第67話 たとえ君が、昨日の俺を忘れても
「ずいぶんと久しぶりね、ジーク」
エヴァンはジークを見下ろして言った。
蛇のような目が細くなる。
エヴァンは笑っていた。だが、その蛇の眼は少しも和らいでいなかった。
「……」
「あら。どうしたの?」
ジークは何か言おうとして言葉を止めた。口元が小さく動いたが、声にならなかった。
「え、なんで……こんなに長いこと、森に戻ってなくて、どうして」
それだけ言うと、ジークは眼を伏せ、頭を押さえる仕草をした。
――また、記憶が。混乱しているのか。
レンドルは短剣を鞘に戻した。
「ジーク、知り合いなんだろ。今は再会を喜ぼう。彼女を紹介してほしい」
「あ……うん、そうね」
ジークは目を上げてレンドルを見た。それからエヴァンを見た。
「この人はエヴァン姉さま。ユグ=シルヴァンの評議員で、冒険者」
「こっちはレンドル。一緒に戦ってくれた冒険者」
「ラドウィンが呼んでくれたのか」
「知っているわ。ジークを助けてくれって泣きついてきたのよ」
「よかった、ラドウィンは無事だったのね」
「バルザードたちも、森を探索中よ。もちろん、あなたたちをね」
レンドルはそれで得心した。
「魔物が居なかったのは、みんなが狩っていたからなんだな」
「付近の魔物は片付けたかしら。みんなと合流しましょう」
「ジーク、街道に出て合図灯を」
「うん……」
「どうした?」
「何かぼんやりするの。昨日のことも、なんだか思い出せなくて」
エヴァンがレンドルを見た。
――ラドウィンはどうした。ディネットの話をしていた。
「ジーク。……ディネットのために、君は薬草を探しに来たんだ」
「あっ。薬草を取りにきたんだった」
「この薬草でいいのか」
レンドルは残っていたルリア草を差し出した。
「そう、ルリア草。彼女の傷にはまだ必要だもの。よかった、これで薬が作れる」
「ジークが持っていてくれ。俺が無くしてしまったら大変だ」
「そうね」
「それと、肩の怪我をして頭を少し打ったと、ラドウィンが教えてくれた」
「あ、そうだった。この怪我も、その時の……」
「ディネットが帰りを待っている」
「うん、ありがとう。えっと……」
一瞬だけ、ジークの視線が宙を泳いだ。
「俺はレンドル。名乗ってなかったかもしれない、冒険者なんだ」
レンドルは微笑んだ。宿屋の娘ミーナの言葉は胸の奥にある。こんな時こそ、元気のいい顔をしないといけない。
「あ……レンドル、ありがとう」
名前を確かめるように、小さく繰り返した。
ほんのわずかに、間があった。
「エヴァン、急いで街道に行こう」
「分かった。ラドウィンが泣きついてきた理由も、よく分かった。怪我の治療ね」
「ああ、そうだ」
「エヴァン姉さまは、どうしてここに?」
「ラドウィンに頼まれたの。渓谷を通るかと思って。それに、あなた、また迷子になるでしょう」
「いけない、またディネットに心配をかけちゃう」
「大丈夫よ。私と一緒にシルヴァンに帰りましょう」
「うん! ありがとうエヴァン姉さま」
「私が先頭。ジークは私の横ね。レンドルは後ろを見て」
エヴァンがレンドルを見て口角を上げた。鋭い蛇の眼だが、今は彼女に頼りたかった。古くからジークを知っているエヴァンなら、ジークとの会話も自然なはずだったから。
「分かった、頼む」
「ええ、頼まれたわ」
ただ、その声は柔らかかったが、温度はどこか薄かった。
それでも、通じたのだとレンドルは思った。
そう思わなければ、いけなかった。
エヴァンを先頭に、三人は街道を目指して歩き始めた。足取りは軽いはずなのに、レンドルの脚は何か重いものを引きずっている感覚だった。
「みんな、知り合いなんだよな。エヴァンとは」
「うん、そうよ。小さいときに彼女から剣と魔法を学んだの」
「バルザードにも、昔、私が剣を教えたのよ」
「冗談だろ? ――剣聖だぞ」
「あの人ひどいのよ。私と結婚する約束していたのに、別の人と結婚して子供もできて」
「ば、バルザードが……嘘だろ」
「ふふ。ずっと小さいときの話よ。彼らがずっと小さいときのね」
街道には、蜘蛛の糸で包まれた繭がぽつぽつと見えた。エヴァンが魔物を退治してくれていたおかげだ。
「レンドルは、私に熱い視線を送ってくれるけど、気になる?」
「……蛇と蜘蛛の加護って、炎や水の加護とどう違うのかなって」
「私ね、もともとエルフだったの。でも、星溜まりに触れて、そうこの体になったのよ」
レンドルは足を止めて息を飲んだ。
「亜神……なのか」
「レンドル。エヴァン姉さまは大丈夫なの。この人は、真にエルフを守るものなの」
