三十五歳の賞味期限
土曜日の朝、紗和を揺り起こしたのは、スマートフォンの無機質な通知音だった。
カーテンの隙間から差し込む光が、散らかったリビングの床を虚しく照らしている。昨夜、藤代との食事から逃げるように帰宅し、着替えもそこそこにソファで眠りに落ちてしまったらしい。
画面を見ると、母からの着信と、数通のLINE。
その中の一通、大学時代の友人・恵理からのメッセージが目に飛び込んできた。
『紗和、おはよ! 六月の連休、空けておいてね。カナの結婚パーティー、横浜であるんだって。私たち、また余興頼まれちゃうかも(笑)』
カナ。グループの中で一番最後に独身を通していたはずの彼女まで、ついに「あちら側」へ行くらしい。
おめでとう、と返信しようとして、指先が凍りつく。
画面をスクロールすると、グループチャットは既に祝福の嵐だった。ベビー用品の話題、新居の場所、そして「紗和は最近どうなの?」という、悪意のない、けれど毒よりも鋭い問いかけ。
「……また、これか」
紗和はスマートフォンを裏返し、深い溜息をついた。
三十五歳。
それは、世間という名の巨大なマーケットにおいて、ある種の「賞味期限」を突きつけられる年齢だ。
仕事では「ベテラン」の一歩手前として重宝される一方で、プライベートでは「何か欠陥があるのではないか」という無言の視線にさらされる。独身であること自体が、まるで説明責任を伴う負債であるかのように。
起き上がり、キッチンへ向かう。
冷蔵庫を開けると、数日前に買った牛乳のパックが、今日という日付で期限を迎えていた。
シンクに白い液体を流すと、独特の甘ったるい匂いが鼻をつく。
――私も、こうして捨てられていくのだろうか。
市場価値という名の、自分ではコントロールできない基準によって。
そこへ、再びスマートフォンが震えた。今度は母からの電話だった。
「もしもし、紗和? 起きてた?」
「……うん。おはよう、お母さん」
「あんた、声が疲れてるわね。仕事、頑張りすぎじゃないの?」
母の言葉は、いつも労いから始まる。けれど、その後に続く「本題」を、紗和は痛いほど分かっていた。
「あのね、隣の美智子さんのところの娘さん、覚える? ほら、紗和より二つ下の子。あの子、この前、二人目が生まれたんですって。美智子さん、孫の動画ばっかり見せてきてねぇ……」
母の声は、どこか申し訳なさそうで、それでいて隠しきれない羨望が混ざっていた。
母を責めることはできない。彼女たちの世代にとって、女の幸せは結婚と出産に集約されていたのだ。娘がどれほど立派な広告キャンペーンを成功させようと、どれほど高い年収を得ようと、それは「孫の顔」という一枚のカードには到底及ばない。
「紗和、あんたもそろそろ……。この前言った、親戚の紹介の話、一度だけでも会ってみない? 無理にとは言わないけど、年齢的に、ねぇ。後で後悔しても遅いから」
「……わかってる。わかってるから」
紗和は努めて冷静な声を出し、電話を切った。
わかっている。そんなことは、自分が一番わかっているのだ。
生理が来るたびに、自分の体内の「時間」が刻一刻と削られていく感覚。鏡を見るたびに増えていく、目尻の微かな皺。
それらを無視して仕事に没頭してきたのは、自分自身だったはずだ。
けれど、なぜだろう。
「後悔しないために」という理由で、誰かの隣に座る自分を想像すると、吐き気がするほどの拒絶反応が起こる。
藤代のような完璧な男性を前にして、砂を噛むような思いをする自分。
それは、私がわがままだからなのだろうか。それとも、私が「欠陥品」だからなのだろうか。
紗和は着替えを済ませ、逃げるように外へ出た。
土曜日の馬車道は、家族連れやカップルで賑わっている。
ベビーカーを押す若い夫婦。手を繋いで笑い合う大学生。彼らは皆、自分たちが進むべき「正解」のレールに乗っているように見えた。
馬車道の交差点に立ち、紗和は立ち尽くした。
自分は何がしたくて、どこに行けば良いのだろう。
このままでも十分だ。仕事はある。お金もある。自由もある。
けれど、心の中にあるこの「物足りなさ」の正体は、きっと結婚や子供だけでは埋まらない。
ふと、昨夜スマートフォンで開いた、あの勉強会の詳細画面を思い出した。
『ビジネス・マインドの再定義:既存の価値観を破壊し、自分だけの「核」を見つけるための三日間』
開催場所は、青山。
横浜のこの穏やかで、少しだけ閉鎖的な美しさとは違う、常に変化し続ける街。
「……刺激が欲しいわけじゃない」
自分に言い聞かせるように呟く。
欲しいのは、誰かに決められた賞味期限に怯える自分を、根底から塗り替えるための「言葉」だ。
「35歳の女性」というラベルを剥がした後に残る、裸の自分。
その自分が、何を欲し、何に心震わせるのか。それを知らなければ、たとえ誰と結婚したとしても、私は永遠に「砂」を食べ続けることになる。
紗和はカフェに入り、テラス席に座った。
目の前を、観光用の赤いバス「あかいくつ号」が通り過ぎていく。
彼女は迷いなくスマートフォンを取り出し、昨夜送れなかった申し込みメールの「最終確認」ボタンを押した。
その瞬間、視界に入った銀杏の木が、昨日よりも鮮やかな緑に見えた。
三十五歳。
世間が勝手に決めた期限など、知ったことか。
私は、私という物語をリノベーションする。そのための「解体作業」を、ここから始めるんだ。
喉の奥に居座っていた重い塊が、ほんの少しだけ、解けていくような気がした。
来週から、新しい日々が始まる。
それは、これまでと同じルーティンの繰り返しではない。
自分を裏切らないための、戦いへの第一歩。
紗和は、残ったコーヒーを飲み干した。
苦味の奥に、確かな熱が宿っていた。




