前妻は祟り神? 後妻を抱擁し、馬車が壊れる段
二頭立ての馬車は、乗れずに小走りで付いてくる左右の従者のために、ゆっくりとした足取りで進んでいた。邑への帰り道は、来た道に轍が付いているので、その上を踏めば良い。が、車輪が雪泥に潜った場所を避けようとして、さらに違う泥濘に嵌まることも往々にしてあった。
「兄者にもっと叱られると思ったが、存外、機嫌が良かったな。キョウのお陰だ」
呂尚はそう呟いたが、馬車の揺れが酷く、がたごと軋む音で、杖を抱いてきつく目を瞑るキョウの耳には届かなかった。
二頭の良馬を、物々交換ながら譲ってくれたのは義兄の角である。呂尚は、角から「馬をもっと肥えさせろ」とか、「豆をちゃんと食わせているのか」とか、小言を食らうことを予感していただけに、肩透かしに遭った気分であった。轍という馬夫の腕が良いのだろう。彼を呂尚に取り次いだのも角である。
それにしても快晴の中、頬を打つ寒風が心地よい。吹けば飛ぶような一介の小さなみなし子に対し、角に(かく)は先祖由来の一族の誇りを腹の底から叫んでくれた。それが呂尚にとって嬉しくて堪らない。やはり義の人である。
日が傾いた頃、海辺の邑が目前に見えてきた。呂尚の付き人は、馬車を追い越して岡をくだり一目散に邑の屋敷へと駆けていく。呂尚の帰りを待つ邑人達に、主の到着と無事を知らせるためである。果たして、呂尚が邑の入り口で馬車を停めると、そこには大勢の邑人達の出迎えがあった。邑長と祝が人だかりの中心に居る。
呂尚は馬車から降りると、キョウが付き人の手によって馬車から降ろされるのを見届け、安心して、邑の入り口で、旅神へ祈りを捧げた。そして邑を発つ時に舞った、軽い足取りだけの踊りを、左右逆に舞って踵を返した。それは兎の跳ねる足さばきのようであり、幼子でも容易く踏める舞いである。
踊りによって祭祀の長い袖がふわりと靡いた。その袖が元に戻らぬ内に呂尚は妻の祝を抱きしめようと近づく。すると祝は、そうさせまいと、釣り針と糸の無い釣竿を呂尚に向けて差した。
「近寄るんじゃあないよ!!」
釣竿の先を向けられた呂尚は瞬きをして、
「何故だ、祝。こんなに愛しいのに」
と眉を潜めず、却って眉を開き、待っていたと言わんばかりに大げさな身振りで言った。
「だ、だ、黙れ……!! この色ボケが! 一度ならず二度までも、あたしに恥をかかす気かい?!!」
祝の叫びに、周りの邑人たちは、どよめいた。彼女は既に羞恥で震えている。それを目にした呂尚は小さく溜め息をついて笑みを浮かべ妻をかき口説いた。
「無事に帰って来れたのは神のお陰だ。お前をはじめ、皆が祈ってくれた賜物だ。……俺はこれから泰山へ発つ。今度も泊まりがけの旅だ。俺がいない内に戦に巻き込まれたら、狼煙を上げて、薄姑に居る義兄・角に知らせてくれ。助けに来ると約束してくれた。……祝よ。お前を抱きしめるのは、温もりを忘れたくないからだ。最後にならぬよう、旅先から祈らせてくれ」
夫からそう諭されると、祝は目を海亀の玉子のように丸くさせ、身体は石像のように固くなった。釣竿がぽとりと文身の足元に落ちる。おお……っ、と衆目が、いっそう集まるや、その中を掻き分けるようにして、呂尚は祝の豊かな身体を深く抱きしめた。彼女は頭から湯気が出るほど赤面しているが、鯨面のため顔が黒く、他人からは、そうと分からない。
三人の子どもたち、長子の宗、次子の雨、末娘の陽は、見ていられないと皆、めいめいに俯いてしまった。
(もう、そろそろいいかしら?)
と、陽は顔を上げた。彼女の父・呂尚は、継母の祝を傍らに、邑長と何やら話し込んでいた。邑長にとって戦の話は寝耳に水である。邑人達に戦の準備や、どのように身を守るのかを伝えなければならない。それは共に邑の留守を預かる祝と話し合って決めることであり、避けて通れない道である。祝は喧嘩早いので、息子の宗が、邑長と彼女の間に入り二人を取り持つことなった。
さて、陽が近くに居る兄・雨を、ふと見上げると、子どものように両手で両目を塞いでいる。
「兄様、みっとも……」
みっともない、と陽は低い声で言おうとしたが、血の繋がりのない長兄の宗が、雨を庇うように弟の肩を持ち、そっと身体を半転させ長兄の方へ向けさせた。
(泣いている?)
