第二十話 診るべき者
第二十話 診るべき者
診療の場が落ち着く頃には、日が傾き始めていた。
景継は、患者の記録を確かめてから筆を置いた。熱が下がり始めた者もいれば、食事が取れず、もう一日様子を見る者もいる。小夜は患者の間を回って変化を聞き取り、綾は人の出入りを整えていた。千代が布や水の残りを確かめてくれるおかげで、景継も目の前の診察に集中できる。
「こちらの方は、昼から熱が上がっていません。ただ、食事はほとんど取れていないそうです」
小夜が記録を差し出した。
「水は飲めているか」
「少しずつなら。飲んだ量は、あとで本人にもう一度聞いておきます」
「頼む。熱だけでなく、食べた量も残しておいてくれ」
小夜はうなずき、次の患者のもとへ向かった。
そのとき、戸口の外で声がぶつかった。
「ここで診せるつもりか」
「立たせておける状態じゃない。先に寝かせろ」
荒い息遣いが近づいてきた。綾が戸口へ出ると、男二人が、別の男を両脇から支えていた。負傷者は三十前後。衣は土に汚れ、左脚を引きずっている。顔色は青白く、額には汗が浮かんでいた。
「どうした」
景継が声をかけると、支えていた男の一人が答えた。
「城下へ入る道の脇で倒れていました。声をかけても、ろくに返事をしません。足から血が出ていて、歩けぬようです」
「見つけたときから、こうだったのか」
「はい。傷に布が巻かれていましたが、血が染み出していました」
もう一人の男が、負傷者の腰を見た。
「それに、持ち物に怪しいものがあったそうです」
「待て」
後ろから入ってきた男が、負傷者の前に立ちはだかった。腰には刀を帯びている。
「この者は、北条に敵対する者とつながっている疑いがあります。素性も分からぬ者を、勝手に診せるわけにはいきません」
負傷者を支えていた二人の手が止まった。
景継は男の顔を見た。呼吸は浅く、速い。呼びかけへの反応も鈍い。左脚の布は血を吸って黒くなっていた。
「話は聞いた。だが、先に寝かせてくれ」
「身元を明らかにするのが先です」
「身元を調べることと、傷を診ることは別だ。今は出血している」
「敵方の者だったら、どうするのです」
「その話は、傷を確かめてからにしてくれ」
景継は声を荒らげなかった。だが、引くつもりもなかった。
綾が負傷者の背後へ回った。
「二人とも、こちらから支えて。ゆっくり下ろす。足を無理に動かさないで」
彼女が立つ位置を変え、支える男たちへ短く指示を出す。二人は顔を見合わせたあと、負傷者を床へ寝かせた。
景継は膝をついた。
「聞こえるか。名は言えるか」
男の唇が動いた。
「……宗助」
「宗助。どこを怪我した」
返事の代わりに、男は左脚をわずかに動かし、顔をしかめた。太腿に巻かれた布の端から、赤い血が滲んでいる。
景継は布をいきなり剥がさず、まず出血の状態を見た。傷の深さは分からない。指を入れて探れば、かえって傷を広げるおそれがある。
「この布は、誰が巻いた」
「見つけたときからです。私たちは触っていません」
「分かった。ここを押さえていてくれ。布を何度も外さないように」
景継は清潔な布を重ね、傷の上から圧迫した。宗助の顔が歪む。男の手足は冷たく、脈は速い。汗ばんだ額とは反対に、指先には力がない。
「寒いか」
「……はい」
「動かず、横になっていろ」
景継は圧迫を続けながら、意識と呼吸を確かめた。出血が減ったように見えても、それだけで危険が去ったとはいえない。
「先生」
刀を帯びた男が、すぐそばから声をかけた。
「この者を手当てして、逃がすおつもりですか。敵方の者であれば、城下の様子を探りに来たのかもしれません」
「逃がすとは言っていない」
「では、なぜ診るのです」
「今、血が流れているからだ」
「それだけで?」
「それだけで、命を落とすことがある」
景継は男から目を離した。言い争っている間にも、宗助の呼吸は浅いままだった。
千代が清潔な布を抱えて戻ってきた。状況を見て、使っていない布を景継の手元へ置く。
「残りは多くありません。今使う分と、あとで必要になる分を分けておきます」
