鏡の中の空白
「源三さん、あと二日、ここに置いてもらえませんか」
朝のレモン摘みを終え、泥のついたスニーカーを玄関で脱ぎながら、紗和は言った。
横浜のスケジュール帳には、明日には羽田に戻り、明後日からはクライアントとの定例会議がぎっしりと並んでいる。けれど、今の紗和にとって、それらの予定は遠い銀河の出来事のように感じられた。
「いいよ。あんたの席、まだ片付けてないからね」
源三は、古いラジオのノブを回しながら、短く答えた。その言葉の少なさが、今の紗和には何より心地よかった。
もう二日。
それは、ただの延泊ではない。三十五年間の人生で、初めて自分が「自分自身の時間の主導権」を握った、確かな瞬間だった。
その日の夕暮れ時。
坂道を登ってくる一台のタクシーの音が、静かな島に響いた。この宿に、新しい宿泊客が来るという。
紗和が縁側で冷めたお茶をすすっていると、大きなバックパックを背負った一人の女性が、軽やかな足取りで現れた。
「こんばんは。今日から三晩、お世話になります」
声の主は、紗和と同じか、あるいは少し年下に見える女性だった。
名前は、朝比奈凛。
日焼けした肌に、機能的だがどこか洗練されたアウトドアウェアを纏い、肩には年季の入った一眼レフカメラを下げている。彼女の瞳には、都会で見かける「消費されることに疲れた女性」の翳は微塵もなかった。
その夜、源三が振る舞う地魚の煮付けを囲みながら、二人は自然と会話を交わすことになった。
「私は、季節を追いかけながら全国を旅しているんです」
凛は、美味しそうに麦飯を頬張りながら笑った。
聞けば、彼女は以前、都内の外資系証券会社でバリバリと働く「キャリアウーマン」だったという。けれど、三年前の冬、過労で倒れたのを機に、持っていたブランドバッグも、港区のマンションも、すべてを手放した。
「あの頃の私は、『自分』をどこに置いてきたかも忘れて、ただ数字の数字による数字のための人生を送っていたんです」
凛の言葉は、かつての紗和、あるいは数日前の紗和そのものだった。
「でも、今はこうして、海の色や風の匂いを撮るのが私の仕事。収入は三分の一になったけど、幸福度は百倍になりましたよ」
紗和は、箸を止めて彼女を見つめた。
「……怖くは、なかったんですか? すべてを捨てて、何者でもなくなることが」
凛は少しだけ首を傾け、窓の外の暗い海に目をやった。
「怖かったですよ、もちろん。でもね、佐伯さん。器を一度空っぽにしないと、本当に美味しいお水は入ってこないんです。鏡の中の自分が『空白』になったとき、初めてそこに、自分が本当に見たい景色が映るようになるんですよ」
――鏡の中の、空白。
その言葉が、紗和の胸を強く突き刺した。
これまでの自分は、鏡の中に「正解」という名のシールを隙間なく貼り付けてきた。広告代理店のリーダー、自立した女性、横浜の住人。そのシールを一枚一枚剥がしていく作業が、どれほど苦しく、恐ろしいことか。
けれど、目の前の凛は、その「空白」を心から楽しんでいるように見えた。
食後、二人は連れ立って夜の海辺へと歩いた。
源三が昨夜教えてくれた「ウミホタル」が、今夜も足元で青く瞬いている。
「見てください、佐伯さん。この光は、誰のために光っているわけでもない。ただ、彼らが生きているから光っている。私たちの人生も、きっとそれでいいんですよね」
凛はそう言って、慣れた手つきで三脚を立てた。
シャッターを切る音。それは、時間を切り取る音ではなく、今この瞬間の美しさを肯定する音に聞こえた。
「私……横浜に戻ったら、今まで通りの自分ではいられない気がするんです」
紗和は、潮風に打たれながら、心の内を吐露した。
「仕事も、人間関係も。三十五歳になって、ようやく自分に嘘をつけなくなってしまった。それが、いいことなのか、悪いことなのかもわからなくて」
凛は、カメラから目を離さずに答えた。
「いいことだと思います。嘘をつけなくなったのは、身体が『本当の自分』を求めているサインですから。三十五歳。リノベーションを始めるには、最高の年齢じゃないですか」
凛から受ける刺激は、ビジネス勉強会で受けた「脳への衝撃」とは違った。
それは、同じ時代を生きる女性として、実際に「違うレール」を走っている人間の、しなやかで強固な「体温」を伴った共鳴だった。
宿に戻り、一人で洗面台の前に立った。
古い鏡が、薄暗い電球の下で紗和の顔を映し出している。
そこには、テラコッタ色のリップも、計算された微笑もない。
潮風に乱れた髪、少し焼けた鼻筋。
そして、凛が言った通り、肩書きも役割も剥がれ落ちた、一枚の「空白のキャンバス」のような顔があった。
(……何者でもない、私)
鏡の中の自分を見つめながら、紗和はゆっくりと、深く、呼吸をした。
怖い。けれど、それ以上に、ワクワクしている自分がいた。
この「空白」に、私は明日から、どんな色を塗っていこう。
凛との出会いは、紗和の中に眠っていた「変化への希求」に、確かな火を灯した。
それは、誰かに与えられた刺激ではなく、自分と同じ痛みを知る者から手渡された、静かな希望のバトンだった。
延泊を決めたあと二日。
その時間は、彼女が「佐伯紗和」という物語の新しい章を書き始めるための、最も贅沢な余白になるはずだ。
窓の外では、瀬戸内の凪いだ海が、どこまでも深く、静かに広がっていた。
彼女の肺の中には、新しい酸素が、満ち足りた音を立てて流れ込んでいた。




