第十四話 矢傷の娘
第十四話 矢傷の娘
薬種の棚を調べ始めてから、景継は同じ名で呼ばれる薬が、必ずしも同じものではないことを知った。
包みには名が記されていても、量はまちまちで、いつ仕入れたものか分からない品もある。布や器具も同じだった。置き場所を分け、残量を書き留めるところまでは始めたが、診療の合間に進める作業には限りがあった。
その日も、景継は棚の前で包みを一つずつ確かめていた。
戸口の向こうから、足音が近づいてきた。
「先生は、こちらですか」
女の声だった。急いでいるようでいて、ひどく抑えられている。景継が顔を上げると、戸口に一人の娘が立っていた。年は十七、八ほどだろうか。身につけた小袖には土がつき、袖口には乾いた血がこびりついていた。背には弓を負い、腰には矢筒がある。
娘は景継を見てから、部屋の奥へ視線を移した。
「人を診ていただきたいのです。矢が刺さっています」
「どこに」
「肩の下です。背中から刺さったようで……矢柄は途中で折れています」
「意識はあるか」
「あります。ですが、息が苦しいと言い始めました」
景継は手にしていた包みを棚へ戻した。
「案内してくれ」
娘が身を翻す。景継は必要な布と器具を手に取り、後を追った。
隣の部屋では、男が敷物の上に横たえられていた。三十歳前後に見える。顔には汗が浮かび、唇の色が悪い。左の肩甲骨の下あたりから、折れた矢柄が斜めに突き出していた。傷口の周囲には血がにじんでいる。
男のそばにいた者が、景継を見るなり口を開いた。
「矢を抜いてくだされ。刺さったままでは、どうにもなりませぬ」
「抜かない」
景継は短く答えた。
「このままでは傷が塞がらぬでしょう」
「抜けば、かえって血が出ることがある。中で何を傷つけているかも分からない。まずは、今の状態を確かめる」
男は不満そうに口を結んだが、それ以上は言わなかった。
景継は患者の顔をのぞき込んだ。
「聞こえるか。名を教えてくれ」
「……宗助」
「宗助、息はいつから苦しい」
「さっきから……だんだんと」
言葉の切れ目ごとに、男は息を吸った。吸うたびに肩がわずかに持ち上がる。景継は胸の動きを見て、左右に目を移した。衣を必要な範囲だけ開き、矢の刺さった位置と、胸の動き、出血の具合を確かめる。無理に身体を起こすことはせず、呼びかけへの反応と脈の速さも見た。
脈は速い。指先に伝わる拍動は、弱々しかった。
矢が胸の奥まで達している可能性がある。肺や太い血管が傷ついていれば、外から見える傷の大きさだけでは危険を測れない。息苦しさが増していることも見過ごせなかった。
「いつ射られた」
景継は娘に尋ねた。
「半刻ほど前です。山道で、向こうから来た者と揉めました。矢が飛んできて、この人に……」
「刺さった直後は、息はどうだった」
「苦しいとは言っていました。でも、歩けました。ここへ来る途中で、だんだん口数が減って」
娘はそこまで話すと、唇を引き結んだ。
「私が、もっと早く連れてくればよかったのです」
「今は、責める話をしている場合ではない。ほかに気づいたことはないか。血が急に増えたとか、倒れそうになったとか」
「血は、最初より少なくなっています。でも、息は悪くなっています」
景継は娘の顔を見た。彼女は患者の様子から目を離さず、矢柄にも傷口にも手を触れていなかった。焦っているのは明らかだったが、見たことを順に伝えようとしている。
「名は」
「小夜です」
「小夜、宗助のそばにいて、呼吸の様子を見てくれ。息をするたび胸がどう動くか、顔色が変わらないか。変化があれば、すぐに知らせてくれ」
小夜はうなずいたものの、すぐには動かなかった。
「私が見ていて、何か分かるのでしょうか」
「分からないこともある。だが、変化を見つけることはできる。最初にどうだったかを覚えておけば、今と違うことが分かる」
景継は傷の周囲に清潔な布を当てた。矢柄が動けば傷を広げるおそれがある。折れた部分を押さえつけないよう、周囲に布を添えて、できるだけ揺れないように支える。出血の具合を確かめながら、傷そのものを無理に探ろうとはしなかった。
宗助がうめいた。
「痛むか」
「……背中が。息を吸うと、胸まで……」
「無理に深く吸おうとしなくていい。苦しさが増すなら、すぐに言え」
景継は男の呼吸を見続けた。呼吸を妨げない姿勢を保ち、身体を不用意に動かさない。矢を抜いて傷を洗い、薬を塗れば済むような傷ではなかった。胸の内側で何が起きているか、ここにある道具だけでは確かめられない。
それでも、状態が悪くなっているのなら、見逃すわけにはいかなかった。
