第十六話 尽きる布
第十六話 尽きる布
朝の診療が始まる前から、布を洗う水場には人が集まっていた。
桶の中では、赤黒く汚れた布が水を吸って重くなっている。洗い終えたものは近くの板に広げられ、まだ乾いていない布は軒下に吊るされていた。日が差し始めたとはいえ、風は弱い。乾ききるまでには、まだ時間がかかりそうだった。
景継は、軒下に並んだ布を一枚ずつ見て回った。
乾いたもの。湿り気が残るもの。洗ったばかりなのに、汚れが落ちきっていないもの。どれも同じように畳まれ、同じ場所へ重ねられようとしていた。
「これは、もう使えるのか」
手に取った布を示すと、洗い場にいた女が眉を寄せた。
「汚れは落としました。これ以上洗えば、布が傷みます」
「乾いてはいないな」
「ええ。ですが、乾くのを待っていたら間に合いません。まだ診てほしい者が来るんですから」
女の声には疲れがにじんでいた。朝から何度も水を替え、汚れを揉み落とし、重い布を絞っているのだろう。手の甲は赤くなり、指の節には細かなひびが入っていた。
景継は布を元の場所へ戻した。
彼女の言い分は分かる。診療に使う布が足りなければ、患者を待たせることになる。だが、洗い終えたというだけで、すぐに傷へ当ててよいとは限らなかった。汚れが残っていれば、傷口へ余計なものを持ち込むことになる。湿った布も、清潔なものと一緒に積み重ねれば、どれがどの状態なのか分からなくなる。
問題は、洗う者が怠けていることではなかった。
布を使う者と洗う者の間に、扱い方の決まりがない。使い終えた布は、空いている桶へ放り込まれる。洗い終えたものは、乾いているかどうかを確かめる間もなく、清潔な布の山へ戻される。誰もが急いでいるため、前の作業が終わらないうちに次の作業が始まっていた。
景継は診療の場へ戻った。
棚の上には、畳まれた布がわずかに残っていた。数えるまでもなく、いつもより少ない。昨日までは、傷を覆うものを選び、汚れたものを避ける余裕があった。今日は、次の患者が来れば、その余裕もなくなりそうだった。
「使える布は、あとどれくらいだ」
そばにいた手伝いの男が、棚をのぞき込んだ。
「ここにある分だけです。洗い場にもありますが、まだ乾いていません」
「今日中に乾きそうなものは」
「風が出れば、いくらかは」
確かな返事ではなかった。
景継は棚の前に立ったまま、布の使い道を思い返した。傷を覆うためのもの。出血を押さえるためのもの。患者の身体を拭くためのもの。器具や手を清潔に保つために使うもの。すべてが同じ布でよいわけではないが、今は用途を分けて置く余裕さえ失われかけていた。
「新しい布を頼めないのか」
男が尋ねた。
「頼めるなら、そうしたい。だが、すぐに届くとは限らない」
景継は棚から一枚を取り出した。乾いていて、目立った汚れもない。手で広げ、端から端まで確かめてから、傷の処置に使う場所へ置いた。
「まず、今あるものを取り違えないようにする」
そう言って、景継は洗い場へ向かった。
綾は入口近くで、運び込まれた患者の案内をしていた。右腕を失った身体では、以前と同じように両手を使うことはできない。それでも、彼女は空いている場所を見つけ、患者をどこへ通すか、誰に声をかけるかを周囲へ指示していた。
「何かあったのか」
景継の顔を見るなり、綾が尋ねた。
「布が足りない。洗い場も、診療の場も、扱いが混ざっている」
「足りないものを洗い直せば、余計に時間がかかる。今の人手では難しいだろうね」
「だから、作業を分けたい」
綾は洗い場へ目を向けた。桶のそばでは、二人の女が汚れた布を洗い、一人の男が乾きかけたものを取り込んでいる。診療の場からは、使い終えた布を抱えた手伝いが出てきた。男は洗い場へ向かいながら、すでに濡れた布を入れた桶の脇へ、その布を置こうとしていた。
「待ってくれ」
景継が呼び止めた。
「それは、まだ洗っていないものだな」
「はい。傷を押さえるのに使いました」
「洗うものは、こちらへ分けてくれ。乾いた布は、別の場所に置く」
「ですが、置く場所がありません」
男の返事は、もっともだった。
新しい棚を作る材料も、布を広げる場所も限られている。人の動線を変えれば、今度は運搬が滞るかもしれない。決まりを一つ増やすだけで、現場が動かなくなることもある。
景継は周囲を見渡した。軒下の一角に、空の木箱が二つ置かれている。片方は使われていないが、底に埃が積もっていた。
