カンナエの戦いの再現⑤
アリティア自軍の本陣――
天幕の隙間から戦況を見つめるナナミ。
その表情は、勝利を目前にしているとは思えぬほどに複雑だった。
盤上の駒が、寸分の狂いもなく計算通りに敵を追い詰めていく。
戦局は、もはや決した。
(……たしかにこれで、生き延びられる……だけど……)
安堵とは別に胸の奥が鋭く痛んだ。
眼下で繰り広げられるのは、一方的な蹂躙。
敵兵たちの絶望と阿鼻叫喚が、風に乗ってここまで届いてくるかのようだ。
(これを招いたのは、わたしだ……)
どれほど正当な理由を並べようと、この惨状を作り出したのは自分自身。
その事実は、九歳の子供の心にはあまりにも重くのしかかる。
(だから、せめて――。お願いだから、早く、無事に逃げてくれ……)
ナナミは、自分が仕掛けた罠にかかった敵兵たちのために、ただ静かに祈っていた。
§§§
一方、帝国軍本陣では――
クラウス元帥が次々と舞い込む凶報。
それは怒りを通り越し、恐怖に顔を引きつらせていた。
「右翼より後退した部隊、壊滅!」
「左翼、敵騎兵の突撃を受け、持ちこたえられません!」
「中央主力、完全に包囲されつつあります!」
「陛下! これ以上はもちません! 即刻、撤退のご決断を!」
ガクヒが悲痛な声で進言する。
だが、クラウスは虚ろな目で首を横に振った。
「いや……まだだ。まだ負けておらぬ。最後の一兵まで戦え! これは聖戦なのだ! 我が帝国が負けることなど、あってはならぬのだ!」
もはや彼の精神は、目の前の現実を拒絶していた。
「いい加減になさいませ、陛下!」
ついにガクヒの堪忍袋の緒が切れた。
「兵は、あなた様の玩具ではございません! すでに兵たちの士気は尽き、戦う意思も失せております! それとも、陛下ご自身、ここで犬死になさるおつもりか! あるいは、敵の捕虜となり屈辱にまみれるか! お選びください!」
ガクヒの怒声に、クラウスはびくりと肩を震わせた。
そして、まるで憑き物が落ちたかのように、生気を失った顔で力なく呟いた。
「いや、我はわたしは……わかった。おまえの好きに……すればいい」
もはやクラウスの目は生気が失せていた。
そのまま、後の処置を力なく、ガクヒに委ねたのだった。
§§§
許可を得たガクヒは、即座に全軍へ撤退命令を下した。
「我が隊が殿を務める! 混乱するな、後列より順次退却せよ!」
彼の指揮下、帝国軍は驚くほどの統制を取り戻す。
整然と後方へと下がり始める。
部隊長たちは兵士たちを鼓舞する。
「案ずるな! きっと故郷へ帰れる! 俺たちに任せておけ!」
その表情と力強い言葉に絶望に沈んでいた兵たちの目に、わずかながら生への希望が灯った。
ガクヒは、アリティア軍からの追撃を警戒していた。
ナナミが開けた逃げ道は、あまりにも不自然。
そこに伏兵がいる可能性も捨てきれなかった。
だが、その様子はない。
(……追撃の意思はない、か。見事な用兵だ)
敵将の器の大きさに内心で舌を巻く。
だが、ガクヒは警戒を解かぬまま、最後の兵が撤退するまでその場に留まり続けた。
§§§
敵の撤退を見て、アリティア軍の一部の部隊が功にはやり追撃を開始しようとした。
「追撃せよ! 敵将の首を取る好機だ!」
勝利に沸く部隊はその勢いのまま追撃を開始した。
それを、本陣でナナミは報告を受ける。
「なっ! 今すぐ止めてくださいっ! 倍の兵力を撃退したっ! これ以上血を流す必要などないでしょうっ!」
ナナミは止めようとした。
だが、すでに遅かった。
功を焦り、突出した部隊。
残兵に追いつき攻撃しようとした瞬間――
殿を務めるガクヒの精鋭部隊による痛烈な逆撃をくらう。
しばらくすると逆激をくらった兵たちは命からがら逃げ帰ってきた。
ナナミは、その無様な姿を冷たい軽蔑の眼差しで見つめていた。
やがて、帝国軍の姿が完全に平原から消え去る。
すると、アリティア軍の陣地から、堰を切ったような歓声が上がった。
「「「うおおおおおっ! 勝ったぞ!」」」
「「「「帝国軍を退けたぞ!」」」
誰もが敗北を覚悟していた戦い。
その奇跡的な勝利。
そのことに兵士たちは狂喜乱舞し、互いの健闘を称え合った。
だが、その熱狂の輪から、一人離れるナナミ。
そのまま、血と焼き焦げた匂いが満ちる戦場を見つめていた。
その表情は、勝利の輝きとは無縁の、深い憂いを帯びて沈んでいる。
そこに、ハスターが血に濡れた馬を寄せ、静かに声をかけた。
「……見事な采配でしたな、ナナミ殿」
ナナミはゆっくりと振り向いた。
そこにあったのは返り血で染まったハスターの姿。
それは、この戦いの激しさを物語っている。
ナナミは労いの言葉をかけようとした。
だが、眼前に広がる死屍累々の惨状。
そんな光景を前に、どんな言葉も無意味で、薄っぺらく感じられていた。
「……ハスターさん。わたしは……間違っていたのでしょうか」
か細く、震える声だった。
「この国のみんなを守るため……いいえ、自分が平穏に暮らしたいがために、これほどの犠牲を生んでしまいました……」
「そうですな。戦というものは、それ自体がどこか間違っているのかもしれませぬ」
ハスターは静かに肯定した。
その言葉に、ナナミの瞳が絶望に揺れる。
「……ですが」
ハスターは続ける。
「ここで戦わなければ、我らはもっと大きな間違いを犯していた。――そうは思いませぬか?」
ハスターは、歓喜に沸く兵士たちを顎で示した。
「ご覧なさい。あの者たちの顔を。戦の前、彼らの目に光はありましたか? 帝国に蹂躙される未来に絶望し、ただ諦めていただけの民でした。ですが、今はどうです? あの歓喜と誇りに満ちた顔は、紛れもなく、あなたが与えたものなのですよ」
「………」
「もし、この勝利が間違いだと思うのであれば、これから先、それを上回るほどの幸せをこの国にもたらせばよい。でなければ……ここで散っていった者たちが、あまりにも浮かばれませんぞ」
「……ハスターさん……」
ぐしっと、ナナミは服の袖で乱暴に涙を拭った。
「ぐすっ……そうですね。そうします。ですが、今は……今はただ、勇敢に戦ってくれた者たちの冥福を祈らせてください。わたしは、この光景を決して忘れません」
「……ふっ。ナナミ殿は、あまりにお優しすぎる」
ハスターはそう言って、どこか慈しむように、そして少しだけ寂しそうに微笑んだ。
――戦乱は一つの終わりを告げた。
だが、ナナミの胸には、勝利の栄光ではなかった。
ナナミの胸には消えることのない痛みが深く刻まれた。
その痛みを道標に、彼は真の平穏を築くため。
戦場とは、また違う、新たな戦いを始めることを静かに誓うのだった。




