」
弥三郎は眉を寄せた。
「何をおっしゃりたいのです」
「今の足で立てば、転ぶかもしれない。転べば、もう片方の足まで傷めることもある。そうなれば、戻るまでに余計な日数がかかる。今、無理をして明日の役目を果たすことと、足を悪くして長く働けなくなること。そのどちらが家のためになるか、考えてほしい」
「それでも、休んだ分の働きは誰かがせねばなりません」
弥三郎の声には、怒りよりも切迫した響きがあった。
景継は、その言葉を否定しなかった。人は休めと言われただけで、明日の暮らしを捨てられるものではない。
「持ち場の者と話をする。お前が今できる仕事があるか、代わりを立てられるか、確かめよう。だが、足の具合を見ずに戻す約束はできない」
「先生が決めてくださるのですか」
「いや。お前の足を診るのは私だが、持ち場の人員を動かすのは私ひとりでは決められない。だから、話を通す」
弥三郎は不満そうに口を閉じた。納得したわけではない。それでも、立ち上がろうとはしなかった。
景継は綾を呼び、詰所の様子を尋ねた。
「負傷者が休んでいる間、持ち場を代われる者はいるだろうか。全員が同じ仕事をしているわけではないはずだ」
綾は少し考えた。
「人が足りないのは確かです。ですが、誰が何をしているかを見ずに、全員が欠かせないと言っているだけかもしれません。詰所へ行って、役目を確かめてきます」
「頼む。無理に誰かの仕事を増やすことにならないかも見てほしい」
「分かっています。こちらの都合だけで押しつければ、別の者が倒れますから」
綾はそう答え、詰所へ向かった。
景継は弥三郎のそばに残り、足の状態をもう一度確かめた。腫れはすぐには引かない。布の巻き方を調整し、足先の色と温度に変化がないかを見た。
「痛みが強くなったら、我慢せずに言え。足先がしびれたり、冷たくなったりしたときもだ」
「承知しました」
「それから、勝手に立つな」
「……分かりました」
返事は不服そうだったが、弥三郎は横になった。
しばらくして戻ってきた綾は、詰所での話を簡潔に伝えた。
「明日の朝番は、別の者と交代できるそうです。ただし、その者は荷運びも兼ねています。番の間は荷の仕事をほかへ回す必要があります」
「誰かが二つの仕事を引き受けることになるのか」
「そうなります。詰所の者だけで決めるのは難しいでしょう。荷を運ぶ側にも話を通さなければなりません」
千代が、物資の出入りを書き留めた紙を持って近づいてきた。話を聞くと、すぐには答えず、記された名前と仕事の内容を確かめた。
「荷運びをすべて止めるわけにはいきません。ただ、明日の朝に限るなら、順番を入れ替えられるかもしれません。荷を受け取る側にも都合がありますから、こちらだけで決めず、先に確かめます」
「頼めるか」
「確約はできません。でも、どこに支障が出るか分かれば、代わりの手を探せます」
千代は紙をたたみ、詰所の者と話をするために出ていった。
景継は、その背を見送った。
足を治すことと、持ち場を空けないこと。二つを同時に解決するのは容易ではない。誰かを休ませれば、別の誰かの負担が増える。負担を減らそうとして仕事を止めれば、今度は荷や物資が届かなくなる。
それでも、負傷者を無理に立たせて済ませるわけにはいかなかった。
夕刻、千代が戻り、荷を運ぶ順番を一部入れ替えられたと告げた。詰所の者も、翌朝の交代を受け入れたという。ただし、代わりに入る者の負担がなくなったわけではない。荷運びの順番を変え、ほかの者が少しずつ受け持つことで、ひとまず穴を埋める形になった。
「明日の朝だけです。明後日も同じようにできるとは限りません」
千代は念を押した。
「分かっている。まずは明日、足の具合を確かめる」
景継は弥三郎に、持ち場の交代が決まったことを伝えた。
男はしばらく黙っていた。やがて、巻かれた足首へ視線を落とした。
「皆に、余計な手間をかけてしまいました」
「負傷したことまで、お前ひとりの責任にする必要はない。ただ、無理をして悪化させれば、もっと長く人手を借りることになる」
「……はい」
弥三郎の声から、最初の強い調子は消えていた。それでも不安は残っている。明日になれば痛みが引く保証はない。仕事を休む日が延びれば、家の暮らしにも影響が出る。
景継はその不安を、簡単な言葉で消そうとはしなかった。
「今夜は休め。明日の朝、もう一度診る。足の状態が変わっていれば、仕事へ戻れるかどうかも改めて考える」
弥三郎はうなずき、ようやく身体から力を抜いた。
夜が近づくにつれ、診療の場に残る患者も少なくなった。景継は宗助の様子も確かめた。脈を取り、呼吸を見て、傷からの出血が増えていないかを確認する。まだ安心できる状態ではない。宗助の身元についても、周囲の疑いが晴れたわけではなかった。
景継は記録に目を落とし、弥三郎の負傷時刻と腫れの様子、足先の状態、行った処置を書き加えた。明日の診察で比較できるよう、今の状態を残しておく。
命を救うことと、その命が再び暮らしを営めるようにすることは、同じではない。
傷が塞がっても、働けなければ困る者がいる。休めば誰かに負担が移る。だからといって、無理に働かせれば、戻れるはずの者まで戻れなくなる。
景継は筆を置き、弥三郎の寝ている場所を見た。
明日の朝、足の腫れがどうなっているかは分からない。交代の手配も、これで先々まで解決したわけではない。
それでも、今夜ひとりの兵を無理に立たせずに済んだ。
景継にできたのは、まだそこまでだった。




