第二十二話 備えの代価
第二十二話 備えの代価
名胡桃をめぐる報せが届いてから、城内の空気は少しずつ変わっていた。
表向きには、これまでと同じように人が行き交い、兵は持ち場へ向かい、蔵からは必要な品が運び出されている。だが、物資を扱う者たちの会話には、以前よりも値や数量を確かめる言葉が増えた。荷を運ぶ者は行き先を尋ね、受け取る側は、いつまでにどれだけ必要なのかを繰り返し確認する。
景継は診療の場で、使える布と薬種の残りを調べていた。
机の上には、千代が集めた品々の控えが置かれている。清潔な布、傷を洗うための水を入れる器、包帯代わりに使える細長い布、薬種。それぞれの数量は記されていたが、数字を並べただけでは、どれだけ持ちこたえられるかは分からない。
「布は、先に見たときより減っていますね」
小夜が、別の紙を手にして言った。
「どれくらいだ」
「この数日で使った分を数えました。傷の手当てに使ったものと、洗って乾かしているものを分けています。まだ使えるものもありますが、同じ状態で戻ってくるとは限りません」
景継は紙を受け取り、記された数量を確かめた。
汚れた布を洗えば、再び使えるものもある。だが、血や汚れを十分に落とせたか分からないものまで、清潔な布と同じようには扱えない。乾かす場所も要るし、洗う者の手間もかかる。使った分をそのまま差し引くだけでは、実際に次の処置へ回せる数量を見誤る。
「洗い終えたものも、使えると判断したものと、まだ分からないものを分けておこう。数が合っていても、使えなければ備えにはならない」
「はい。次からは、その違いも書いておきます」
小夜は紙を受け取り、記録の端に新しい欄を設けた。
景継は、薬種の控えにも目を移した。名が分かっていても、品質や効き目まで確かめられているとは限らない。量だけを数えて安心するわけにはいかなかった。
戸口から綾が入ってきた。片手には、使い古された布が何枚かまとめてある。
「これも数に入れるのか」
「状態を見てからだ。全部を同じようには使えない」
「なら、先に分けておいた方がいい。運ぶ者は、どれを持っていけばいいのか分からずに迷っていた。置き場所も決めずに積んでおけば、急いでいるときに探すことになる」
綾は布を机の脇へ置いた。右腕を失った身体で、片手だけを使って束を崩さないよう運んできたらしい。置き方にも、運びやすい向きが考えられていた。
「清潔なものは、すぐに使える場所へ。洗い直すものは別にする。そうすれば、持っていく者も間違えにくい」
景継はうなずいた。
「その場所を決めてくれ。置く場所だけでなく、誰が出し入れするかも」
「分かった。人手が足りないなら、今のうちに決めておく」
綾はすぐに動こうとしたが、戸口で振り返った。
「ただし、物を分けるだけで人を増やしたことにはならない。布を洗う者も、乾かす者も、診療の場まで運ぶ者も必要だ。いまの仕事に、そのまま足せば済むと思わないことだな」
景継は返事をする前に、机の上の記録を見た。
その通りだった。清潔な布を増やすには、布そのものだけでなく、洗う水と場所、乾かす時間、作業を担う人が要る。備蓄の数字だけを増やしても、日々の仕事が回らなくなれば、かえって診療を妨げる。
「作業を分けよう。今いる者に、できる範囲を聞いてから決める」
「それならいい」
綾は、布を置き場所へ運ぶ者を呼びに出た。
しばらくして、千代が戻ってきた。手には物資を扱う者から受け取った控えがある。表情は明るくなかった。
「布は、前に話した相手から一部を分けてもらえそうです。ただ、すぐに全部を届けられるわけではありません」
「数量は」
「こちらが求めた分の半分ほどです。残りは、別の注文が先に入っているそうです」
景継は控えを受け取った。記された数量は、こちらの希望より少ない。だが、相手が約束を破ったわけではなかった。
「値は上がったのか」
「少し。布を扱う者も、先の注文がどうなるか分からないと言っています。こちらへ回せば、別の相手への引き渡しが遅れる。無理にこちらを優先させれば、次の取引を断られるかもしれません」
