第二十一話 名胡桃の報せ
第二十一話 名胡桃の報せ
宗助の呼吸が、いくらか深くなったのは夜半を過ぎてからだった。
景継は傷口を押さえていた布の状態を確かめ、血の広がりがひとまず収まっていることを見た。だが、男の顔色はまだ悪い。呼びかければ目を開けるものの、返事は短く、すぐにまぶたが落ちた。
「今夜は、目を離さないでくれ。呼吸や返事に変化があれば、すぐに知らせてほしい」
景継が告げると、小夜は宗助のそばでうなずいた。
「分かりました。名前を呼んで、返事の様子も確かめます」
「無理に起こし続けなくていい。変化がないかを見るんだ」
小夜は男の顔を見つめ、手元の記録に時刻を書き入れた。
戸口には、身元を調べると言った男がまだ残っていた。宗助の持ち物は別に預けられ、誰も中身を勝手に調べたり、持ち出したりしないようにしてあるという。
景継はそれ以上を尋ねなかった。今ここで素性を問い詰めても、傷が癒えるわけではない。宗助の容体を見ながら、必要な情報を確かめていけばよかった。
綾が戸口の外から戻ってきた。
「人は減った。だが、まだ何人か残っている。あの男が誰なのか、皆が気にしているらしい」
「診療の邪魔にならなければいい」
「そう簡単にはいかないだろうね」
綾は残った布を確かめ、使い終えたものと分けて置いた。右腕のない身体で、彼女は無理に物を抱え込もうとしない。動かせる手と周囲の人間を使い、必要なものを必要な場所へ運ばせていた。
「清潔な布は、まだ足りるか」
「今夜の分は何とか。ただ、これが続けば厳しいよ」
千代が答えた。布の残りを記した紙には、使った枚数と、洗い直している枚数が別々に記されている。以前なら一つの山にまとめていたものも、今では使えるものと、まだ使えないものを分けるようになっていた。
「明日、商人のところへ行く。まとまった量を頼めるか聞いてみるよ。ただ、すぐに手に入るとは限らない」
「頼む。足りないものは布だけじゃない。水を運ぶ器も、傷を覆うためのものもいる」
「分かっている。だから、何でも買うとは約束しない。必要なものと、手に入るものを照らし合わせて決める」
千代はそう言って、記録を懐へしまった。
翌朝、診療の場へ使者が来た。
男は道中の埃を払う間も惜しんだように、取り次いだ者へ文書を差し出した。封を確かめた者が中身を読み、すぐに城内へ知らせを運んでいく。
しばらくして、景継にも呼び出しがかかった。
案内された部屋には、数人の武士が集まっていた。広げられた書状の前で、年長の男が眉間に深い皺を寄せている。
「名胡桃の城をめぐり、騒ぎが起きたそうだ」
景継が入ると、男はそう告げた。
「詳しい事情は、まだ確かではない。だが、豊臣方がこの件をどう受け取るかによっては、ただの領地争いでは済まぬ」
別の男が、書状を指で押さえた。
「北条の側に責任があるとされれば、向こうはそれを口実に動くやもしれぬ。事の次第を確かめる必要がある」
「こちらの言い分を伝えれば、収まるのではありませぬか」
若い武士が言った。だが、答える者はいなかった。
名胡桃で何が起きたのか。誰が何を命じ、どこまで事情を知っていたのか。届いた知らせだけでは、判断できることは限られている。書状を読み返す男たちの表情にも、まだ確かな見通しはなかった。
景継は黙って聞いていた。
現代で知っていた歴史が、目の前の出来事と重なり始めている。小田原征伐は遠い先の話ではない。だが、結末を知っているからといって、これから誰が何を決めるかまで分かるわけではなかった。
この場で、戦を止めるための言葉を持っているわけでもない。
「医療の備えについて、申し上げたいことがあります」
景継が口を開くと、集まっていた者たちの視線が向いた。
「戦になると決まったわけではない」
「承知しております。ただ、負傷者が出てから用意を始めても、間に合わないものがあります」
「何を用意するというのだ」
「清潔な布、水を入れる器、傷を覆うための材料。それに、負傷者を運ぶ人手と、運び込まれた者を休ませる場所です。薬種も必要ですが、効き目の分からないものを数だけ揃えても、役には立ちません」
年長の男は、景継をしばらく見ていた。
「兵糧も武具も必要なのだ。医療ばかりに物を回すわけにはいかぬ」
「はい。すべてを医療に回してほしいと申し上げているのではありません。何がどれだけあるかを確かめ、足りないものから順に補いたいのです」
「そのために人を割けと?」
「今いる者の手が空く時間を確かめ、できる範囲から始めます。負傷者が運び込まれたとき、布を探し、人を集め、寝かせる場所を決めるところから始めていては、手当てが遅れます」
武士の一人が腕を組んだ。