「その、『真にエルフを守るもの』って」
「……エヴァン姉さまはね――」
ジークが語り始めた。
レンドルは息を呑んだ。
ガイナール帝国の時代に、蛇蜘蛛の魔物が捕らえられたこと。
それが星の民の処刑に使われていたこと。
ガイナールが滅ぶ時、逃げ出した蛇蜘蛛が、星の民の星溜まりに触れて亜神になったこと。
エルフの開拓団の討伐隊によって倒されたこと。
その戦いで瀕死だったエヴァンが、星溜まりに触れたこと。
人の心が強かったため、人側に残ったこと。
最高評議会が討伐命令をバルザードに出したこと。
それを聞いたネオネスが最高評議会に乗り込み、エヴァンを『真にエルフを守るもの』として認めさせたこと。
「――ということがあったの」
「最高評議会の七人を同時に相手して勝った男か」
「え、話したっけ?」
「バルザードが言っていた。詳しいことは聞いてない、けど――ネオネスは賢者だと」
「そうなの。お父さんは本当にすごいの。ね、エヴァン姉さま」
「そうね。私もそう思うわ」
森の木々が、まばらになっていった。
空から差し込む光も、少しずつ増えてきた。
ただ、雨雲が空を覆って、太陽を隠している。
レンドルには、自分の心がそのまま空に映ったように思えてならなかった。
そのうち、名前を忘れられてしまうのかもしれない。
泣きそうな気分のまま歩いた。そうしたら雨が降るような気がした。
そんなことを考えていると、舗装された道が見えてきた。
森の切れ間に街道が現れた。
周囲に人の気配はない。
遠くにうっすらと、ダルトハットの城門が見えた。
レンドルは大きくため息をついた。そして、もう一度気を引き締める。
「ジーク、合図灯を使うよ」
「うん」
受け取って、右脇に挟み、左手に力を籠めた。
「私がやろうか」
「いや、どんなものか自分でやってみたいんだ」
意外と硬い。魔力操作で身体を強化して、それを半分に折ると、しばらくして白い煙が空に舞い上がった。まばゆい光が雲のように広がっていく。
「これは目立つな。こんなものがあるなんて」
「あら、冒険者なのに知らなかったのね」
「冒険者になり立てなんだ」
遠く、ダルトハットの方でも、空高くに光の雲が広がっていった。
「ねえレンドル、ほら。合図に反応した。これで救助隊が来てくれる」
「ここで待っていればいいんだよな」
「そうよ」
「これで、バルザードたちも来るでしょう」
「よかった。でも油断はできないな」
「そうね。警戒は怠らないほうがいいわね」
レンドルは空を見た。青き月も見えない。
だから、銀狼が出てこなかったのだろうか。
あの月が輝いているとき、銀狼の体は再生した。
加護は焼き切ったはずだ。もう再生しないのだろうか。
そうだとしたら、次戦うときは本当の決着だ。そう思った。
「あっちにもルリア草があるわ、採って来るわね」
そう言うとジークは樹のそばに見えたベリーの実の方に向かった。
レンドルは小さな声でエヴァンに向かって呟いた。
「……エヴァン、聞きたいことがあるんだ」
「なにかしら」
「星溜まりに触れた時の記憶……倒した相手――亜神側の記憶も覚えている」
「ダルトハットに戻ったら話してあげてもいいわ。今は、そのほうがいいでしょうから」
エヴァンは、ジークを一度だけ見た。
「バルザードたちから、詳しい話は聞いたわ。アステリオは一度倒れたそうね」
「……そうなんだ。だが、最後の最後に逃してしまった」
レンドルは痛めた右手を握りかけて、すぐに力を抜いた。
「滝壺に落ちたアステリオも、どうなったか分からないみたいね」
その言葉に、レンドルは驚きはしなかった。
薬草を採取しているジークに一度視線を向けた。
「やっぱり……まだ生きている。なら、また襲ってくるはずだ」
そして、レンドルはそれ以上聞かなかった。
ダルトハットに戻ったら、カルドラにジークを見てもらおう。
そして、剣を買わないといけない。
エルフの森に行き、船に乗ってサンガードに戻る。
父さんに会いに、カルドラと同じ、星の民に会うために。
そうだ、ラクアがエルフの森を襲撃する計画をどうにかしないと。
――いや、エルフの森で俺はなにをする気だ。
戦うのか。なんのためにだ。
ルリア草を手にしたジークがもどり、エヴァンと昔話に花を咲かせている。
彼女に任せて良かった。ジークの仲間ももうすぐくる。
父親――ネオネスとの、ちゃんとした再会もできるだろう。
遠くから、蹄の音が近づいてくる。
レンドルは、剣のない腰に手を当て、銀の髪に目を移す。
もっと早く来てほしい、そう思ってしまった自分が、なんだか小さく思えた。




