表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
凪(なぎ)の呼吸  作者: 久遠 睦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
11/40

青の洗礼

その宿は、島の斜面にへばりつくようにして建つ、築百年に届こうかという古民家だった。

 「潮騒庵しおさいあん」と書かれた小さな木の看板が、軒先で夜風に揺れている。重い引き戸を開けると、使い込まれた黒光りする床の匂いと、どこか懐かしい線香のような香りが紗和を迎え入れた。

「お遍路さんじゃなさそうだね。……ようこそ、何もない島へ」

 奥から出てきたのは、日に焼けた顔に深い皺を刻んだ、ガッシリとした体格の男だった。この宿の主、源三げんぞうだという。彼は紗和の小綺麗なベージュのカーディガンと、都会の駅で慌てて履き替えたばかりの真っさらなスニーカーを一瞥し、ふっと破顔した。

「そんなに肩を尖らせて歩かなくても、この島は逃げやしませんよ。まずは、その重そうな荷物を降ろしなさい」

 案内された部屋は、畳の匂いが濃く漂う六畳間だった。横浜のマンションの、スイッチ一つで全てが完結する冷たい快適さとは対照的な、不便で、けれど柔らかな空間。

 夕食に出されたのは、近くの海で揚がったばかりだという真鯛の刺身と、島で採れた野菜の煮物、そして少し硬めに炊かれた麦飯だった。

 一口、鯛の身を口に運ぶ。

 

(……甘い)

 横浜の高級な鮨店で食べる、熟成されたそれとは違う。弾力があり、噛みしめるほどに野性味のある滋味が広がる。それは「情報」を食べる食事ではなく、命を直接取り込むような、ひどく純粋な行為に思えた。

 

 食後、紗和は縁側に出て、暮れなずむ瀬戸内の海を眺めていた。源三が、熱い茶を運んできて隣に腰を下ろす。

「どうですか、島の一夜は。……都会の人には、少し暗すぎますかね」

「いいえ。……暗いというより、深い、気がします。横浜の夜は、もっと……なんて言うんでしょう。騒がしくて、薄っぺらいんです」

 紗和の言葉に、源三は小さく笑って煙草に火をつけた。

「あんたの住んでいる街の夜は、『人間が作った光』でできているからね。でも、ここにあるのは『宇宙の闇』そのものだ。……佐伯さん、もし体力が残っているなら、少し浜へ降りてごらんなさい。今の時間は、ちょうど星が一番綺麗に咲く頃だ」

「星が、咲く?」

「ああ。ここでは、星は降るもんじゃなく、闇の中から咲いてくるもんだと俺は思っている。……それとね、足元の砂浜もよく見てごらんなさい。運が良ければ、海の中にも星が見えるかもしれないよ」

 源三はそう言って、古びた懐中電灯を貸してくれた。

 

 宿を出ると、そこには文字通りの「闇」があった。街灯など数えるほどしかなく、自分の足元すらおぼつかない。横浜では決して経験することのない、視覚を奪われる恐怖。けれど、一歩一歩、スニーカーで砂利道を噛みしめるうちに、聴覚や嗅覚が研ぎ澄まされていくのが分かった。

 

 坂を下り、波音が近づいてくる。

 たどり着いた砂浜で、紗和は懐中電灯のスイッチを切った。

 

 一瞬、すべてが消えた。

 

 呼吸の音と、波が砂を洗う音。それ以外のすべてが剥ぎ取られた世界。

 やがて目が慣れてくると、頭上に広がる光景に、彼女は言葉を失った。

 

「……嘘」

 

 そこには、横浜の空では決して見ることのできない、圧倒的な密度の星空があった。

 天の川が白く太い河となって夜空を横切り、無数の星々が、まるで意思を持っているかのように瞬いている。源三が言った通り、それは降ってくるようなものではなく、宇宙という深い大地から、光の花が次々と咲き乱れているような、暴力的なまでの美しさだった。

 

 彼女は砂浜にそのまま腰を下ろした。

 

 三十五歳。

 私は、何をあんなに焦っていたのだろう。

 あの煌びやかなオフィスの天井の、LEDの光の下で。

 誰より早く成果を出し、誰より正確に正解を導き出し、誰かに認められることでしか、自分の「位置」を確認できなかった。

 

 けれど、この星空の下では、佐伯紗和という一人の人間の悩みも、キャリアも、独身であることの焦燥も、何一つ意味をなさない。

 私は、宇宙の長い長い時間の中の、ほんの一瞬に現れた、小さな、小さな光の粒に過ぎないのだ。

 

 ふと、波打ち際を見た。

 波が引く瞬間、砂浜が青白く、パッと光った。

 

「……あ」

 

 立ち上がり、波打ち際まで歩く。足を踏み出すたびに、砂の中に潜んでいた「ウミホタル」たちが、彼女の刺激に反応して、幻想的な青い光を放つ。

 

 足元には海の星。頭上には宇宙の星。

 

 その二つの青い光に挟まれて、紗和は立ち尽くした。

 刺激が欲しいわけではなかった。心が満たされて欲しかった。

 その「満たされる」という感覚の正体が、今、ようやく分かった気がした。

 

 それは、何かを得ることではない。

 余計なものをすべて脱ぎ捨て、自分という存在が、この巨大な自然の循環の中に、ただ「在る」ことを許されることなのだ。

 

 横浜の月曜日は、彼女を「機能」として扱った。

 親の言葉は、彼女を「役割」として縛った。

 けれど、この島の夜は、彼女をただの「命」として抱きしめている。

 

(……私は、ここにいてもいいんだ)

 

 自分でも驚くほど、熱い涙が頬を伝った。

 誰の期待にも応えない、誰の顔色も伺わない、ただ泣きたいから泣く。

 波音が、彼女の嗚咽を優しくかき消してくれた。

 

 一時間ほど、彼女は砂浜に座っていた。

 スニーカーの中に入った砂の感触すら、今は愛おしかった。

 砂の味しかしないと思っていた人生に、今、確かな「潮の味」が染み込んでいく。

 

 宿に戻ると、源三がまだ縁側で新聞を読んでいた。

 紗和の少し赤い目を見て、彼は何も聞かず、ただ「おかえりなさい」とだけ言った。

 

「……ご主人。星、本当に咲いていました。海の中にも」

 

「そうかい。よかった」

 

 源三は立ち上がり、古い柱時計を見上げた。

 

「佐伯さん。明日の朝、気が向いたらまた浜へ行ってごらんなさい。夜の海とはまた違う、新しい太陽が生まれるところが見えるから。……この島にはね、正解なんて一つもない。あるのは、あんたが自分で見つけた景色だけだ」

 

 紗和は深く深く、頭を下げた。

 

 部屋に戻り、布団に潜り込む。

 横浜の高級なマットレスとは違う、少し硬い布団。けれど、窓の外から聞こえる一定のリズムの波音が、最高のララバイとなって彼女を深い眠りへと誘った。

 

 三十五歳。

 人生のリノベーション、その最初の一夜。

 彼女は、生まれて初めて「明日が来るのが楽しみだ」と思いながら、意識を遠のかせていった。

 

 そこにはもう、日曜日の憂鬱も、気が乗らない月曜日も、存在しなかった。

 あるのは、凪いだ海のように、静かに満ちていく彼女の心だけだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