「頼む。使った枚数も記録してくれ」
千代はすぐに布を数え始めた。必要だからといって、いくらでも使えるわけではない。だが、残りを惜しんで手当てを遅らせるわけにもいかなかった。
小夜が宗助のそばへ来た。顔色と呼吸を見てから、景継へ告げる。
「先ほどより、返事が遅くなっています」
景継は宗助の名を呼んだ。
「宗助。聞こえるか」
男のまぶたがわずかに動いたが、返事はなかった。
「小夜、そばで呼吸を見ていてくれ。数だけでなく、急に浅くなったり、返事がなくなったりしたらすぐ知らせてほしい」
「分かりました」
小夜は宗助の顔を見つめた。景継の言葉を待つだけでなく、自分で変化を見つけようとしている。
綾は刀を帯びた男へ向き直った。
「ここで声を張り上げても、血は止まらない。調べるなら、診療の邪魔にならないところでやってくれ」
「お前に指図される筋合いはない」
「指図ではない。今、何が起きているかを言っている」
男は言い返そうとしたが、宗助の顔を見て口をつぐんだ。
景継は圧迫を続けた。布に染みる血は、先ほどより広がるのが遅くなっている。だが、宗助の顔色は戻らず、脈も弱いままだった。
「この者を見つけた場所へ、案内できるか」
景継は、運んできた男たちに尋ねた。
「ええ。ですが、なぜです」
「倒れていたときの様子を知りたい。ほかに傷がないかも確かめたい。見つけたとき、意識はあったのか」
「目は開いていましたが、声をかけてもほとんど返事をしませんでした」
「近くに誰かいたか」
「人影は見ませんでした」
景継はうなずいた。分かったことは限られている。宗助が誰なのか、なぜ道端で倒れていたのか、持ち物に何があったのか。まだ確かなことは一つもなかった。
「持ち物は、今どこにある」
「預かっています」
「そのまま保管しておいてくれ。勝手に捨てたり、誰かに渡したりしないように」
景継は疑いを無視しているのではない。確かめるべきことは確かめる。ただ、傷を診ることまで止める理由にはならなかった。
「……水を」
宗助がかすれた声を漏らした。
千代が器を手に取ろうとしたが、景継は首を振った。
「今は飲ませないでくれ。意識がはっきりせず、容体も落ち着いていない」
千代は器を脇へ置いた。宗助は目を閉じ、浅い呼吸を繰り返している。
「ここから離れないでくれ。呼吸が変わる、返事がなくなる、出血が増える。どれか一つでもあれば、すぐに知らせてほしい」
小夜がうなずいた。綾は入口の人の流れを止め、千代は使える布を手元にそろえた。それぞれが動いたことで、景継は宗助の状態を見続けられた。
しばらくして、宗助が薄く目を開けた。
「……ここは」
「診療の場だ。左脚に深い傷がある。まだ動いてはいけない」
「俺は……」
「話はあとでいい。今は息を整えてくれ」
宗助は何かを言いかけたが、声にならなかった。出血が完全に止まったわけでも、危険が去ったわけでもない。景継は圧迫を緩めず、意識と呼吸を確かめ続けた。
刀を帯びた男が、低い声で言った。
「この者の身元は、こちらで調べます。手当てを続けることは構いません。ただし、勝手に外へ出すことは認められません」
「それでいい。身元の確認は頼む」
景継は顔を上げた。
「だが、容体が変わったときは、先に知らせてほしい。問いただすのは、そのあとでもできる」
男は不満そうに眉を寄せたものの、今度は反論しなかった。
宗助の手当ては続く。小夜は呼吸の変化を見守り、綾は人の出入りを管理し、千代は使った布の数を記録していた。
その一方で、戸口の外には、事情を知ろうとする者が残っていた。
敵方の疑いがある男を、景継が診た。
それだけの話が、どのように伝わるかは分からない。手当てを受けた者が誰であろうと、診療の場では傷と容体を先に見る。その判断を、周囲の誰もが受け入れるとは限らなかった。
景継は宗助の脈を確かめた。
まだ弱い。だが、今も触れる。
この命をつなぐためにできることを続ける。それと同時に、宗助が何者なのかも、いずれ確かめなければならない。
どちらか一方を見ないふりをすることは、できなかった。




