第66話 腐毒の蛇蛛エヴァン
気が付くと、ジークがいなかった。
体を起こし、地面に差していたナイフを掴む。
そうだ、上着を着ておかないと。
消えた焚き火の横に、ルリア草が置いてあった。ベリーも、小さく積まれていた。
ジークが採ってきてくれたんだろう。
ベリーをいくつか取って、口に入れる。
甘酸っぱさが、広がった。
日が昇っている。昼にはまだ入っていない。
身体を伸ばす。右腕は、握ったり触れると痛い。腫れは少し引いているようだった。
ルリア草、すごいな。何枚か持っていこう。
脱ぎ捨てた防具を取りに、川の方に行ってみると、ジークが抱えて歩いてくるところだった。
声には出さず、左手を振る。
ジークも気づいた。
「ジーク、おはよう。装備を取りに行ってくれてたんだ」
「うん、あとお水も」
「川の水?」
「この茎、中に水が溜まるの。そのまま飲んで」
受け取って、口をつける。
体に染み渡った。
「あ、全部飲んじゃった」
「大丈夫、いろんなところにあるから」
彼女は、口に指をあてて、くすくすと笑った。
「樹洞に戻って、街道に行く準備をしようか」
「うん」
樹洞の方に向かって歩く。
ジークが後ろにいる。
並んで歩くのは、なんとなく恥ずかしかった。
何か言ったほうがいいのか。
大丈夫か、くらいは言ったほうがいいのか。
樹洞が見えてきた。
「大丈夫? くらいは、言ったほうがいいんじゃないかなー」
レンドルは足を止めた。
ジークに向き直る。
「だ、大丈夫かい?」
「はい、大丈夫です。わたしもあなたも。一応ルリア草を塗ってから出発ね」
ジークが速足で横を通り過ぎた。
心臓が止まるかと思った。
「水を吸ってて、ちょっと重いな」
「全部は使わず、胸当てだけにする?」
「そうしよう。あと脛当てと籠手と肩は使おう。短剣しかないから、身軽に動けたほうがいいな。蹴ったり体当たりも想定して」
「滝のところまで戻るなら、重いと体力が心配ね」
「そうだな……街道まで、どれくらいだと思う」
「順調にいっても、半日はかかると思うわ」
「合図灯は使えるかな、暗いし」
「これだけ暗ければ使えると思う」
ジークが空を見上げる。
「日は隠れてるけど、あそこ、雲が明るいところが太陽でしょ。さっき青き月が少し見えたから……ダルトハットは、この川よりちょっと左のほうね」
「そんなことも分かるんだ。そっちにラドウィンの言っていた一本道があるってことだな」
「おそらくね。この川を渡るのは深そうだし、やっぱり滝上まで行って橋を渡りましょう」
「川を凍らせたら渡れないかな」
「出来ると思うけど、雨が降ったあとで流れも速かったの。もし落ちたら、って思うと」
「……そうだな」
「それに魔物のことを考えると、魔力は残しておきたいし」
「そういえば、魔物が襲ってこなかった。運が良かったのか……」
「雨で匂いが分からなかったんだと思う。焚き火に使った枯れ木も、匂いや煙の出ないやつなの」
「そうだったのか。森に詳しくないとできないな、助かったよ」
「ううん、わたしこそ。……助けてくれて、ありがとう」
最後の方は小さくて聞き取れなかったけど、多分そう言っていた。
「じゃあ、防具はこれで」
「うん、金具止めるね」
装備を整え、ルリア草を塗り直したあと、森の中へ進んだ。
ジークを先頭に、レンドルは後方を警戒することにした。
森の中を進み慣れているジークが、わたしがやるわね、と。
後ろを警戒する。そして銀髪を見る。だめだ、後ろなんて警戒できないぞ……。
「ジーク、横を歩いていいか」
「いいけど、どうして?」
「……えっと」
「髪の毛、見てた?」
なんでこんなに鋭いんだ。
……夜に言ったから、だ。
「いざというとき、すぐ前に出られないだろ」
「そうね、お願いね騎士様」
「左側を歩くよ、右手が使えないから」
「わかった。あと、見てもいいからね」
彼女は、口に指をあてて、くすくすと笑った。
「あははは……はぁ」
途中、「旅人の木」の茎を切って、水を飲み、ベリーを口にした。
「美味い、さっきのより甘い」
そう言うとジークが教えてくれた。
