肩書きという名の虚像
二日目の朝、青山へと向かう電車の窓に映る自分の顔を、紗和はどこか遠い国の住人を見るような心地で見つめていた。
昨夜、馬車道のマンションに戻った後も、彼女は落ち着かなかった。無意識に名刺入れを取り出し、そこに収められた「大手広告代理店 第一営業局 リーダー 佐伯紗和」という文字を指でなぞった。その厚みのある、上質な紙の手触りだけが、今の彼女をこの世界に繋ぎ止めている唯一の錨のように思えた。
会場に到着すると、昨日よりもさらに熱を帯びた空気が彼女を待ち構えていた。
今日のメインワークは、各自が昨夜考えてきた「報酬がなくてもやりたいプロジェクト」を、具体的にプレゼンし、全員でブラッシュアップするという過酷なものだ。
紗和は、深夜までかけて練り上げたプランをタブレットに表示させた。
タイトルは『伝統工芸のリブランディングを通じた、地域コミュニティの再構築』。
ターゲット、市場規模の予測、プロモーションの戦略。彼女が仕事で使い古してきた、洗練されたマーケティング用語が並んでいる。広告業界の最前線で戦ってきた自分なら、この程度の構成は呼吸をするよりも容易い。
(大丈夫。これはプロとしての仕事だわ。昨日みたいな失態はしない)
自分に言い聞かせ、彼女は輪の中心に立った。
落ち着いた声、完璧な間の取り方、視線の配り方。プレゼンが進むにつれ、会場からは「おお」という感嘆の溜息が漏れた。他の参加者たちが、彼女の「プロの技術」に圧倒されているのが分かった。
しかし、発表を終え、会場に静寂が訪れた時だった。
久保寺が、ゆっくりと椅子から立ち上がった。その目は、昨日よりもいっそう冷徹な輝きを放っていた。
「……佐伯さん。とても立派なプレゼンでした」
久保寺はそう言ったが、その声に賞賛の響きはなかった。
「美しく、論理的で、隙がない。さすがは一流企業のリーダーですね。……でも、一つだけ聞かせてください。このプロジェクトに、『あなた』はどこにいますか?」
紗和は一瞬、言葉に詰まった。
「……どこ、とおっしゃいますと? 私は立案者として、あらゆる戦略を練り……」
「そうではない」
久保寺は、彼女の言葉を遮るように一歩近づいた。
「あなたが語ったのは、『広告代理店のリーダー』としての最適解に過ぎない。市場がこうだから、ターゲットがこうだから、成功する確率はこうだ。……そんなことは、AIにだって言える。僕が聞きたいのは、なぜ、あなたが、あなたの命の時間を使ってまで、これをやらなければならないのか、という個人的な理由(why)です」
「それは……伝統工芸という素晴らしい文化を守るために……」
「嘘だ」
久保寺の声が、ナイフのように紗和の喉元に突きつけられた。
「あなたは、失敗するのが怖いだけだ。ここでは肩書きを捨てろと言ったはずだ。でも、あなたは今、その重いネイビーのジャケットと、一流企業の看板を盾にして、僕たちの前に立っている。自分を傷つけないように、安全な場所から『プロの言葉』を投げているだけだ」
会場の空気が凍りついた。
カイトや真理子も、息を呑んで二人を見守っている。
紗和の頬が、屈辱で赤く染まった。これまで、仕事の場でこんな風に正面から人格を否定されるような言われ方をしたことなど一度もなかった。
「……失礼ではないですか」
紗和の声が、怒りで震えた。
「私はこれまで、この技術を磨くために必死で働いてきました。成果も出してきた。それが無意味だと言うんですか?」
「意味はありますよ。会社の中ではね」
久保寺は、どこか哀しげな目で彼女を見つめた。
「でも、もし明日、あなたがその会社をクビになったら。あるいは、その名刺が使えなくなったら、何が残りますか? その洗練されたロジックも、予算を動かす権限も、すべては『会社』という大きな器からの借り物だ。……器を奪われた時、あなたはただの、何一つ自分の言葉を持たない、空っぽの三十五歳になってしまいませんか?」
――空っぽの、三十五歳。
その言葉が、紗和の胸の奥で爆発した。