「こちらが必要としていると伝えるだけでは、動かせないということか」
「はい。相手にも、相手の仕事があります」
千代は控えを机に置いた。
「急いでいるからといって、こちらの都合だけで条件を変えることはできません。支払いを確かにすること、受け取る日を決めること、運ぶ手間を誰が負うかをはっきりさせること。そのうえで、どこまでなら相手が引き受けられるかを聞いてきました」
景継は、数量と納期を見比べた。
必要な物資は布だけではない。傷を洗う水も、薬種も、容器もいる。すべてを希望どおりに集めることができればよいが、そのために別の部署の仕事を止めるわけにもいかなかった。
「布は、その半分を確保しよう。残りは別の相手にも当たってくれ。急ぎの分と、時間をかけてもよい分を分けて伝えてほしい」
「分かりました。ただ、別の相手が同じ数量を出せるとは限りません」
「それでも、聞いてみる価値はある。一か所から来なくなっただけで、診療が止まるのは避けたい」
千代はうなずいたが、すぐには控えをしまわなかった。
「もう一つ、決めておきたいことがあります。物資を受け取ったとき、誰が数量を確かめ、どこへ置き、いつ使った分を知らせるのか。そこまで決めておかなければ、集めた品がいつの間にか足りなくなります」
「受け取りと保管を分けるのか」
「少なくとも、受け取った数と、使った数は別に残したいです。運んできた者が数えたものを、そのまま棚へ置くだけでは、途中で何が起きたのか分かりません」
景継は、手元の記録を見た。
これまでは、使えるものがあるかどうかを確かめるだけで精いっぱいだった。だが、物資を集め始めれば、数を管理する責任も生じる。誰かが持ち出したことを疑うためではない。使った量と残った量が分からなければ、次に何を求めるべきか決められないのだ。
「受け取った者が数量を確かめ、記録する。使ったときも、その場で残す。記録する者が手を離せないときは、あとでまとめて書くのではなく、使った者が分かるように印を残しておこう」
「その形なら、続けられそうです」
千代はようやく控えをしまった。
景継は、机の上に別の紙を広げた。
「ただ、いくら必要かは、まだ決めきれない」
小夜が顔を上げた。
「これまで使った量から、見当をつけるのではないのですか」
「見当はつけられる。でも、これから何人が運び込まれるかは分からない。今までと同じ人数なら足りる量でも、急に患者が増えれば足りなくなる。かといって、分からない分をすべて積み上げようとすれば、今ある物資を使い切ってしまう」
景継は、紙に品目を書き出していった。
まず、出血を抑えるために必要な布。傷を洗い、処置に使う水。汚れた布を清潔なものと分けるための入れ物。薬種は、効能や状態を確かめられるものと、そうでないものを分ける。どれも必要だが、同じように扱うことはできなかった。
「今すぐ代わりが見つからないものと、別の方法で補えるものを分けよう。布が足りないからといって、汚れたものを確かめずに使うわけにはいかない。器なら、洗って使えるものがあるかもしれない。薬種も、名前だけで同じものとして数えない」
「では、必要な数は少なくなりますか」
小夜が尋ねた。
「少なく見積もるために分けるんじゃない。何が足りないのかを、間違えないためだ」
景継は書き終えた紙を小夜へ渡した。
「これまでの患者の記録と照らし合わせてくれ。どの処置で、何をどれだけ使ったか。分からないところは、分からないままにしておいてほしい」
「はい。推測で埋めないようにします」
小夜は紙を受け取り、記録の束を手元へ寄せた。
綾が戻ってきたのは、それから間もなくのことだった。布を置く場所は決まったものの、作業を担う者たちから、これ以上仕事を増やすのは難しいと申し出があったという。
「洗う者は、ほかの仕事も抱えている。乾かす場所も、今のままでは広げられない。何人かに手伝ってもらうことはできるが、毎日同じ人数を出せるとは言えないそうだ」