しばらくして、宗助の息がいっそう浅くなった。
景継が呼びかけると、男は目を開いた。だが、返事をするまでに間があった。顔色も先ほどより青白く見える。
「小夜、さっきと比べてどうだ」
小夜は男の胸元を見つめていた。
「息を吸うとき、右は動いています。でも、左は……最初より動きが小さいように見えます」
景継はすぐに患者の胸へ目を戻した。たしかに、左側の動きが乏しいように見える。呼吸の苦しさも増していた。矢傷によって胸の内側が損傷している可能性は、さらに高くなった。
「いつからだ」
「ここへ運んできたときは、もう少し動いていました。先生が傷を見ている間に、だんだん……」
小夜は言葉を切り、景継を見た。
「私の見間違いかもしれません。でも、違うと思います」
「分かった。よく見ていた」
景継は宗助の呼吸をもう一度確かめ、脈に触れた。状態は悪化している。傷口の手当てだけで解決するものではない。胸の内側に血がたまっているのか、空気が入り込んでいるのか、ほかの損傷なのか、この場で断定することはできなかった。
だが、時間を置いてよい状態ではない。
「この男を診られる、もっと手立てのある者に知らせたい。ここでできる処置には限りがある」
そばにいた男が顔をこわばらせた。
「ここでは、助からぬのですか」
「助かるとも、助からぬとも、今は言えない。だが、息が悪くなっている。矢を抜いて様子を見るようなことはしない。動かすなら、矢を揺らさず、呼吸の変化を見ながら慎重に運ぶ必要がある」
「どこへ運べば」
景継は答えを探した。傷を診られる者がどこにいるか、胸の内側の損傷にどこまで対処できるかは、まだ分からない。近くの者に聞き回る時間も惜しかった。
「まず、ここで宗助の状態を見ながら、知らせを出せる者を探してくれ。誰か一人は必ずそばに残す。息がさらに苦しくなる、呼びかけへの反応が鈍くなる、顔色が急に悪くなる。そうした変化があれば、すぐに知らせるんだ」
景継は周囲の者に役目を割り振った。誰かが水や布を取りに行くなら、患者のそばを離れる者を一人にしない。矢柄を持ち上げたり、傷を確かめようとして引いたりしない。宗助を動かす必要が生じたときも、独断で身体を起こさない。
小夜は患者の脇に膝をついた。弓を背から下ろし、手の届かないところへ置く。宗助の胸を見つめ、息をするたびに動きを追った。
「先生」
小夜が顔を上げた。
「もし、もっと早く気づいていたら、違ったのでしょうか」
景継はすぐには答えなかった。彼女が何を悔いているのか、すべてを知っているわけではない。だが、今の問いが、ただ目の前の患者だけに向けられたものではないことは感じ取れた。
「早く気づけば、早く手を打てることはある。だが、早く気づけば必ず助かる、というものでもない」
景継は宗助の呼吸を確かめながら続けた。
「だから、気づいたことを確かめる。分からないなら、分からないまま報せる。自分だけで答えを決めなくていい」
小夜は目を伏せた。すぐに納得した様子ではなかったが、宗助から目をそらすこともなかった。
男の呼吸は、まだ苦しそうだった。景継はそばを離れず、顔色と意識、胸の動きを繰り返し確かめた。できることは多くない。傷を開いて確かめることも、胸の中を調べることもできない。それでも、悪化の兆しを捉え、危険を周囲に伝え、患者を不用意に動かさないことはできる。
やがて、知らせを頼みに出ていた者が戻ってきた。すぐに宗助を引き受けられる者が来るわけではないという。景継は顔をしかめたが、苛立ちを口にしても状況は変わらなかった。
「ここで見続ける。人を増やしてくれ。交代で呼吸と意識を確かめるんだ」
小夜は、宗助の胸を見たまま答えた。
「私が続けます」
「一人で抱え込むな。変化を見たら、ほかの者にも伝える。疲れれば見落とすこともある」
「はい」
小夜の声はまだ硬かった。それでも今度は、返事のあとに迷いが残らなかった。
景継は彼女の隣に腰を下ろした。宗助の息は浅く、顔色も戻らない。助かるかどうかは、まだ分からなかった。
だが、小夜が見つけた変化は、景継の判断を変えた。最初に傷を見たときの状態だけで判断していれば、悪化の兆しを見過ごしていたかもしれない。
小夜は胸の動きを見続けていた。時折、顔色を確かめ、呼吸の間隔を目で追う。何か変わるたびに、今度はためらわずに景継へ伝えた。
景継はその報告を聞き、一つずつ自分の目で確かめた。
矢傷は、まだ危険なままだった。処置を終えたとは言えない。宗助の命がどうなるかも、誰にも約束できない。
それでも、ここにいる者たちは、ただ成り行きを待つのではなくなっていた。




