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凪(なぎ)の呼吸  作者: 久遠 睦


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真夜中のブラウジング

申し込み完了のメールが届いたのは、それから数分後のことだった。

 『【確定】ソーシャル・ビジネス・デザイン勉強会:第一期へのご参加ありがとうございます』

 スマートフォンの画面に映し出された無機質な文字列を、紗和は何度も読み返した。参加費は、三日間のプログラムで十万円。決して安い金額ではない。ブランド物のパンプスを一足新調するのを我慢すれば出せる金額だが、目に見えない「体験」にこれだけの投資をするのは、彼女の人生で初めてのことだった。

 夜、馬車道のマンションに戻った紗和は、メイクも落とさず、ノートパソコンを立ち上げた。

 部屋の明かりを消し、間接照明の柔らかな光の中に身を沈める。青白い液晶の光が、彼女の瞳を冷たく、けれど情熱的に照らし出していた。

 彼女が始めたのは、この勉強会の主催者や、過去の参加者たちの徹底的な「ブラウジング」だった。

 広告代理店でのリサーチ能力が、図らずもこんな場所で発揮される。

 主催者の名前は、久保寺匠くぼでら たくみ

 元々は外資系の戦略コンサルタントとして華々しい経歴を持ちながら、三十代半ばで突如としてその座を捨て、地方創生やソーシャルビジネスの支援に転じた人物だ。彼のインタビュー記事を探し当て、紗和はスクロールする指を止めた。

『ビジネスとは、単なる利益の最大化ではない。それは、自分という人間がいかに世界と関わり、どのような価値を呼吸のように吐き出していくかという「生き方」の証明である』

 生き方の、証明。

 紗和の胸の奥で、カチリ、と小さな歯車が噛み合う音がした。

 これまで彼女が関わってきたビジネスは、いかに消費者の欲望を喚起し、いかに効率よく商品を手に取らせるかという「技術」の集積だった。もちろん、そこに誇りを持っていたし、成果も出してきた。けれど、そのプロセスのどこかに「自分」という血の通った人間が介在していたかと言われれば、自信がなかった。

 次に、彼女はハッシュタグを辿り、SNS上で参加者たちの横顔を追い始めた。

 

 三十代前半で会社を辞め、過疎の村でエディブルフラワー(食用花)の栽培を始めた女性。

 IT企業に勤めながら、週末だけ子供向けのプログラミング教室をボランティアで運営する男性。

 大手メーカーのエンジニアでありながら、途上国の水質汚染を解決するためのスタートアップを準備中の若者。

 画面の中に並ぶ彼らの言葉は、洗練されてはいないかもしれない。けれど、どれもが強烈な「個」の熱量を帯びていた。

 

「……眩しい」

 紗和は小さく呟き、目を逸らした。

 彼らと自分を比べる。横浜の、管理された快適なオフィス。用意された高い椅子。守られたキャリア。

 自分は、そんな「守られた場所」から一歩も出ることなく、ただ「何かが足りない」と嘆いていただけなのではないか。

 

 ブラウザのタブを切り替える。

 次に彼女が見ていたのは、勉強会の事前課題だった。

『問い:あなたが、報酬がゼロでもやり遂げたいと思うことは何か? その理由を、自身の原体験と結びつけて記述せよ』

 その問いの前に、紗和の思考は停止した。

 報酬。成果。評価。

 それらを切り離した自分に、果たして何が残っているというのだろう。

 

 夜中の二時。

 馬車道の街は深い眠りに就いている。外からは、時折通り過ぎるタクシーのエンジン音だけが聞こえてくる。

 紗和はキッチンに立ち、ハーブティーを淹れた。カモミールの香りが湯気と共に立ち上り、張り詰めた神経を少しだけ緩めていく。

 ふと、視線がリビングの棚に置かれた一枚の写真に留まった。

 大学の卒業旅行で行った、瀬戸内の小さな島で撮った写真だ。まだ今ほど開発される前の、むせ返るような緑と、どこまでも青い海。

 写真の中の自分は、今の洗練されたテラコッタ色のリップも、上質なスーツも身につけていない。日焼けした肌に、安物のTシャツ。

 けれど、その瞳には、今よりもずっと確かな「自分」が宿っていたような気がした。

(私は、いつから「正解」を演じることに必死になってしまったんだろう)

 三十五歳。

 やり直しがきかない年齢だと思っていた。

 積み上げてきたものを守るために、新しい挑戦を拒んでいた。

 けれど、この真夜中のブラウジングが教えてくれたのは、世界には「正解」など無数にあり、そしてそのどれもが、誰かの勇気ある一歩から始まっているという事実だった。

 紗和は再びパソコンの前に座り、真っ白なメモ帳を開いた。

 事前課題への回答を打ち始める。

『私は、これまで誰かの欲望を形にする手伝いをしてきました。けれどこれからは、誰かの沈黙に耳を傾け、それを希望に変えるための言葉を探したい。それが報酬のない仕事だとしても、私が私の呼吸を取り戻すために必要な儀式なのだと思います』

 言葉にすると、それは驚くほど幼稚で、青臭い理想論に見えた。

 広告代理店のリーダーとしては、失格の文章かもしれない。

 けれど、タイピングする指先は、かつてないほど軽やかだった。

 窓の外が、わずかに白み始めている。

 新しい一週間が、もうすぐ始まる。

 明日からの月曜日は、きっと今までとは違う色をしているはずだ。

 

 紗和はパソコンを閉じ、深く息を吐いた。

 胸の奥に居座っていた「物足りなさ」という名の霧が、朝焼けの光に溶けていくのを、彼女は静かに見守っていた。

 ブラウザを閉じたあとに残ったのは、暗い画面に映る、少しだけ晴れやかな自分の顔だった。


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