彼女の脳裏に、横浜のオフィスでふんぞり返る部長の顔、部下たちに向かって「戦略が甘い」と説教する自分の姿、そして、藤代との食事の席で「自立した女性」を演じていた自分が、走馬灯のように駆け巡った。
すべて、借り物だったのか。
私が誇りに思っていたあの広いデスクも、成功報酬で買ったブランドバッグも、後輩からの「さすが佐伯さん」という賞賛も。
会社という看板を剥がした後に残る自分には、誰かを救うための言葉も、自分の心を満たすための情熱も、何一つ備わっていないのではないか。
「……私は」
紗和は反論しようとした。けれど、言葉が出てこなかった。
喉が詰まり、視界が急速にぼやけていく。
これまで鉄の意志で守ってきた自制心が、音を立てて崩壊していくのが分かった。
彼女はたまらず、プレゼンのスライドを閉じた。
「……すみません。少し、外の空気を吸ってきます」
逃げるように会場を飛び出した。
高すぎるヒールの音が、青山の無機質な廊下に虚しく響く。
ビルの非常階段の踊り場に辿り着くと、彼女はその場に崩れ落ちた。
涙が止まらなかった。
悲しいからではない。悔しいからでもない。
ただ、自分の足元に広がる闇の深さに、恐怖したのだ。
三十五年かけて築き上げてきた自分の人生が、実は「他者の期待」と「組織の機能」というハリボテでできていたことに気づいてしまった。
横浜のマンション。安定した収入。周囲からの羨望。
それらはすべて、彼女自身を幸せにするためのものではなく、彼女を「佐伯紗和」という役割の中に閉じ込めておくための檻だった。
(私には、何もない……)
会社の名前がなければ、誰も私の話を聞いてくれない。
この技術がなければ、私は誰の役にも立てない。
肩書きという名の鎧を脱いだ私は、ただの、行き場のない、震えているだけの女だ。
青山の空は、どこまでも高く、青かった。
下を見れば、行き交う人々がそれぞれの目的を持って歩いている。
自分だけが、時間の流れから取り残され、透明なカプセルの中に閉じ込められているような錯覚に陥る。
「……何が残るのよ」
震える声で呟いた。
泣き腫らした目で、自分の手を見る。
そこには、マニキュアを丁寧に塗った、華奢な指があるだけだ。
かつて島で砂をいじっていた頃の、あの逞しさはどこにもない。
どれくらい、そこに座り込んでいただろうか。
不意に、背後のドアが開いた。
振り返ると、そこには久保寺ではなく、真理子が立っていた。
彼女は何も言わず、紗和の隣に腰を下ろした。そして、自分のカバンから、少し使い古されたハンカチを取り出し、黙って差し出した。
「……見苦しいところを、お見せしました」
紗和は鼻をすすり、ハンカチを受け取った。
「いいえ。みんな、あそこを通るのよ」
真理子は遠くを見つめながら、穏やかに言った。
「自分が何者でもないことに気づくのは、死ぬほど怖いわよね。でもね、紗和さん。何もなくなった時に初めて、私たちは自分の『重さ』を知ることができるの。借り物の羽を毟り取られて、地面に叩きつけられた時、ようやく自分の足が地面に触れるのよ」
自分の足が、地面に触れる。
その言葉が、紗和の冷え切った身体に、不思議な温もりを運んできた。
完璧なルーティン。完璧な成果。
それらは、宙に浮いたまま踊るためのステップだったのかもしれない。
今、私は初めて、自分の足でこの泥臭い現実に立とうとしている。
「……痛いです。地面が、すごく冷たいです」
紗和は、真理子のハンカチを握りしめた。
「ええ。でも、その冷たさを知っている人だけが、いつか誰かを本当に温めることができるのよ」
真理子は優しく彼女の背中を撫でた。
紗和は再び涙を流したが、それは先ほどまでの恐怖の涙ではなく、何かが溶け出していくような、静かな浄化の涙だった。
肩書きのない自分に、何が残るのか。
その答えは、まだ見つからない。
けれど、この「空っぽ」であるという事実こそが、新しい自分を書き込むための、真っ白なキャンバスなのだと、彼女は微かに、本当に微かに感じ始めていた。
青山の午後。
一人の女性が、三十五年間の「虚像」を脱ぎ捨て、剥き出しの心で立ち上がろうとしていた。
その歩みはまだ、生まれたての小鹿のように、頼りなく、震えていたけれど。




