第十八話 熱の連鎖
第十八話 熱の連鎖
最初に異変を訴えたのは、朝の膳を片づけていた女だった。
女は桶を脇へ置くと、額に手を当てた。立ち上がろうとして膝が折れ、そばにいた者が慌てて肩を支える。
「どうした」
「少し、気分が悪うて……。腹も痛みます」
声に力がなかった。景継は女の前に膝をつき、顔色と呼吸を確かめた。額に触れると、手のひらに熱が伝わる。女は腹のあたりを押さえ、身を丸めるようにしていた。
「いつからだ」
「夜明け前には、もう……」
「昨夜は何を食べた。水はどこで飲んだ」
女は途切れ途切れに答えた。昨夜の食事はいつもと大きく変わらないという。水は、普段どおりの場所から汲んだものを飲んだらしい。
景継は、腹のどこが痛むのかを確かめ、吐き気や下痢の有無を尋ねた。女は首を振ったが、言葉の途中で口元を押さえた。そばにいた者が器を差し出すと、女は身を折り、胃の中のものを吐いた。
景継は背を支え、吐き終わるまで待った。口元を拭う布を渡し、少し落ち着いてから、もう一度顔色と呼吸を確認する。
「今は無理に食べなくていい。水も一度にたくさん飲まず、飲めるかどうかを見ながら少しずつにしよう。腹の痛みが強くなるようなら、すぐに知らせてくれ」
女を休ませる場所を決め、看病する者にも注意を伝えた。景継が立ち上がろうとしたとき、戸口から別の声がした。
「先生、こちらにも熱を出した者がいます」
呼びに来た男の後ろには、若い荷運びが立っていた。顔色が悪く、片手で腹を押さえている。
「いつからだ」
「昨夜からです。腹が痛くて、何度も厠へ……」
景継は、先ほどの女と同じ場所で過ごしていたかを尋ねた。男はしばらく考え、同じ場所で食事をしたことはあるが、寝起きする場所は違うと答えた。
似た症状の者が、二人。
これだけで原因を決めることはできない。食べたものが悪かったのか、水に問題があったのか、それとも別の理由があるのか。発熱と腹部の症状だけでは、判断に足る材料がなかった。
景継は荷運びを診てから、二人が使っていた場所と道具を確かめることにした。
その日の昼前、さらに一人が運ばれてきた。
今度は、診療を手伝っていた男だった。朝から腹が落ち着かず、昼近くになって熱が上がったという。男は、ほかの二人とは別の場所で食事をしていた。ただし、仕事の合間に同じ水桶から水を飲んだことはあるらしい。
景継は手を止めた。
三人とも、発熱と腹部の症状がある。発症した時刻にはずれがあり、食事の場所も完全には一致していない。だが、日々の仕事の中で、同じ水や道具に触れていた可能性はあった。
「三人が、いつから具合を悪くしたのか、もう一度確かめたい。誰か、話を聞いて回れるか」
近くにいた者へ尋ねると、すぐには返事がなかった。診療の手伝いだけでも忙しい。患者の世話に加えて、別の者の様子まで確かめる余裕は乏しかった。
景継は、無理に全員を動かすことはせず、まず患者のそばにいる者へ、それぞれが覚えていることを聞いてもらうことにした。具合が悪くなった時刻、最初に現れた症状、食事と水を口にした場所。分からないことは、分からないままでよい。曖昧な記憶を無理に埋めても、かえって見誤る。
小夜が、手元の布を畳みながら顔を上げた。
「先生。三人とも、腹が痛くなったのは熱が出る前か、後か。それも聞いたほうがよいのでしょうか」
「ああ。順番が分かれば、経過を比べる手掛かりになる。覚えていなければ、そう書いておけばいい」
小夜はうなずき、患者のそばへ向かった。以前なら、確信のない問いを口にする前に景継の顔色をうかがっていたかもしれない。今は、必要だと思ったことを自分から尋ねている。
景継は、ほかの者にも話を聞いた。三人のうち、誰かと同じ食事をした者はいるか。水を汲んだ桶はどこに置かれていたか。吐いた者のそばで、誰が片づけをしたか。汚れた布や器は、その後どのように扱われたか。