「箱を拭いて、乾かしてくれ。使い終えた布は、まず一方へ。洗い終えた布は、もう一方へ置く。ただし、洗っただけで清潔な布の山へ戻すな。十分に乾かし、汚れが残っていないか確かめてからだ」
「箱を分けても、布が足りないことは変わりません」
洗い場の女が言った。先ほどよりも強い口調だった。
「そうだな。これで布が増えるわけではない」
景継は彼女の方を向いた。
「だが、使えるものまで汚れたものと混ざれば、必要なときに使えなくなる。洗い直す布が増えれば、そちらへ手を取られる。今より余計に手間がかかるのを減らしたいんだ」
女は口を閉じたものの、納得した様子ではなかった。
「私たちは、もう手いっぱいです。患者の世話もあります。水を運ぶのも、洗うのも、乾かすのも、結局ここへ来る。決まりを増やされても、手が増えるわけではありません」
景継は返す言葉を探した。
彼女の言うとおりだった。手順を整えれば無駄な作業は減らせる。だが、なくせない仕事まで消えるわけではない。布を洗うにも水が要り、乾かすには場所と時間が要る。布が傷めば、繕う手間もかかる。
清潔さを守れと命じるだけなら簡単だった。そのために誰が何をするのかを決めなければ、負担を押しつけるだけになる。
「今までどおりでは、今日の分も足りなくなる」
景継は静かに言った。
「だから、何を減らせるか一緒に確かめたい。余計な運び直しや、同じ布を何度も洗う手間をなくせるなら、その分を患者の世話へ回せる」
女はしばらく景継を見ていたが、やがて手元の布を桶へ沈めた。
「一度、やってみます。ただ、これで間に合うとは言えませんよ」
「それでいい。間に合わないことも、確かめなければ分からない」
景継は、まず箱を置く場所を決めた。汚れた布を診療の場へ持ち戻さないようにし、洗い終えた布は、乾いたものと区別して置く。乾いた布を保管する場所には、床から直接汚れが移らないよう、清潔な敷物を用意することにした。
洗い場の者たちには、汚れた布を運ぶ役と、洗い終えたものを広げる役を分けてもらった。ただし、誰か一人がその役を抱え続けるのではなく、患者の世話が必要になれば、そちらを優先できるようにした。
綾は、診療の場から布を運び出す者に声をかけた。
「使い終えたら、ここへ持ってきて。洗う場所へ直接運ぶのは、決めた者だけにする。途中で置きっぱなしにされると、どれがどれだか分からなくなるからね」
手伝いの男たちは、互いに顔を見合わせながらも、指示された場所へ布を運び始めた。
しばらくして、小さな混乱が起きた。
傷の処置を終えた手伝いが、乾いた布の箱から一枚を取り出そうとしたところ、別の男が慌てて止めたのである。
「それは、まだ使うな。さっき洗ったばかりだ」
「乾いているぞ」
「乾いていても、汚れが残っていないか確かめていない」
二人の声が大きくなり、診療の場にいた患者が不安そうに顔を上げた。
景継はすぐに間へ入った。
「箱に入れる前に、確かめる役を決めよう。洗い終えた者が、そのまま清潔な布として扱うのではなく、汚れが残っていないか、十分に乾いているかを見てから移す。分からないものは、使えると決めつけず、もう一度確認する」
「誰が確認するんです」
男の一人が尋ねた。
「今の人数で、専任の者を置くのは難しい。だから、洗い終えた布を広げる者と、取り込む者が、互いに確かめる。見落としがあれば、その場で戻す」
「それでは、仕事が増えます」
「最初はそうなる。だが、後から探し直すより、ここで分けた方がいい」
景継は、二人に同じ布を持たせた。片方が汚れを確かめ、もう片方が乾き具合を見た。問題がなければ保管する。判断に迷えば、再び洗い場へ戻す。その手順を、ひとまず皆で確かめながら進めることにした。
昼が近づくころ、診療の場へ新たな患者が運び込まれた。
腕に深い傷を負った男だった。布で押さえていた傷から、まだ血がにじんでいる。付き添いの者は、何度も布を取り替えたらしい。傷の周囲には、乾きかけた血がこびりついていた。
「ここへ寝かせてくれ。腕を動かさないように」
景継は男の意識と呼吸を確かめ、傷の状態を見た。出血の程度を確認し、押さえる位置を定める。手伝いに清潔な布を求めると、男は保管場所へ走った。
だが、戻ってくるまでに時間がかかった。
「どうした」
「使える布が、これだけです」
差し出されたのは、小さな布だった。傷を覆うには足りない。棚に残っていた布の多くは、すでに別の処置に使われる予定だった。
景継は、患者の腕から目を離さずに言った。
「洗い終えたものは」
