田中麗奈
最初に壊れたのは、声だった。
「おはよう」
そう言っても、返事は返ってこない。
目が合っても、すぐに逸らされる。
――シカト。
それが始まりだった。
机の中の教科書が消えた。
次はノート。
次は、制服の上履き。
「知らない?」
聞けば、
金森栞菜は肩をすくめて笑った。
「自己管理できてないんじゃない?」
周りも笑った。
麗奈は笑えなかった。
⸻
ある日、
体育の後、教室に戻ると、
頭から冷たい水をかけられた。
髪から滴る水が、
床に落ちる。
「ごめん、手滑った」
そう言ったのは、愛だった。
謝罪の形をした攻撃。
麗奈は、何も言えなかった。
言えば、
次はもっと酷くなると知っていたから。
⸻
唯一、
優しくしてくれたのが、光だった。
「大丈夫?」
そう言って、
タオルを差し出してくれた。
笑顔が眩しかった。
――この人だけは、違う。
そう、信じた。
勇気を振り絞って、
告白した。
翌日、
麗奈の名前は、SNSにあった。
《ブスの勘違いw》
《告白してきたw》
《調子乗りすぎ》
スクリーンショット付きで。
光も、
笑っていた。
⸻
放課後、
人気のない場所に呼び出され、
突き飛ばされ、
罵られ、
蹴られた。
「身の程知れよ」
誰かが言った。
麗奈は、
声も出なかった。
⸻
父親は、
突然仕事を失った。
「……圧が、かかった」
それだけ言って、
うつむいた。
相手が誰か、
言わなくても分かった。
金森家。
――ああ、
この世界は、最初から違っていた。
⸻
麗奈は、顔を変えた。
名前も、
過去も、
すべて置いてきた。
そして――
田中宗也と出会った。
彼は、
全部を知っていた。
それでも、
麗奈を選んだ。
復讐は、偶然から始まった。
上流階級向けのパーティに出席した夜。
シャンパンのグラスを持つ手が、ふと止まった。
――金森栞菜。
変わらない。
自信に満ちた歩き方。
自分が中心であることを疑わない目。
向こうは、気づいていなかった。
今の麗奈を、
過去の「いじめていた麗奈」だとは。
「はじめまして」
栞菜のほうから近づいてきた。
「すごく綺麗ですね。どちらの方?」
その一言で、確信した。
――復讐は、向こうから入ってくる。
「麗奈です」
名字は言わなかった。
栞菜はすぐに判断した。
上流階級。
美人。
身に着けているものは一流。
友達にする価値がある。
そんな目だった。
「今夜、素敵な演奏があるんです」
栞菜が指差した先で、
ピアノを弾いていたのは愛だった。
「有名なピアニストで、私の友達なんですよ」
誇らしげな声。
「素敵ね」
麗奈は微笑み言葉を続ける。
「あなたも、とても綺麗。彼氏さんも、さぞ自慢でしょう」
栞菜は少しだけ頬を染めた。
「いない、とは言えないかな。もうすぐ手に入るから」
視線が、会場の奥へ向く。
そこにいたのは、宗也だった。
麗奈は、わざと気づかないふりをする。
「狙ってる人?」
「まあね」
麗奈はスマホを取り出す。
仲の良い男性との写真が見えた
「もしかして……光?」
栞菜の目が、わずかに揺れた。
「イケメンで人気モデルだし、お似合い」
「ただの友達よ」
そう言いながら、否定は弱い。
「高校からの付き合いで、今日ピアノ弾いてる愛と、光と、由紀子って子と、ずっと一緒」
懐かしそうに語る。
麗奈は、にっこり笑った。
「今度、食事でもどう?」
栞菜は即答した。
「ぜひ」
⸻
食事の日。
麗奈は、宗也が選んだドレスを纏った。
アクセサリーも、靴も。
完璧だった。
栞菜は内心、歯噛みしていた。
――でも。
宗也を落とせば、全部手に入る。
そう思い直す。
まだ知らない。
目の前の女が、
その男の妻だということを。
その日、
由紀子と光を紹介された。
光は、露骨だった。
麗奈から、目が離れない。
その視線に気づいた瞬間、
栞菜の苛立ちはさらに募った。
由紀子は、違った。
麗奈の手を見た瞬間、
顔色が変わった。
――ほくろ。
忘れられるはずがない。
由紀子は、思い出してしまった。
シカトしたこと。
笑ったこと。
見て見ぬふりをしたこと。
夜、由紀子は呼び止められた。
「気づいてるでしょ」
麗奈は、静かに言った。
「協力して」
「……しないと?」
「あなたが破滅する事になる、それに見たくない?彼らが破滅するところ」
由紀子は、頷いた。
あの頃と同じだった。
逆らえない。
ただ主人が麗奈に変わった
復讐が形になる前。
ラウンジで一人、
グラスを傾けていると、
声をかけられた。
「綺麗になったね」
知らない女。
「杏樹」
それだけ名乗った。
「復讐する?」
そう、静かに聞いてきた。
「私は、幸せです」
麗奈は答えた。
杏樹は、否定しなかった。
「生きてる人の復讐はね」
去り際に言った。
「血は流れないけど、人生は死ぬ」
⸻
愛の転落は、
事故だった。
由紀子が用意した仕事の話。
無理なスケジュール。
疲労。
濡れた階段。
転倒。
手首。
治らない怪我。
誰も、犯罪だとは言わなかった。
未来だけが、失われた。
⸻
光は、壊れるのが早かった。
麗奈に、本気になった。
それでも、栞菜との関係はやすやすとは切れない。
その矛盾が、
誰かのスマホに撮られていた。
栞菜と関係を持つ光。
麗奈に迫る光。
顔は伏せられている。
でも、分かる人には分かる映像。
拡散。
炎上。
光のモデルの仕事は消えた。
⸻
最後に、栞菜だった。
真実を知ったのは、
宗也と並ぶ麗奈を見た時。
「……奥さん?」
声が震えた。
嫉妬が、理性を食い尽くす。
栞菜は動いた。
誘惑。
接触。
――全部、記録された。
既婚者。
友達の夫。
それを狙った女。
情報は、
正義の顔をした第三者から拡散された。
栞菜は、社会的に終わった。
夜、宗也が言った。
「満足できた?」
「いいえ」
麗奈は、正直に答えた。
「ただ返してもらっただけ」
それでいい。
復讐は、
人を救わない。
ただ――
奪われた人生を、
自分の手に戻しただけだ。
⸻
鏡の中の女は、
もう怯えていなかった。
それでも、
胸の奥は、静かに痛む。
生きている限り、
それは消えない。
それが、
生きてる人の復讐の代償だった。