答えはすぐには揃わなかった。普段の暮らしでは、誰がどの桶を使ったか、どの器を触ったかなど、いちいち覚えてはいない。食事も水も、多くの者が同じものを使っていた。
それでも、話を重ねるうちに、三人が同じ場所にいた時間がいくつか浮かび上がった。
景継は、その場所を見に行った。
水桶は人の出入りする場所に置かれ、使う者が自由に柄杓を取れるようになっていた。近くには、使い終えた器や布がまとめて置かれている。片づけを急いだのか、汚れたものと、まだ使えるものが同じ場所に寄せられていた。
これだけで、ここが原因だとは言えない。だが、誰が使ったのか分からないものを、次の者がそのまま使うことは避けたかった。
「この桶の水は、いったん使うのをやめよう。別に水を用意してくれ。汲む場所と運ぶ者も決めて、汚れた器や布のそばへ置かないようにしたい」
作業をしていた男が、困った顔をした。
「ですが、皆が使う水です。別に用意するとなれば、手間も増えます。今でも人が足りぬのに」
「分かっている。水を運ぶ手間が増えるのも、桶を分けるのが面倒なのも分かる。だが、同じものを使い続けて、具合の悪い者が増えたら、世話をする手も足りなくなる」
男は口をつぐんだ。
「原因がこの水だと決まったわけではない。ただ、今のまま続けるのは避けたい。まずは、使う水を分けよう」
景継は、手伝いの者たちと相談し、飲み水を扱う桶と、汚れた器を洗う場所を分けた。患者の吐いたものや排泄物を片づける際には、手や衣服に汚れがついたまま別の患者に触れないようにする。世話を終えたら手を洗い、使った布はまとめて扱う。清潔な布を置く場所も、汚れたものから離した。
どれも、特別な道具を必要とする方法ではない。だが、決めただけで守られるものでもなかった。
しばらくすると、看病をしていた女が、汚れた布を持ったまま別の患者のところへ向かおうとした。景継は声をかけて足を止めた。
「それは、こちらへ置いてくれ。次の患者に触れる前に、手を洗おう」
女は、手元の布を見下ろした。
「これまでは、こうしておりました。布も足りませんし、少し汚れたくらいなら、また使えるかと」
「布が足りないのは分かっている。だが、汚れたまま使い回せば、別の者に病を広げるおそれがある。洗って乾かしたものと、今使ったものを混ぜないようにしたい」
「それでは、手間が増えます」
「増える。だから、誰が何をするか決めて、無駄な動きを減らそう。足りないものを、使い方で補える部分もあるはずだ」
女はすぐには納得しなかったが、景継が布の置き場所を分け、洗う者と清潔な布を扱う者を分けるよう頼むと、しぶしぶながらも手を動かし始めた。
夕刻までに、発熱と腹部の症状を訴える者は、さらに二人増えた。
景継は一人ずつ診て、症状と発症した時刻を確かめた。熱が高くても、呼びかけに応じ、飲み物を少しずつ口にできる者がいる。一方、熱はそれほど高くなくても、腹の痛みが強く、何度も吐いて力を失っている者もいた。症状の強さは一様ではなく、同じ病気だと断じることもできなかった。
水分を失っている様子の者には、飲めるかどうかを見ながら、少量ずつ飲ませた。吐き気が強い者には無理をさせず、意識や呼吸、腹部の痛みの変化を繰り返し確かめる。痛みが強まる、反応が鈍くなる、飲めなくなるといった変化があれば、すぐに知らせるよう看病する者へ伝えた。
薬を与えれば一度で治る、という状況ではなかった。何が原因か分からない以上、見当だけで薬種を選び、確かな効き目があるかのように扱うわけにもいかない。景継にできるのは、危険な変化を見逃さず、患者の負担を減らし、病が広がる可能性を少しでも抑えることだった。
夜になっても、診療の場から人が絶えることはなかった。
綾は、患者の寝場所が近づきすぎていることに気づき、動かせる者と動かせない者を分けて、世話をする者が行き来しやすいように場所を整えた。右腕を失った身体では、一度に運べるものも限られる。綾は無理に自分で抱えようとせず、手を借りる相手と運ぶ順を決めていた。
