2話
「あれ…まさやん…どっか行くの?」
完全に眠気と酔いでやられた川瀬が寝ぼけた声で永井を引き留めた。
「ああ、ちょっとトイレ。すぐ戻るわ」
「…りょうーかーい…」
それだけ言い切ると川瀬は机に突っ伏したまま反応しなくなった。そしてそう時間も経たない内にすやすやと寝息を立て始めた。
時計に目をやると、もう2,3分で10時にさしかかろうとしていた。流石に酔いが回ってきたのか、それとも仕事の疲労なのか瞼が重くなってきていた。
「…斎条、この二人任してもいい?ちょっと体伸ばしてくる」
斎条は幸せそうに寝ている二人に目をやると、静かに微笑み無言で承諾した。
店の外に出ると、冷たい風が肌に突き刺さった。ずっと温かいところにいたのもあり、余計に肌寒く感じる。
体をグッと伸ばしながらあたりを見渡す。遠くに見えるオフィスビルにふと目をやる。まだところどころに光が付いており、暗い街中を照らしている。
「星だ…」
独り言が口から零れる。ここ最近は仕事のパソコンの画面しか目につかず、こうして余夜空を見上げる気力すら失せていた。
別に自分は天文分野に興味があるわけではなく、寒い場所で態々景色を鑑賞する趣味があるわけでもない。ただ、今はそうしていたかった。
大切なことから、『現実』から目を背けるための理由が欲しいがためにぼんやりと星空を眺める。
「そんな感傷に浸ってどうした」
「びっくりした…永井か」
振り向くと、そこには永井がいた。
「終電か?もし間に合わなかったら、タクシーかホテル代くらいは出すぞ?」
「相変わらず優しいな、そこまでしなくてもいいのに」
「そりゃ親友だしな。そういうもんだ」
『なに当たり前のこと』言ってだお前とでも言いたげな顔をしながら永井はさらりと言う。こういうところは本当に昔から変わっていなかった。最初にこう話したときから永井は今に至るまで、自分の模範生のような存在だ。優しくて頼れて、大人びている。
「でも、あのバカには内緒な。大学の時に貸した金まだ帰ってこねぇし」
「赤山か…」
「ああ、修司のやつ、今ごろ呑気に寝てるだろうな」
そう言って永井は店に目をやった。扉から零れる光は薄く消えかかりそうで、どこか儚い感じがした。
「まぁでも、あいつもあいつでいろいろ苦労してたんだよな」
永井が赤山と些細なことで小競り合いをしていることは何度かあった。だが、それはお互いが親友であるとわかり来ているからこそできることだ。
「俺さ、さっきアイツといろいろ話したんだよ」
「赤山と?なんの話?」
永井は一つ大きく息を吐きだした。それはまるで何かに覚悟を決めるかのように見える。
そしてスーツの胸ポケットに手を突っ込みから箱の様なものを取り出した。暗がりで見えにくかったが何かの銘柄の様な文字が書いてあった。
手慣れた仕草のように箱から白筒を基地に咥えた。
カチっと乾いた音を立てると辺りの闇がまるで引き潮のように消える。永井は口から煙草を離すと、今度は白煙とともに息を吐きだした。
「どうした、そんなに見て」
「ああ…いや、別に」
「…吸うよ。これがなきゃやっていけないからな」
そう言いながら白煙を空に向けて吐き出す。煙は宙に舞い、空でとぐろを書くように消えていった。
「就職する前はさ、吸うつもりなんてなかったんだ。」
「でも気づいたらヘビースモーカーだよ」
笑えるよ、と永井はぼやく。自虐的に言うその横顔は、どこか遠くを見ているようだった。
「修司はさ、ほんとにいい奴だったよ」
「アイツに話したんだよ。今の仕事のこととかさ」
「仕事…」
「何なら明日も出勤だな」
永井は変に穏やかだった。きっと、もうそんな生活が身体に馴染んでしまったのだろう。
「それでまぁ、言ったんだ。修司は仕事うまくいってるのかって。そしたらアイツ、新卒でもう仕事辞めたって言いやがった」
「…じゃあ修司はいま無職ってこと?」
「俺もそうだと思ったよ。変なところ適当だからな。でもアイツさ、サッカーのサークル一応入ってたろ?で、今はそこの横のつながりでクラブのコーチやってるってさ」
「給与も結構いいみたいだしな」とため息混じりに言う。
永井は赤山と違うカリスマ性を持っていた。当然、その根本にあったのは二人の行動の差異だ。考えて動く永井と動いてから考える赤山、近いようで二人は真逆の様な人間だと、川瀬から昔聞いたことがあった。
「なぁ、樹」
永井が急に改まった口調になる。
「なに?」
