異世界の扉
土曜日の朝、表参道の駅を降りると、そこには横浜とは違う「乾いた熱気」が満ちていた。
洗練されているのは同じだが、横浜のそれが歴史に裏打ちされた穏やかな品位だとしたら、青山の空気は絶え間ない新陳代謝がもたらす、一種の焦燥感に近い。
紗和は、ネイビーのタイトなセットアップに、あえて少し高めのヒールを選んで歩いていた。広告代理店での打ち合わせなら、これで「完璧」なはずだ。清潔感、信頼感、そして微かな威圧感。それが彼女が三十五年かけて作り上げてきた、社会という戦場を生き抜くための武装だった。
勉強会の会場は、大通りから一本入った路地裏にある、古いビルをリノベーションしたスタジオだった。
コンクリート打ちっぱなしの壁に、大きなガラス窓。中に入ると、既に二十人ほどの男女が集まり、銘々にコーヒーを手に談笑していた。
(……場違いだったかしら)
紗和は一瞬、足を止めそうになった。
そこにいる人々は、彼女が普段接する「クライアント」や「同僚」とは明らかに人種が違った。
よれよれのTシャツにジーンズ姿で、熱心にタブレットを叩く若者。民族衣装のようなストールを巻いた年配の女性。作業着のようなカバーオールを着た、体格の良い男性。
彼らの中に、自分のような「完璧なオフィススタイル」の人間は一人もいない。彼女のヒールが立てるカツカツという音だけが、無機質な床に場違いに響き、彼女の自意識をチクチクと刺した。
「おはようございます。佐伯紗和さんですね」
声をかけられ、振り返る。
そこに立っていたのは、主催者の久保寺匠だった。
画面越しに見ていたよりも、ずっと彫りの深い顔立ちをしている。けれど、何より印象的なのは、すべてを見透かされるような、静かで、それでいて燃えるような光を宿した瞳だった。
「はい。よろしくお願いします」
「その靴、素敵ですね。でも、ここでは少し歩きにくいかもしれません」
久保寺は皮肉ではなく、心底申し訳なさそうに微笑んだ。
「ここは、立ち止まって考える場所ではなく、泥にまみれて動き回る人のための場所ですから」
紗和は、言葉を失った。
自分の誇りだったはずの「洗練」が、ここでは単なる「不自由」として扱われる。その事実に、彼女のプライドは微かな音を立てて軋んだ。
午前十時。プログラムが始まった。
久保寺は、壇上に立つこともなく、輪の中心に椅子を置いて座った。
「皆さん、ここに来た目的は様々でしょう。スキルが欲しい、人脈が欲しい、あるいは今の自分を変えたい。……ですが、最初に一つだけ約束してください。ここでは、肩書きを捨ててください。会社の名前も、役職も、これまで積み上げてきた実績も、ここには持ち込まないでほしい」
久保寺の言葉は、静かだが鋭かった。
「名前を名乗る時、自分の『機能』を説明するのではなく、自分の『願い』を語ってください。あなたが世界に対して、報酬がなくても手渡したいものは何か。それだけが、この三日間でのあなたの通貨になります」
最初のワークは、三人一組での自己紹介だった。
紗和の組になったのは、ボサボサの髪をした二十代半ばの青年・カイトと、穏やかな笑みを浮かべた五十代の女性・真理子だった。
「えっと、カイトです。僕は、地元で放置されている耕作放棄地を、子供たちが自由に遊べる秘密基地に作り変えたいと思ってます。……金にはならないんですけど、あそこで遊ぶ子供たちの顔が見たいんです。それが僕の『願い』です」
カイトは、照れくさそうに、けれど真っ直ぐな目で語った。
次に真理子が口を開く。
「私は、長年主婦をしてきましたが、介護現場で働く人たちが、自分たちの心をケアできるような場所を作りたいんです。彼らが孤独にならないように」
二人とも、言葉は拙いかもしれない。けれど、その根底には、自分の外側に向けられた、確かな「愛」のようなものが流れていた。
そして、紗和の番が来た。
「私は……佐伯紗和と言います。横浜の広告代理店で、リーダーをしています。あ、肩書きはダメでしたね。ええと……」
言葉が詰まった。
自分の「機能」を説明しない自分に、何が残っているのか。
広告のキャンペーンを成功させたこと。数千万円の予算を動かしたこと。クライアントに感謝されたこと。
それらを剥ぎ取った後に残る、佐伯紗和という一人の人間の「願い」とは。
「私は……」
紗和は、昨日メモ帳に書いた言葉を思い出そうとした。
けれど、目の前の二人の「生きた言葉」を前にして、昨夜の自分の言葉が、いかに借り物の、綺麗なだけの虚飾であったかを思い知らされた。
「……私は、自分が何者なのか、わからなくなってここに来ました」
絞り出すように出たのは、そんな情けない一言だった。
これまで完璧にコントロールしてきた自分の声が、微かに震えていることに気づき、紗和は唇を噛んだ。
沈黙が流れる。
リーダーとしての自分なら、この沈黙をスマートな冗談で埋めることができた。でも、今の彼女には、そのための武器が何一つなかった。
「……いいと思います。それ、すごく勇気がいる言葉ですよ」
カイトが、ふわりと笑った。
「わからないって認めることからしか、始まらないこともありますから」
真理子も、慈しむような目で頷いた。
「紗和さん、あなたのその震えている声は、とても誠実だと思いますよ。綺麗な言葉で飾られるより、ずっと響きます」
紗和の視界が、一瞬だけ揺らいだ。
横浜のオフィスでは、誰も私の「声の震え」なんて気にも留めなかった。求められるのは、常に安定した成果と、揺るぎない確信だけだった。
けれど、この「異世界」では、自分の弱さこそが、他者と繋がるための入り口になっている。
午後からの講義で、久保寺は「社会の痛み」について語った。
誰かが困っていること。誰かが泣いていること。それを「ビジネス」というツールを使って解決することの意義。
紗和は必死にノートを取った。これまでの「消費させるためのロジック」とは正反対の、「生かすためのロジック」。
頭が熱くなるような感覚。
同時に、自分の足元が、ヒールではなく、しっかりと地面を捉えようとしている不思議な感覚。
「佐伯さん、少し顔つきが変わりましたね」
休憩時間、久保寺がふらりと近づいてきた。
「……少しだけ、自分の靴が重く感じています」
「それは、重力に逆らわずに生きようとしている証拠です。いい痛みですよ」
久保寺はそう言って、彼女に一杯の紙コップのコーヒーを差し出した。
高い豆の香りはしない。けれど、その温かさは、これまで飲んできたどんな高級なワインよりも、紗和の指先を、そして凍りついていた心の芯を、じわりと溶かしていった。
会場の大きな窓から差し込む夕日は、青山の街を黄金色に染めていた。
窓に映る自分の姿を見る。
ネイビーのスーツは少しシワになり、完璧だったはずの髪も少し乱れている。
けれど、そこには「デキる女」の仮面を剥がされ、戸惑いながらも、必死に自分の呼吸を探そうとしている、一人の三十五歳の女性がいた。
「日曜日の夜」が来るのが怖いと思っていた。
けれど、今の彼女は、明日の朝が来るのを、自分でも信じられないような微かな期待と共に待っている。
青山の路地裏。
異世界の扉を開けた紗和の耳に届いたのは、都会の喧騒ではなく、自分自身の内側から湧き上がる、小さな、けれど力強い拍動の音だった。