「具合の悪い者を離すのは分かる。だが、看病する者まで別々にしていたら、手が足りなくなる」
綾の言葉には、現場を見てきた者の実感があった。
「だから、できる範囲で分けたい。全員を完全に隔てることはできない」
景継は答えながら、患者のいる場所を見渡した。
「看病する者も、何人かに決めよう。誰でも出入りする形は避けたい。世話を終えたら手を洗う。汚れた布や器を、別の患者のそばへ持っていかない。それだけでも、今よりは危険を減らせる」
「その手順を守る者がいなければ、決めても意味はないな」
「そうだ。だから、誰が担当するか決めて、守れているかを確かめる必要がある」
綾は周囲を見てから、看病を担える者の名を挙げた。無理に一人へ仕事を集めず、交代できるようにする。動ける患者には、必要なものを自分で手元に置いてもらい、看病する者の往来を減らす。景継が診察を続ける間、綾は現場の動きを少しずつ整えていった。
小夜は、患者ごとの変化を書き留めていた。いつから熱が出たか、腹痛や吐き気がいつ始まったか、飲み物を口にできたか。分からないことは空けたままにし、後から聞けたことを書き足していく。
「この者は、昼には少し飲めましたが、夕方からまた吐いています」
小夜の報告を聞き、景継はその患者のもとへ戻った。顔色は昼より悪く、呼びかけへの返事にも時間がかかっていた。景継は飲ませるのを急がず、呼吸と反応を確かめ、看病する者に変化があればすぐ知らせるよう念を押した。
「先ほどより悪くなっている。しばらく、目を離さないでくれ」
小夜はうなずき、記録にその時刻を書き加えた。
夜半を過ぎても、原因は分からなかった。共通していたものはいくつか見つかったが、それだけで病の出どころを決めることはできない。水を分け、布や器の扱いを改めたからといって、すぐに新しい患者が出なくなる保証もなかった。
それでも、景継たちは、誰がいつ具合を悪くしたのかを確かめ続けた。具合の悪い者のそばで誰が世話をしたか、どこで水を飲んだか、症状がどう変わったか。目の前の患者を診るだけでは分からないことが、少しずつ記録に残り始めていた。
翌朝、景継は患者の寝場所を一つずつ回った。
熱が下がり、腹の痛みが和らいだ者もいた。だが、まだ起き上がれない者もおり、吐き気が続いている者もいた。前日より落ち着いたように見えても、回復したと決めつけることはできない。
新たに具合を悪くした者がいるか尋ねると、看病をしていた男は、今のところ思い当たる者はいないと答えた。ただし、朝の仕事が始まったばかりで、全員の様子を確かめ終えたわけではないという。
「分かった。昼にも、もう一度確かめてくれ。具合が悪くなった者がいたら、軽いと思っても知らせてほしい」
景継は記録を受け取り、発症した時刻を見比べた。新しい患者が出ていないことは、ひとまず安堵できる知らせだった。しかし、対策が効いたのか、たまたま発症の間が空いただけなのかは、まだ分からない。
小夜が隣に立ち、記録をのぞき込んだ。
「これで、原因が分かるのでしょうか」
「まだだ。似た症状が出た者が、何を一緒に使い、どこで過ごしていたのか。分かったことはあるが、決め手には足りない」
「では、何をすれば」
「確かめ続ける。具合の悪い者をよく診ることと、ほかの者に広げないこと。その両方を続けるしかない」
景継は記録を閉じた。診療の場には、まだ熱の残る者たちが横たわっている。水を運ぶ者も、布を洗う者も、いつもの仕事に加えて新しい手順を覚えなければならない。負担は確実に増えていた。
それでも、誰かが病に倒れてから慌てるだけでは、間に合わないことがある。
景継は、次の患者のもとへ向かった。
病の原因は、まだ見えていない。だが、誰がいつ倒れ、何が変わり、何をすれば悪化を防げるのか。見過ごさずに確かめることなら、今からでも続けられる。