「まだ乾いていません」
「乾いているものは」
「先ほどの患者に使いました」
景継は一瞬だけ目を閉じた。
手順を分けたことで、どの布が使えるかは前より分かりやすくなった。だが、足りないものが足りないという事実は変わらなかった。管理の混乱を減らしても、使える布の総量が増えるわけではない。
「今ある布で、出血を押さえる。足りない分は、必要な大きさを確かめてから用意する。汚れたものをそのまま傷に戻すことはしない」
景継は手伝いに指示を出し、傷を押さえる位置を確かめ直した。患者が身じろぎするたびに出血の様子を見て、布を無駄に動かさないよう注意する。傷を覆うために必要な分と、周囲を拭くための分を混同しないよう、使うものを選んだ。
男の顔には苦痛が浮かんでいたが、しばらくすると、布へ広がる血の勢いが弱まってきた。
「そのまま押さえていてくれ。まだ手を離すな」
景継は手伝いに告げ、男の意識と顔色を改めて確かめた。出血が落ち着いてきたからといって、傷が治ったわけではない。引き続き状態を見ながら、必要な処置を進めなければならなかった。
ひとまず、処置を続けられるだけの布は確保できた。
しかし、景継が次の患者を診ている間にも、洗い場では布を絞る音が続いていた。新たに使った布が増えれば、洗う量も増える。乾く前に次の患者が来れば、また足りなくなる。
午後になっても、軒下に吊るされた布はすべて乾かなかった。
景継は、洗い場で布を取り込んでいた女に尋ねた。
「今日、洗ったものはどれくらいある」
「朝からこれだけです。まだ桶に残っています」
「明日も同じ数の患者が来たら、間に合うだろうか」
女は、吊るされた布を見上げた。
「風が吹いて、日が照ってくれれば。そうでなければ、難しいでしょうね」
それ以上、景継は尋ねなかった。
彼女の答えに、工夫の余地がないわけではない。作業を整理すれば、無駄は減る。だが、洗う時間も、乾かす時間も、必要なだけ短くできるものではなかった。湿ったままの布を急いで使えば、せっかく分けた意味がなくなる。かといって、使える布が乾くのを待ち続ければ、目の前の患者への対応が遅れる。
どこか一か所を改善すれば、すべてが解決する問題ではないのだ。
夕方、景継は保管場所に残った布を数え直した。朝よりも減っている。使い終えたものは分けられ、洗い場へ運ばれていたが、明日の診療を支えられる量には届きそうになかった。
綾が、診療の場から戻ってきた。
「今日は、布を探して走り回ることが減ったね」
「ああ。どこに何があるかは、前より分かるようになった」
「でも、足りない」
景継はうなずいた。
「足りない。手順を整えるだけでは追いつかない」
綾は、乾ききらない布の列を見た。片手で扱える量には限りがある。彼女自身、運ぶ者の動きが滞れば、どこに負担が集まるのかを見ていた。現場の手順を変えることはできても、布そのものを生み出すことはできない。
「千代に相談した方がいい。布を扱っている者を知っているかもしれない」
「そうだな。どこから、どのくらいの量を、いつ届けられるのか。確かめる必要がある」
「医療に必要だと言えば、すぐに出してくれる相手ばかりじゃないよ」
「分かっている。向こうにも暮らしがある。こちらの都合だけで頼むわけにはいかない」
景継は、棚に残った布をもう一度見た。明日になれば、また患者が来る。傷を負った者も、熱に苦しむ者も、こちらの都合に合わせて待ってはくれない。
千代に相談すれば、物資を集める道が見つかるかもしれない。だが、誰かに頼めば、その相手にも負担が生じる。金が必要なのか、運び手が必要なのか、支払いを待ってもらえるのか。確かめるべきことは多かった。
景継は、使える布と洗い直す布の置き場所を最後に確認した。今日決めた手順は、まだ始まったばかりだ。明日には不都合が見つかるかもしれない。それでも、どこで何が足りなくなるのかが分かれば、次に打つ手を考えられる。
「明日の朝、もう一度、残りを数えよう」
景継が言うと、綾はうなずいた。
「千代にも話しておく」
軒下では、夕暮れの風に布が揺れていた。乾いたものは少なく、濡れたものはまだ重たげに垂れ下がっている。
景継は、明日使える布が何枚あるのかを考えながら、診療の場へ戻った。
目の前の命を救うために必要なものは、知識だけでは足りない。どれほど正しい手順を知っていても、それを支える物がなければ続けられない。
明日は、布をどこから得るかを考えなければならなかった。