「無理に引き受けてもらうわけにはいかないな」
「そうだ。手伝いを頼むなら、いつ、どれだけ必要なのかを決めてくれ。毎日来いと言われても、向こうにも暮らしがある」
景継は、当初の計画を見直した。
清潔な布を増やすことだけを考えれば、洗う者を増やし、乾かす場所を広げればよい。しかし、そのためにほかの仕事が滞れば、今度は別の場所で困る者が出る。人手を集めることも、物を買うことと同じように、相手の都合を無視しては成り立たなかった。
「まず、必要な布を使う量から見直そう。傷の処置で何枚必要だったか、使い終えたもののうち、どれだけが洗い直せたかを確かめる。作業の手順も整理して、手伝いが必要な日を絞ろう」
「その方が、頼む側も受ける側も分かりやすい」
綾は、納得したようにうなずいた。
その日の午後、景継たちは、集められる物資の量を改めて書き出した。
希望する数量をそのまま備えることはできない。布は一部だけ先に届き、残りは別の相手を探す。薬種は名前だけで数えず、状態を確かめる。作業に必要な人手も、毎日確保できるとは限らない。景継は、足りないものを一度に埋めようとするのをやめ、当面の診療に必要な量と、次に補充するものを分けて記した。
小夜が、記録をまとめながら言った。
「これで、どれくらい持つか分かるでしょうか」
「今までと同じように使うなら、ある程度は見当がつく。ただ、患者が増えれば変わる。だから、残りの数だけでなく、何日でどれだけ減ったかも見ていこう」
「毎日、確かめるのですね」
「そうだ。足りなくなってから気づくのでは遅い」
景継は、最後の欄に補充した日と数量を書き加えた。
記録は、物資を増やしてくれるわけではない。書きつけたところで、商人が予定より多く品を出してくれるわけでも、作業を担う者の手が増えるわけでもない。それでも、何がどれだけ使われ、何が残っているかが分かれば、次に打てる手は変わる。
夕刻、千代が新たな控えを持ってきた。
「別の相手にも話をしてきました。少量なら出せるそうです。ただし、すぐに届けられるかは、運ぶ者の都合次第だと」
「確実な約束ではないんだな」
「はい。だから、届くまでは、あるものとして数えない方がいいと思います」
景継は、その言葉を聞いてから、備蓄の記録に目を戻した。
「そうしよう。手元に届いて、数量を確かめるまでは、備えに入れない」
千代は小さく息をつき、控えをまとめた。
診療の場では、宗助の傷も引き続き注意深く見守られていた。身元については、まだ確かなことが分かっていない。傷が落ち着いたと決めつけることもできず、景継は容体の変化を確かめながら、必要な処置を続けていた。
その一人に必要な布を確保することと、これから運び込まれるかもしれない患者のために残しておくこと。どちらも無視できない。だが、先の人数が分からない以上、何もかもを取っておくこともできなかった。
景継は、残った布の数をもう一度確かめた。
以前より、備えの形は整ってきた。何があり、何が足りず、誰が補充を頼み、誰が使用量を記録するのか。少なくとも、分からないまま物を積み上げることは減らせる。
しかし、帳面に記された数量が増えても、安心できるわけではなかった。
布を買えば銭が要る。洗えば人手と水が要る。運ぶには道と時間が要る。そして、集めた物資を使えば、また補わなければならない。
景継は、備蓄の欄に残った数量を書き入れ、筆を置いた。
備えは、一度整えれば終わるものではない。
使うたびに減り、補うたびに手間と代価がかかる。それでも、必要になってから探し始めるよりは、今できることを積み重ねておく方がいい。
外では、兵たちが交代の時刻を告げていた。
名胡桃の報せが何をもたらすのか、景継にはまだ分からない。ただ、戦の気配が強まるにつれて、診療の場に必要なものを手に入れることも、これまでより難しくなっていく。そのことだけは、机の上の控えと、少しずつ減っていく布の束が示していた。