「今から言うこと聞きたくなかったら、店の中戻ってくれ」
言葉の意味を理解するのにそう時間は必要なかった。2年ぶりに会おうが、僕は五十嵐がどういう人間か知っている。知っているつもりだ。
ずっと憧れていたのだから。
「いいよ、別に。気にしないから」
「そうか。悪いな」
申し訳なさそうな顔を見せると、永井は煙草をもう1本取り出した。
一呼吸おいて彼息を吐きだす。そして口を開く。
「俺は今日、お前らを見下すために来た」
言葉が出ない、というよりか発言をするための適切な言葉がそもそも存在しないというべきなのだろうか。
赤山との決定的な違い。
永井は努力家だった。
『努力って嫌な言葉だよな。俺はさ、出来ることはやっときたいんだけで、足りないものを補ってるわけじゃないんだよ』
口癖のように言っていた言葉。それは赤山の大半の物事を卒なくこなせてしまう才能や、川瀬の演奏の素質に対しての言い訳になってしまうからなのだろう。努力をした瞬間、それは才能が無いことを認めてしまうようなことだ。
「修司が無職になったって聞いたときは、最初悲しいって思ったよ。なんやかんやあっても結局は切れない仲だしな。──でも、俺はそれ以上に嬉しいって思ったんだ」
永井は話すのをやめない。
「川瀬がバンドをやめたって聞いた時には、もったいないと思った。文化祭でのライブ、凄かったのは今でも薄っすら覚えてる。でも内心辞めてくれたことに安心した」
永井は話すのをやめない。
「斎城の担当があの老害だって聞いたときには清々したわ、いやマジで」
高らかに宣言するかの様に永井は言い放つ。永井は口を動かし続けた。というよりもう分かっているのだろう。今日で皆んなと自分が集まるのが最後だということを。
「樹がこれで大手から内定貰ってたら俺はどうかしてたよ」
そう言い放った五十嵐の顔は、大学時代に何度も見たであろうものとは別の笑顔だった。
優等生としての威厳さはもう存在しない。永井は社会に出てからそれらの代わりに委縮と疲労を手に入れた。
永井は大人になった。大人になってしまった。
「…別に俺は他人の不幸が好みとかの下衆野郎じゃない」
煙草を持つ手は震え、灰が落ちていく。
「でも、そうじゃなきゃ、帳尻が、とれてないだろ?」
答え合わせのように、どこか救いの手を求めるようにそう問いかけた。
4年次のころ、永井は途端に来なくなった。その時になら、自分は声をかけることができたのかもしれない。
だが、もう永井は大人になってしまった。
川瀬や赤山、斎城の3人ももう学生じゃない。
「ごめん」
一言だけ僕は言う。謝罪の意なんて込めなかった。ただ、罪悪感を匂わせて自分の逃げ道を作る。
「……何謝ってんだよ」
永井は扉の横にあるベンチに力が抜けたように腰掛け、一つ大きなため息をついた。その中には緊張や焦燥も混じっている様に見えた。
「…なぁ、樹」
「ん?」
「俺さ、どうすればいいかもう分からねぇわ」
諦めたように、突き放すかの様に永井は言う。
「わからないよ。自分も、わからない」
赤山の様に辞めたところで、次拾ってくれる会社があるわけでもない。世の中、そう大立ち回りをしてもその代償から逃げることなど早々できない。
よほどのことがない限り人生は簡単に舵を切ることはできない。
「じゃあ、俺みたいな営業で結果出せないような新卒は定年まで社畜だな」
永井は鼻で笑いながら言った。
「…まだ先の人生は長いわけだし、見切りつけるのは早いよ」
「先の見えない長いだけの人生なんて生き地獄みたいなもんだろ」
目的もないまま働くために生きる。実際、今の自分もそうなのかもしれない。
「でも、まだ選択肢も時間も費えたわけじゃない。それに赤山みたいに転機でうまくやれなくても…」
言葉を並べながら、それが苦し紛れの言い訳なことくらい理解していた。
でもそれでは、あまりにも永井に救いがないと思ったからだ。
「大丈夫だよ、多分」
何の根拠もない言葉。
こんなのはただのその場の形成を保つためだけの言葉だ。
それでも、永井が救われてほしかった。
「…そろそろ、店戻るか。皆待ってるだろうし」
「あ…うん、行こうか」
永井はベンチを立つと、短くなった煙草を灰皿に押し当てた。店に入る直前、永井は振り向かずポツリとつぶやいた。
「樹は負けるなよ」
弱弱しい声だった。店から漏れる喧騒にかき消されててしまうくらい消沈した声だった。
永井はそれだけ言い、店に戻っていった。