「それは木苺のほうね、さっき見つけたの。ダルトハットだと果実酒が有名ね」
「サンガードだとあまり見ないな。エールとワインかな」
「ワインあるんだ。ふふ、今度ファルダの面白い話、聞かせてあげるね」
「ファルダの? なんかあったの」
「うん。すごくいいお話なの。ワインはサンガードで作ってるの?」
「いや、北大陸のアステ・ガルズから仕入れてる。あっちはポーションとか、薬関係も豊富なんだ」
「そっか、港で壊れたポーション、あれもアステ・ガルズからの輸入品ね」
「……あー、そうだったと思う。あの船には知り合いが乗ってて、北大陸の航路をよく使ってるんだ」
――ジークは今、自分の記憶をしっかりと持っている。
早く、カルドラに見てもらおう。
「ねぇ、滝の音が近くなってきたね」
「もうすぐだ。……銀狼と大蜥蜴のこともあるから、慎重に行こう」
「うん」
滝壺はあえて迂回した。見てみたい気持ちもあったが、それは今じゃなくていい。
急な坂道を下り、岩を伝い、崩れた崖を遠くに見ながら進む。
――魔物一匹見ないな、静かすぎる。
「この闇の森って、魔物が少ないどころか、鳥の声もしない。動物の気配もないな」
「亜神たちが暴れていたし身を潜めているとか。動物も雨が降った後だと、あまり動きが少ないかな」
「……そういうことか」
妙に納得感があったけれど、それだけじゃない気がしてならなかった。
ラドウィンの言っていた方角に向かうと、橋があった。
吊り橋だ。そこそこ高い渓谷にかかっていた。
「ここ知ってる。街道の道も分かるし、三十分もかからないわ」
「よかった……橋はぼろいけど」
「結構頑丈に出来てるわ。レンドル、結構こわがりなのね」
ジークがそういって笑った。
「高いところはそんなに好きじゃないんだ」
「それじゃ手を繋いで渡ってあげる」
「あー、うん、そうしてもらおうかな」
最初は迷った。けど、悪くない。
ジークの手は細かった。でも、剣を使う人の手だった。
彼女はれっきとした魔法戦士だ。凄腕の。サンガードの魔法使いも相当の手練れだと聞いたけど、一緒に戦った彼女はきっとそれ以上に思えた。
百年って言ってたけど、今、何歳なんだろう。
橋を渡りながらそう考えていると、ジークが引く手が強くなった。
レンドルは警戒した。
「レンドル、橋の奥に何かいる」
ジークが走り出した。自然と手が離れた。
レンドルもそれに合わせて走る。
橋を渡り切ると、そこには双頭猿たちが樹の上からぶら下がっていた。蜘蛛の巣のような糸が、あたり一面に張り巡らされている。
「……蜘蛛の巣だ」
レンドルは、これ以上進むのは危険だと考えた。自分たちも捕らわれてしまう。そんな想像をしてしまった。
それに、この森に入ったとき、聞いた名前を思い出した。
「腐毒の蛇蛛エヴァン、こいつなのか」
「知ってたの? すごく人間ぽくて、すごく強い。蛇と蜘蛛の加護を持ってる」
「……加護持ち」
「それに、女性の冒険者。バルザードと同じくらい強い」
ジークと視線が合う。彼女は笑っている。
「え、なんで笑ってるの? 女性の冒険者って、どういうこと」
「ねえ、あなたたち」
レンドルは短剣を抜いて、樹の上に向けた。
「上か!」
「聴こえているなら、返事をしなさいよ」
蜘蛛の糸を伝い、静かに下りてくる。
「あら、そんな小さな短剣を抜いて、可愛いのね」
背中がゾワゾワする。危険だ。今、戦える状況じゃない。
羽根突き帽子に、コルセット・アーマー、ロングブーツ。
冒険者風のいでたちだが、随分目立った格好だ。
――だが、こいつは人族でもエルフでもない。蛇のような目が、獲物を捉えている。
「ジーク、こいつはやばい、逃げたほうがいい。魔物たちがいなかったのは――こいつのせいだ」
地面に軽やかに降り立ったエヴァンは、艶やかに指を向けて言った。
「あなた、バルザードと一緒にいたわよね」
「……なんだと?」
「ダルトハットの宿屋――『錆びた盾と子羊亭』にいたでしょう」
「それをどこで」
「来てくれたのね、エヴァン姉さま。ありがとう」
「なんだって!?」
ジークは跳ねるように小走りで、エヴァンに向かっていった。




