第十五話 残された判断
第十五話 残された判断
朝の光が障子の隙間から差し込んでいた。
景継は、寝台に横たわる宗助のそばで、傷に当てた布を確かめていた。
布に新しい血は目立たない。昨夜より受け答えにも力が戻っていた。だが、宗助の顔にはまだ血の気が乏しく、少し身体を動かすだけで、息を吐く間が長くなる。
「痛みはどうだ」
「じっとしていれば、何とか」
「息苦しさは」
「さほどでは……」
宗助はそう答えた。けれど、言葉の終わりに浅い息を継いだ。
景継は返事をせず、胸の動きを見た。宗助の呼吸は、ひと息ごとにわずかに乱れている。傷に当てた布をもう一度確かめたが、目立った出血はなかった。
「無理に話さなくていい。苦しさが増したら、すぐに知らせてくれ」
宗助がうなずいた。
そのとき、戸口に立っていた小夜が声をかけた。
「景継殿。少し、お話ししてもよろしいでしょうか」
「何か気づいたのか」
小夜は宗助を見たあと、景継へ視線を戻した。
「まだ、確かなことではありません。ただ……昨夜より、息をする間が短くなっているように思います」
「いつからだ」
「夜明け前に様子を見たときは、もう少しゆっくりでした。今朝は、声をかけると返事をしますが、そのあと、すぐには次の言葉が出ません」
小夜はそこで言葉を切った。
「顔色も、少し悪くなったように見えます。けれど、光の具合かもしれません。私の見間違いでしたら……」
「どこを見て、そう思った」
景継は、彼女の言葉を遮らずに尋ねた。
小夜は宗助の胸元を見た。
「昨夜は、息を吸うときに肩が少し動いていました。今朝は肩より、胸の上のほうが細かく動いているように見えます。それに、返事をしたあと、息を整えるようにしています」
景継は宗助のそばへ戻った。
胸の上下をしばらく見つめ、脈に触れる。宗助の手首は、昨夜より速く打っているように感じられた。
「宗助殿、今、息苦しさはありますか」
「……少し」
「さっきは、さほどではないと言っていたな」
「大したことではないと思ったのです。これくらいで人を呼ぶのも……」
宗助は言いかけ、口を閉じた。
景継はその顔を見た。痛みを隠していたのか。それとも、本人にも変化が分からなかったのか。今の返事だけでは決められない。
「大したことかどうかは、こちらで確かめる。苦しくなったことを、遠慮して隠す必要はありません」
宗助は目を伏せた。
景継は唇の色を見て、手の冷たさを確かめた。傷の周囲に急な出血はない。それでも、呼吸の変化と脈の速さは気にかかった。
矢傷による影響なのか。出血が続いているのか。それとも、ほかの変化が起きているのか。
ここにある道具だけでは、原因をすぐに見極めることはできなかった。
「水は飲めますか」
「少しなら」
「今は無理をしなくていい。楽な姿勢を保ってください」
景継は宗助の身体が傷に余計な負担をかけないよう、姿勢を整えた。それから、付き添いの者を呼んだ。
「夜の間、どんな様子だったか聞かせてほしい。息が荒くなったことや、顔色が変わったことはなかったか」
付き添いの男は、しばらく考えてから首を振った。
「大きく血が出ることはありませんでした。何度か目を覚まして痛みを訴えましたが、朝方には眠っておりました」
「息はどうだった」
「そこまでは……。眠っていたので、落ち着いたのだと思っていました」
男は申し訳なさそうに頭を下げた。
「責めているのではありません。ただ、次からは眠っていても、ときどき様子を見てほしい。息の間が短くなったり、顔色が変わったりしたら、すぐに知らせてください」
「分かりました」
景継は小夜にも向き直った。
「お前も、見たことを伝えてくれ。確かなことだけを報告しようとしなくていい。何を見たのか、いつ見たのか。それが分かれば、こちらで確かめられる」
小夜はうなずいたものの、表情は晴れなかった。
しばらくして、宗助が身じろぎした。傷に響いたのか、眉間に皺が寄る。息が一度乱れ、喉の奥から短い音が漏れた。
「痛みますか」
「……少し」
景継は宗助の姿勢を確かめ、もう一度、胸の動きを見た。
小夜が小さく息を呑んだ。
「先ほどより、顔色が悪くなっています」
景継は宗助の顔を見た。確かに、頬の色がいっそう薄くなっている。
「そうだな」
彼は小夜にうなずいた。
「今の変化も覚えておいてくれ」
景継は、宗助を一人にしないことにした。呼吸と意識、脈の変化を短い間隔で確かめる。傷口に目立つ出血がないからといって、危険が去ったとは言えなかった。
悪化が続くなら、ここでできる手当てだけでは足りないかもしれない。だが、何が起きているのかを見極める前に、できることまで手放すわけにはいかなかった。
景継は小夜へ目を向けた。
「気づいたことを伝えてくれて助かった。お前が言わなければ、俺も変化を見落としていたかもしれない」
小夜は驚いたように顔を上げた。
「ですが、私は……。間違ったことを言ったのかもしれません」
「間違いかどうかは、確かめてから決めればいい。何も言わなければ、確かめることもできない」
小夜は目を伏せた。
すぐに気持ちが軽くなったわけではないらしい。彼女は宗助の胸元を見つめたまま、しばらく口を開かなかった。
やがて、小さな声が落ちた。
「以前にも、私は自分の判断を信じました」
景継は急かさなかった。
小夜の指が、着物の裾をつまんでいた。
「そのときは、自分が正しいと思ったのです。けれど……」
言葉が途切れた。
部屋の外で、誰かが水桶を置く音がした。小夜はそちらを振り向かず、膝の上で指を組み直した。
「それから、何かに気づいても、私の見たものが本当に正しいのか分からなくなりました。口にして、もし違っていたらと思うと……」
景継は宗助の胸の動きを見た。息はまだ浅い。脈も落ち着いてはいない。
小夜の言葉を聞いても、患者の状態が良くなるわけではない。彼女の過去を尋ねるのは、今でなくてもよかった。
「自分の見たことを、必ず正しいと思う必要はない」
景継は言った。
「ただ、見たことまで黙ってしまえば、確かめる手掛かりがなくなる。今日のお前は、見たことを話してくれた。俺はそれを自分の目で確かめた。それで、判断を変えられた」
小夜は顔を上げた。
「私の言葉で、判断が変わったのですか」
「変わった。宗助殿を、もう少し慎重に見なければならないと分かった」
小夜は、すぐには返事をしなかった。
景継は彼女に、無理に自信を持てとは言わなかった。見間違いはある。判断を誤ることもある。景継自身も、限られた道具と情報の中で、すべてを見通せるわけではなかった。
だからこそ、一人の目だけに頼るわけにはいかない。
「これからも、気づいたことを伝えてくれ。分からないことは、分からないと言っていい」
「……はい」
小夜の返事は、まだかすかだった。
それでも彼女は、宗助から目をそらさなかった。
朝の光が、寝台の端まで伸びていた。
宗助の呼吸は、なお浅い。傷が塞がったように見えても、命が危険を脱したとは言えなかった。景継は脈を確かめ、再び胸の動きを見た。
小夜も、その傍らで呼吸を見続けていた。
何かが変われば、今度は黙らずに伝える。その決意を口にすることはなかったが、彼女の目は、先ほどよりも確かに患者を捉えていた。
景継は、その報告を待ちながら、次の変化を見逃さぬよう宗助のそばに残った。
まだ、何も決まってはいなかった。