「戦が起きると決めつけて、城内を騒がせることにならぬか」
「起きないのであれば、それが一番です。用意したものは、病人や怪我人にも使えます」
景継はそれ以上、言葉を重ねなかった。
年長の男は書状へ目を落とし、隣の者と短く言葉を交わした。すぐにすべてを認める様子ではなかったが、追い返すこともしなかった。
「まずは、今ある物の数を出せ。軍の備えに差し障らぬ範囲で、どこまでできるか確かめる。それ以上は、改めて考える」
「承知しました」
景継は頭を下げた。
診療の場へ戻ると、綾が運び込まれた患者の寝床を整えていた。小夜は宗助の記録をつけ終え、千代は物資の残りを机に並べている。
「何か決まったのかい」
綾が尋ねた。
「今ある物を数えることは認められた。新しく揃えられる量は、まだ分からない」
「それでも、何が足りないか分からなければ、頼みようもないね」
千代は紙を広げた。布、器、薬種、運搬に使える道具。思いつくままに書き足すのではなく、今ある数と、使える状態にある数を分けていく。
「まずは、診療で実際に使った分を確かめる。どれだけ必要か分からないまま多く頼めば、支払いも運び込みも無理が出るからね」
「患者が増えたときの分は?」
小夜が尋ねた。
「見込んではおく。ただし、必ず増えると決めてしまわない。今の患者に必要なものを削って、先のためだけに取っておくわけにもいかないから」
千代の答えに、小夜は記録を見直した。ここ数日で使った布の数は、景継が思っていたよりも多かった。傷の処置だけではない。患者の身体を拭き、寝床を整え、汚れたものを分けるたびに布は必要になる。
景継は記録を受け取り、項目を確かめた。
「清潔な水を運ぶ器も、数を出しておこう。布だけ増えても、洗う水が足りなければ困る」
「分かった。水を運ぶ人手も一緒に調べるよ」
綾が言った。
「人手なら、診療の手伝いに来ている者たちにも、何ができるか聞いてみる。力仕事ができる者と、患者のそばにいられる者は違うからね」
綾はそう言って、戸口へ向かった。人を集めて命令するのではなく、誰が何をできるかを確かめようとしていた。
昼過ぎ、宗助が目を覚ました。
景継がそばへ行くと、男はぼんやりと天井を見ていた。呼びかけには応じる。呼吸は昨夜より落ち着いていたが、顔色はまだ悪い。
「傷はどうだ」
「……痛みます」
「痛むのは当然だ。無理に動かないこと。気分が悪くなったり、息が苦しくなったりしたら、すぐに知らせてくれ」
宗助はかすかにうなずいた。
「俺は……ここにいていいんでしょうか」
景継は、男の問いにすぐには答えなかった。
「今は、傷を診ている。身元については、別に調べている者がいる」
「俺が何者か、聞かないのですか」
「話せる状態になってからでいい」
宗助は景継を見た。何かを言いかけたが、やがて目を閉じた。景継はそれ以上問い詰めず、脈を確かめてから記録に戻った。
名胡桃の報せが届いても、診療の仕事は変わらない。傷を負った者は痛みを訴え、熱のある者は水を求める。戦が起きるかどうかを話し合う者たちの決定を待ってから、病や傷が始まるわけではなかった。
夕刻、千代が調べた物資の一覧を持ってきた。今すぐ使える布、洗い直している布、傷の処置に使える器具。数はそろっているように見えても、実際に使えるものは限られている。
「この量なら、今の患者を診ることはできる。ただ、同じ数の患者が一度に来たら足りないよ」
「どれくらい足りないか、分かるか」
「まだ正確には言えない。傷の重さで使う量が違うし、洗い直した布をいつ戻せるかもある。まずは数日、使った分と戻ってきた分を記録してみる」
「頼む」
景継は一覧を受け取り、目を通した。必要な量を一度で見積もることはできない。だが、何を使い、どれだけ戻り、何が失われるのかを記録すれば、次に必要なものは少しずつ見えてくる。
窓の外では、城下の人々が夕餉の支度を始めていた。荷を担ぐ者が通り、商いを終えた者が店先を片づけている。今はまだ、日々の暮らしが続いている。
景継は一覧の端に、運搬に必要な人手と、負傷者を休ませる場所を書き足した。
戦を止める力は、自分にはない。
だが、誰かが傷を負ったとき、何もない場所で手当てを始めることだけは避けられるかもしれない。
名胡桃の報せが何を招くのか、まだ分からない。分からないからこそ、今あるものを確かめ、足りないものを見定めておく必要があった。
景継は筆を置き、宗助の寝床へ目を向けた。男は目を閉じていたが、胸は静かに上下している。
明日も診療は続く。その先に何が待っているとしても、まずは目の前の命と、救うために必要なものを見失わないことだった。