ように見えたのは見間違えか否か。何故? と、陽は思った。
幼くして母を亡くした彼女は実母の顔を覚えていない。だから父と継母が抱き合っても、平気でいられる。しかし五歳年上の雨は、実母の顔を覚えており、父親が継母と抱き合う姿を見るのは辛いはずだ。平生、能天気に振る舞っている雨だが、思いのほか脆い一面がある。長兄の宗は同情して、訳の知らぬ妹の目から、弟を隠すように肩を抱き寄せたのだった。
一方、キョウにとっては、呂尚と祝の夫婦が、邑人の中心に居るのだと改めて思った光景であった。
海辺の邑は、邑人達の住む西側と、田畑を挟んで東側に、呂尚と祝一家の住まう屋敷があり、東西に分かれている。
本来であれば、田畑を挟まずに、祭祀の屋敷と邑長の屋敷は、遠からず近からず似た方角に建つものだ。だが、昔、祝は邑の東側にある海で漁をする者たちを加護するため、海辺の洞窟に暮らしていた。そのため邑の東側に住み続けることを選び、呂尚に屋敷を建てさせたのである。
邑は、生活の場と、祈りを捧げる者たちの場で二分しているが、分断してはいない。求心力があるのは祈りを捧げる者たちの方であり、邑人達は祈る側に、心を引き寄せられている。
キョウが我に返ると、傍に祝が立っていた。鯨面文身の顔と、衣服から出た手足は、入れ墨が渦を巻いて密に彫られているため、ぱっと見、黒く見える。なので耳飾りの玉や首飾りの管玉が白く眩しく見えた。いつ見ても、ぎょっとさせられる姿である。
「あんた、薄姑の角義兄さんに会ってきたんだろ? 何を話したのか、聞かせておくれ」
此処では何だからと屋敷の方へといざなわれる。祝は熱くなった顔を冷まそうとして早足だった。杖を突いているキョウは付いて行くので必死になった。
「祝さま、私たちも話が聞きとうございます」
と邑長をはじめとする邑人たちも、どやどやと屋敷へ詰めかけて来る。
「客間に入らないよ。仕方ないね、寒いけど屋敷の土間で手短に聞こうじゃないか」
と、祝は言った。そこでキョウは、はっと振り返る。呂尚は付き人を一人替えて、既に泰山へ向け馬車で発った後であった。
両馬の駆ける速さが、ほんの少し上がった。呂尚は邑で入れ替えた中肉中背の付き人を御者にして、その隣で幾重もの綱を両手に持って立っている。馬車は二人乗りのため、もう一人の付き人は小走りであった。薄姑へ共に赴いた健脚の従者である。
「もう少し、速さを緩めてくれ」
と呂尚は馬車に乗れぬ付き人の身を案じて、そう言った。
「いえ、構いません」
従者は、はっきりと口にした。息は全く上がっていない。それに隣邑で馬を替えて泊まると聞いていたので、休憩が出来るのは目前である。このくらいの速さは身にこたえない、と彼は思った。
(尚父様は、初めて馬車に乗るキョウの身を案じて、馬を遅々と歩ませ薄姑を往復された)
と健脚の従者は見抜いている。邑の一大事に、片脚のみなし子の心情を優先して考えたのなら、邑人の一人として許しがたい。
(鼎め)
尚父様の御心を占める、みなし子の不具者。屋敷で仕える奴婢の中には、彼を快く思っていない者も少なからず居た。同じ身分で有りながら目に余る引き立てを受けている。
呂尚は有能な従者を好む。だから一芸に秀でてなければ従者になれない。キョウは呂尚に仕えるに相応しい従者の片鱗を既に見せていた。一人で不遜な邑の子ども三人を退治したこと。宗が邑人から受ける相談の日を疎漏なくまとめ上げ、その日取りを増やしたこと。肝が据わっている、頭が切れる。
健脚の付き人は、幼いキョウに対し恐れを抱いていた。長ずれば呂尚の側近になり、顎で自分を指図するようになるのでは、と。
(何を考えている)
と残雪の道を駆ける付き人は、邪念を振り落とすべく、走ることに専念しだした。ここで氷雪に足を取られ滑って転げては恥の極みである。
やがて隣邑が見えて来た。
海辺の邑の女たちが数人嫁いでいる邑である。また隣邑から海辺の邑に嫁いてきた女も何人かいた。女だけではない。物々交換をしに両邑の男たちも往復している。縁の深い邑だ。
隣邑に着くと入り口で、呂尚は旅神に祈りを捧げ、軽やかに舞った。そして邑長と祭祀に挨拶をして、両馬を替えてもらう事になった。既に日暮れ時であり、ここで泊めてもらうのである。
「痛みいります」
呂尚は心の底から、馬を替え、泊めてくれる邑長に謝意を示した。邑長は人が良い訳ではなかったが、戦の話を聞くと身震いして、
「必ず復路は、この邑に立ち寄って、馬を元通りに替えてください。そして南の戦がどういう風に広まっているのか、教えてもらえませんか」
