島のリズム
鳥のさえずりと、遠くで響くポンポン船のエンジン音。それが、紗和の新しい朝の目覚まし時計だった。
横浜のマンションでは、遮光カーテンで外界を遮断し、スマートフォンの無機質なアラームに叩き起こされるのが常だった。けれど、この古民家の薄い木枠の窓からは、夜明け前の白々と明けていく気配が容赦なく入り込んでくる。
身体が、驚くほど軽い。
泥のように眠った、という感覚。昨夜、砂浜で流した涙が、心の澱を一緒に洗い流してくれたのかもしれない。紗和は洗面所で冷たい水に顔を浸すと、源三から借りた少し大きめのサンダルを履き、まだ眠りに就いている宿をそっと出た。
坂道を下り、再び昨夜の砂浜へ向かう。
空気はひんやりと鋭く、吐き出す息がかすかに白い。けれど、その冷たさが、今の彼女には心地よかった。
東の空が、濃い藍色から、オレンジ、そして鮮やかな黄金色へと移り変わっていく。
海面は、まるで熟練の職人が磨き上げた銀のプレートのように滑らかだ。
やがて、対岸の島影の向こうから、一点の強烈な光が溢れ出した。
「……あ」
太陽が、顔を出した。
それは、横浜のビルの隙間から見るそれとは、全く別の生き物のようだった。
圧倒的な質量を持った光が、まっすぐに海を渡り、紗和の足元まで光の道を作る。
ジリジリと肌を焼くような、力強い熱。
(昨日の太陽とは、違う……)
源三が言った「新しい太陽」の意味が、理屈ではなく細胞レベルで理解できた。
昨日の自分を苦しめていた失敗も、焦りも、三十五歳という数字への怯えも、この光の前では一度すべてリセットされる。今日という一日は、誰からも強制されない、自分だけの真っさらなキャンバスなのだ。
紗和は光に向かって、深く呼吸をした。肺の奥まで、新しい光が満ちていく。
宿への帰り道、彼女は村の細い路地を歩いた。
そこでは、すでに島の人々の「営み」が始まっていた。
腰の曲がった老婆が、庭先で大根を干している。
港では、漁師たちが網の手入れをしながら、飾り気のない声で笑い合っている。
ふと、路地の奥から爽やかな、鼻を抜けるような香りが漂ってきた。
香りに誘われるように歩いていくと、斜面に広がる果樹園に出た。そこでは、何人かの人々が、たわわに実った黄色いレモンを一つひとつ丁寧に摘み取っていた。
「おはようさん。あんた、源さんとこの客かい?」
声をかけてきたのは、麦わら帽子を被った、日焼けした顔の女性だった。
「あ、はい。……すみません、勝手に入ってしまって」
「いいよいいよ、減るもんじゃないし。どうだい、うちのレモンは。別嬪だろう?」
女性が手渡してくれたレモンは、まだ枝の熱を帯びていて、驚くほど重かった。
表面には小さな傷があったが、その皮からは、都会のスーパーに並ぶワックスのかかったそれとは比較にならないほど、強烈な「生命の香り」が放たれていた。
「綺麗ですね……。この傷も、なんだか力強くて」
「そうだろう。潮風に耐えて育った証拠さ。見た目は少し不格好でも、中身の香りは負けないよ」
女性の言葉が、紗和の胸にすとんと落ちた。
横浜での自分の仕事。
いかに傷のない、完璧な「パッケージ」を作るか。
いかに欠点を隠し、魅力を誇張して、消費者の欲望を煽るか。
けれど、目の前にあるレモンは、傷があるからこそ愛おしく、その存在そのものが語りかけてくるような説得力を持っていた。
「あの……もしよろしければ、少し手伝わせてもらえませんか?」
自分でも驚くような言葉が口から出た。
「おや、お嬢さん。その服、汚れちゃうよ?」
「構いません。……何か、自分の手で動かしてみたいんです」
ベージュのカーディガンを脱ぎ、シャツの袖を捲り上げる。
女性からハサミを借り、教わった通りに実の根元を切る。
パチン、という小気味よい音。
手に残る重み。
一つ、また一つ。
広告のキャッチコピーを考える時のような、頭を絞り出す苦しみはない。
ただ、目の前にある命を、次の誰かへと繋ぐための、シンプルで誠実な作業。
一時間もすると、紗和の額にはうっすらと汗が滲み、指先はレモンの香りでいっぱいになった。
(働くって、こういうことだったはずだわ……)
誰かを騙すためでも、自分を大きく見せるためでもない。
誰かの手に届くものを、心を込めて整えること。
そこに、複雑なロジックや、分厚い企画書なんて必要なかった。
休憩時間、女性がレモンを絞っただけの冷たい水を出してくれた。
一口飲むと、あまりの酸っぱさに顔が歪む。けれど、その後に訪れる強烈な爽快感が、彼女の身体を内側から目覚めさせた。
「お嬢さん、いい筋してるよ。都会の仕事に疲れたら、いつでも戻っておいで。ここには、レモンと風しかないけどね」
女性の屈託のない笑い声に、紗和も声を上げて笑った。
横浜のオフィスで、愛想笑いを浮かべていた自分とは違う、腹の底からの笑い。
宿に戻ると、源三が縁側でレモンを眺めていた。紗和が持ち帰った、お裾分けの数個のレモンだ。
「いい顔になった。……どうやら、ここのリズムに身体が馴染んできたようだね」
「はい。……私、今まで『仕事』を、自分を証明するための手段だとばかり思っていました。でも、今日レモンを摘んでみて、仕事って、世界と呼吸を合わせることなんだなって、少しだけ分かった気がします」
源三は、目を細めて頷いた。
「三十五だっけ? まだまだ、蕾みたいなもんだよ。あんたというレモンが、これからどんな香りを放つのか。焦らず、じっくり熟せばいい」
紗和は、その言葉を大切に胸に仕舞った。
午後。彼女は一人、海を眺めながらノートを開いた。
そこには、これまでのような「戦略」ではなく、今の自分の素直な感情が綴られていた。
仕事も、人生も、完璧である必要はない。
潮風に吹かれ、傷つきながらも、自分だけの香りを蓄えていく。
それが、私の新しい「リノベーション」のテーマだ。
三十五歳。
瀬戸内の陽光に照らされた彼女の横顔には、もう迷いはなかった。
彼女は、スマートフォンの電源を一度だけ入れた。
井上からの「プロジェクト、順調です。佐伯さんの指示通りに動いてます」という短い報告。
彼女は一言だけ返信した。
『ありがとう。全部任せるわ。自分の感性を信じて』
再び電源を切る。
明日には横浜へ戻る準備を始めなければならない。
けれど、戻る場所は同じでも、戻る「自分」はもう、以前の彼女ではない。
彼女の肺は、島のリズムで、深く、静かに、満ちていた。




