微熱の予感
非常階段の冷たいコンクリートから立ち上がった時、紗和の足取りは、先ほどまでの高く鋭いヒールの音とは対照的に、どこか湿り気を帯びていた。
真理子から借りたハンカチで目元を拭い、鏡を見ることもなく会場へ戻る。扉を開ける指先が微かに震える。けれど、その震えは恐怖だけではなかった。
会場内では、次のグループワークが始まっていた。
久保寺は、戻ってきた紗和を一瞥したが、何も言わなかった。その沈黙は、突き放されたようでもあり、同時に「自分で選んで戻ってきた」という彼女の意志を尊重しているようにも感じられた。
(悔しい……)
席に着いた紗和の胸の奥で、小さく、けれど消えない火種が燻っていた。
論理を否定されたことへの怒りではない。完璧だと思っていた自分の人生が、他人の物差しで測られただけの「空虚な模造品」だと見抜かれたことへの、自分自身に対する猛烈な悔しさだ。
「……佐伯さん、大丈夫?」
隣のカイトが、心配そうに声を潜めて聞いてくる。
「ええ。……少し、自分の輪郭を削りすぎたみたい」
紗和は力なく笑った。
午後のセッションは、さらに踏み込んだ内容だった。
「自分のスキルを使って、誰を幸せにしたいか」ではなく、「自分の中にある『許せないこと』は何か」を掘り下げるという。
久保寺が板書した文字は、暴力的なまでにシンプルだった。
『あなたの、憤り(いきどおり)はどこにある?』
憤り。
広告代理店の仕事において、感情は「制御すべき対象」だった。クールに、論理的に、クライアントの利益を最優先する。憤りなどという泥臭い感情は、洗練されたプロフェッショナリズムの対極にあるものだと思っていた。
しかし、問いを突きつけられ、思考を巡らせるうちに、紗和の脳裏にいくつもの情景が浮かんでは消えた。
深夜のオフィスで、体調を崩しながらも「代わりがいないから」と泣きながら入稿作業をする後輩の姿。
実力があるのに、育児との両立を理由に重要なプロジェクトから外され、悟ったような顔で「仕方ないです」と微笑んだ先輩。
そして、三十五歳になった途端、まるで「市場価値の低下した商品」のように自分を扱い、親切心の皮を被った説教を垂れる周囲の視線。
(……私は、ずっと怒っていたんだ)
誰かに決められた枠組み。
「女性はこうあるべき」「三十代はこうあるべき」「キャリアはこう積むべき」。
その透明な檻の中で、息ができないほど苦しいのに、「これが成功への近道だ」と自分に言い聞かせ、自分を麻痺させてきたこと。
その「麻痺」を強いるこの社会の構造に、そして何より、それに進んで適応しようとした自分自身に、私は猛烈に腹を立てている。
紗和は、ノートに殴り書きをした。
『私がやりたいのは、伝統工芸の再構築じゃない。……私がやりたいのは、誰かの決めた「正解」に押しつぶされそうな人たちが、自分の呼吸を取り戻すための場所を作ることだ』
文字にすると、それはあまりにも青臭く、ビジネスとしては成立しそうにない、ただの感情の吐露だった。
けれど、それを書いた瞬間、彼女の身体に、昨夜のブラウジングで感じたものとは比較にならないほどの「熱」が宿った。
平熱よりも少しだけ高い、微熱のような高揚感。
「……それが、あなたの本音ですか」
いつの間にか、久保寺が背後に立っていた。
紗和はビクリとしてノートを隠そうとしたが、思い直して、それを久保寺に差し出した。
「……笑うなら、笑ってください。広告代理店の人間が言うことじゃないって、自分でも分かってます」
久保寺は、黙ってその一文を読み込んだ。
長い沈黙。
やがて、彼はゆっくりと顔を上げ、初めて紗和の瞳を真っ向から、優しく捉えた。
「笑うわけがない。……ようやく、あなたの『体温』が伝わってきました。佐伯さん、その憤りは、あなたにしか解決できない課題に繋がる種ですよ。……大切にしてください」
その言葉を聞いた瞬間、紗和の鼻の奥がツンとした。
認められた、と思った。
「佐伯リーダー」としての成果ではなく、「佐伯紗和」という一人の女性の、剥き出しの感情を。
勉強会の帰り道。
夕暮れの表参道を歩く紗和の足取りは、朝とは一変していた。
高すぎるヒールは、やはり少し歩きにくい。けれど、今はその不自由さが、自分がここにあるという確かな証拠のように思えた。
駅へ向かう途中、ふと、ショーウィンドウに映る自分を見た。
ネイビーのスーツはやはりシワになり、メイクも崩れている。
けれど、その瞳には、横浜のオフィスで「正解」をプレゼンしていた時のような冷たい光ではなく、自分自身も正体のつかめない、けれど消えることのない「微熱」が灯っていた。
(私は、どこに行けば良いのか、まだわからない)
けれど、もう「どこかへ行かなければならない」という焦燥感に支配されるのはやめよう。
まずは、この微熱がどこへ向かおうとしているのか、それを自分の足で見極めてみたい。
横浜へ戻る電車の中で、紗和はスマートフォンの電源を入れた。
藤代からの返信を催促するメッセージが数通。そして、母からの「その後どう?」という干渉。
以前なら胃が痛くなるような通知の山を、彼女は無感情にスワイプして消した。
今の彼女の関心は、明日、会社へ行った時に、この「微熱」を抱えたまま、どうやって日常と向き合うか、それだけだった。
完璧だったルーティンに、取り返しのつかない「綻び」が生じている。
けれど、その綻びから差し込む光こそが、新しい一歩を照らす道標になるのだと、彼女は予感していた。
馬車道の駅に降り立つ。
海からの風が、少しだけ春の匂いを運んできた。
紗和は深く、本当に深く、肺の奥まで空気を吸い込んだ。
三十五歳。
人生が閉じていくような気がしていたけれど、実は、始まったばかりなのかもしれない。
彼女の心臓は、いつもより少しだけ、力強く、そして熱く鼓動を刻んでいた。
それが、これから始まる「再構築」のための、静かな序曲だった。