と、必死になって呂尚の両腕を掴んで懇願した。海辺の邑が戦に巻き込まれる事になれば、隣邑も必定そうなる。むしろ海辺の邑より一段早く、戦に巻き込まれる地勢に隣邑はあった。
「私の邑に新しく来た者が、仕切りに恐れている戦の件が、思い過ごしてあれば良いのですが。悪い予感というものは当たりやすいものです。戦の備えをなさってください。我が邑は既に始めています」
予感が外れても、流浪の賊に邑が襲われた時のために武器はある程度、揃えておいたほうが良い。
「今日から備えに奔走します」
隣邑の邑長は何度も大きく頷いて、中々、呂尚の手を離そうとしなかった。
「必ず、帰りに立ち寄ってください」
念を押して呂尚を解放すると、馬の入れ替えが終わりましたと付き人が申し出てきた。
「このご恩は必ずお返しします」
呂尚は笑みを浮かべ、改めて礼を言った。
翌朝、馬を替えた馬車は、呂尚と御者を乗せて再び走り出した。健脚の付き人が後から馬車を守るように駆けてくる。
と、十里(四キロ)も行かない内に馬車の車輪が壊れてしまった。
「付いてないな」
と呂尚は苦笑いである。この時代、車輪の中央から外側へ放射線状にささる木軸(輻)(ふく)の数がまだ少ない。
「キョウを降ろした途端に、これか」
冗談めかして呂尚は言ったつもりだが、健脚の従者は目を吊り上げて、
「私が尚父様をおぶって行きます」
と強弁した。祭祀の身に何かあっては邑に顔向けが出来ない。
「背の高い私を背負うなど、お前が疲れるだけだ」
「しかし道中に居る土神に祟られるかもしれません」
馬車はそれから守ってくれる存在であった。見知らぬ土地は何が起こるか分からない。
「道中ずっと地に足をつけているお前は一体どうなる」
呂尚は付き人に、お前は既に祟られているのかと聞きたかった。
「私は下々(しもじも)の者だから良いのです。土神の障りがあっても、悪霊に憑かれても、尚父様が祓ってくれるでしょう」
「それはそうだが、俺を背負うのは諦めてくれ。今一度、旅神に祈りを捧げよう。道中の無事を願えば、ひと安心だ」
そう言って呂尚は祈りを捧げた。また兎が跳ぶような軽やかな舞いを踏む。旅の発着時にする舞いと少し異なり、長引いたのは、旅神に道中で変が起こったことを伝え、旅路の無事を改めて祈願したのだろう。
舞いが終わると呂尚は、付き人二人に歯をむいて笑顔を見せた。
「実はこの辺りは幾度か来たことがある。お前たちの邑に来る前に、頼まれてあちこちの邑で祈りを捧げていた時があった。この先に小さな邑がある。手前の茂みで今は見えないが、さほど遠くはない。そこで馬車を替えるか直すかしてもらおう」
それを聞いた従者二人は、ほっとした顔になった。
(それにしても車輪が壊れるとは不吉だな)
と呂尚は思う。ひょっとして前妻の祟りではないか、と気づいた。今、向かっている泰山は、新婚の思い出が根強く残っている。二人の子に恵まれたが、産褥のため前妻は亡くなってしまった。
呂尚は、男というものは女を苦しめ殺すために生まれてきたのかと悩んだ事がある。孕ませなければ妻は死なずに済んだ。無論、末娘の陽も生まれて来なかった訳だが。
実のところ、雨の前に夭折した子が居た。雨と陽の間に死産した子が居た。つまり一人目が夭折、二人目が難産の末に雨、三人目が死産で、四人目が産褥死に至った陽である。呂尚が妻を苦しめた末に殺したのではないかと苛む理由は不幸が続いたためであった。
その上、亡くなって三年も経たぬ内に再婚してしまった。祟られてもおかしくは無い。しかし呂尚という男は、それを望んでいる節がある。亡き妻ともう一度会えるのなら、妻の気配を感じられるのなら、と。
そんな呂尚は祝と再婚する前に、相手から
「子どもは産めないからね」
と言われた。自分は石女であると祝は明かしたのだ。鯨面文身を施す際に、一気に入れ墨を彫ったため、全身に及ぶ激痛が続き、月のものが止まったのだという。
「そうか」
と呂尚は半笑いになって言った。安堵したような声であった。
「何が可笑しいんだよ?!」
祝は馬鹿にされたと思って怒った。お前の子など端から望んでいないのだと。
「いや、すまん。気に触ったな、許してくれ。……ただ、前の妻を肥立ちの悪さで亡くしてしまったから、お前は、これから産褥で失わずに済むと思うと、お前には申し訳ないが、嬉しいと思ってしまった」
笑ってもいいか、と呂尚は言ったが、祝は当然、それを許さなかった。




