第1話「ボールが怖い少年」
四月。
春の風が吹いていた。
中学校の校門へ続く坂道には桜の花びらが舞い、新しい制服に身を包んだ生徒たちが行き交っている。
その中を、自転車を押しながら歩く少年がいた。
神谷翔太。
中学一年生。
そして、誰よりもサッカーが好きな少年だった。
「今日からか……」
校庭の向こうに見えるグラウンドを見ながら呟く。
小学校の頃から憧れていた中学サッカー部。
強豪というほどではないが、毎年県大会に出場する実力校だ。
翔太は胸を高鳴らせていた。
夢への第一歩。
そんな気がしていた。
しかし。
その期待は、入部初日で打ち砕かれることになる。
放課後。
サッカー部の体験入部。
グラウンドには二、三年生たちが集まっていた。
元気な声が飛び交う。
ボールが高速で行き交う。
トラップ。
パス。
シュート。
どれも正確だった。
翔太は思わず見とれる。
「すげぇ……」
小学校のクラブチームとはレベルが違う。
先輩たちは本当に上手かった。
その時だった。
「一年生、軽くパス回しやるぞ!」
顧問の声が響く。
一年生たちが集まる。
翔太も輪の中に入った。
そして。
現実を知る。
「神谷!」
パスが来る。
受ける。
トラップする。
そのはずだった。
だが。
ボールは足を弾いて転がっていった。
「あっ……」
慌てて追いかける。
周囲から苦笑いが聞こえる。
顔が熱くなった。
次。
今度こそ。
そう思った。
しかし。
パス。
ミス。
トラップ失敗。
パスミス。
またミス。
何度やっても上手くいかない。
気付けば練習が終わっていた。
帰り道。
翔太はひとり自転車を押していた。
空は夕焼け色。
だが気分は重い。
「俺……こんな下手だったのか」
小学校では決して上手い方ではなかった。
それは分かっていた。
でも。
ここまで差があるとは思わなかった。
ボールを自由に扱える仲間たち。
それに比べて自分は。
思い通りに止めることすらできない。
翌日。
放課後。
翔太は誰よりも早くグラウンドへ向かった。
少しでも上手くなりたかった。
みんなに追いつきたかった。
練習開始までの時間。
ひとりでボールを蹴る。
壁当てをする。
トラップを繰り返す。
だが。
思うようにいかない。
強すぎる。
弱すぎる。
ズレる。
転がる。
ミスばかりだった。
「はぁ……」
ため息が漏れる。
その時。
「頑張るなぁ」
後ろから声がした。
振り向く。
そこには同じ一年生が立っていた。
短い髪。
日に焼けた肌。
人懐っこい笑顔。
「山田蓮」
そう名乗った。
蓮は最初から目立つ存在だった。
入部初日のミニゲームでも活躍していた。
足が速い。
ドリブルも上手い。
誰が見ても上手かった。
「神谷だっけ?」
「うん」
「自主練?」
「まあ」
翔太は少し恥ずかしくなった。
だが蓮は笑った。
「いいじゃん」
「そうかな」
「努力するやつ好きだぜ」
その言葉に少しだけ救われた気がした。
それから数日。
翔太は毎日練習した。
誰よりも早く来る。
誰よりも遅く帰る。
だけど。
上達は遅かった。
一方。
周囲はどんどん成長していく。
一年生だけの紅白戦でも。
翔太は目立った活躍ができなかった。
ボールが来る。
緊張する。
ミスする。
失う。
その繰り返し。
ある日の練習試合。
相手は近隣中学だった。
一年生も数人出場する。
翔太もベンチ入りした。
試合開始。
前半終了。
そして後半。
「神谷、行け」
顧問に呼ばれる。
翔太は飛び上がるほど驚いた。
出場。
初めての試合だった。
胸が高鳴る。
嬉しい。
だけど。
それ以上に怖かった。
失敗したらどうしよう。
ミスしたらどうしよう。
頭の中が不安で埋まる。
試合再開。
翔太は右サイドに入った。
最初は必死に走った。
だが。
ボールが来るたび緊張する。
周囲が見えない。
足が動かない。
すると。
チャンスが訪れた。
味方がボールを奪う。
前線へパス。
翔太の前へ転がる。
相手は一人。
抜ければチャンス。
そんな場面だった。
「神谷!」
味方の声。
行け。
行ける。
そう思った。
だが。
相手選手が迫ってくる。
速い。
怖い。
ぶつかる。
取られる。
その瞬間。
足が止まった。
ボールを奪われる。
相手はそのままカウンター。
シュート。
失点。
グラウンドが静まり返った。
試合終了。
ベンチに戻る。
誰とも目を合わせられない。
自分のせいだった。
完全に。
分かっている。
胸が苦しい。
消えてしまいたかった。
夕日が沈み始める。
他の部員たちは片付けをしている。
翔太はベンチに座ったままだった。
すると。
隣に誰かが座る。
蓮だった。
「落ち込んでる?」
「そりゃな」
翔太は苦笑した。
「最悪だった」
「まあな」
否定しない。
だが。
蓮は続けた。
「でも一回目だろ」
「関係ないよ」
「あるよ」
蓮は真剣な顔になった。
「失敗しないやつなんかいない」
翔太は黙る。
蓮はグラウンドを見ながら言った。
「俺だって小学校の時、試合でオウンゴールしたことある」
「マジ?」
「マジ」
思わず笑った。
想像できない。
蓮がそんなミスをするなんて。
「めちゃくちゃ泣いた」
「だろうな」
「でも次の日また練習した」
夕日が蓮の横顔を照らす。
「だから今がある」
その言葉は不思議と重かった。
しばらく沈黙が続く。
風が吹く。
ネットが揺れる。
やがて蓮が立ち上がった。
「神谷」
「ん?」
「明日朝六時」
翔太は首を傾げた。
「何?」
蓮はニヤッと笑う。
そして言った。
「朝練するぞ」
「え?」
「付き合ってやる」
「マジで?」
「マジ」
信じられなかった。
上手いやつは。
もっと上手いやつと練習したいものだと思っていた。
なのに。
蓮は当然のように言う。
「一緒に上手くなろうぜ」
帰り道。
翔太は空を見上げた。
夕焼けが広がっている。
試合では失敗した。
悔しかった。
情けなかった。
でも。
少しだけ前を向ける気がした。
明日の朝六時。
きっと眠い。
きっと大変だ。
それでも。
行こうと思った。
サッカーが好きだから。
上手くなりたいから。
そして。
ひとりじゃないから。
少年たちの物語は。
まだ始まったばかりだった




