カンナエの戦いの再現④
「なんなんだ、あれはっ! 我ら誇り高き帝国騎兵が、あのような農民上がりの兵に押し返されるなど……!」
悪態をつきながら、帝国軍左翼の騎兵隊長。
その顔は屈辱に唇を噛み、踵を返した。
後方には、まだ二千の予備騎兵と弓・魔術部隊がいる。
そこで態勢を立て直し、反撃に転じればまだ勝機は――
「ふぅ……ここまでくれば、もう安全だ」
本陣へと続く友軍の姿を視界に捉える。
隊長は安堵の息をついた。
周囲の兵士たちも、死地を脱した安堵からか、強張っていた顔をわずかに緩ませる。
だが――それはつかの間の安堵だった。
次の瞬間、凍り付くような絶望へと変わった。
彼らが「安全地帯」だと思っていたはずの後方陣地。
そこは、すでに地獄絵図と化していたのだ。
弓兵や魔術部隊は混乱の極みにあって散り散りに。
頼みの綱であったはずの予備騎兵隊。
それも、黒い影の集団によって一方的に蹂躙され、寸断されていた。
「なっ……!?」
隊長はその光景に言葉を失い、呆然と立ち尽くす。
「くそっ! なんなのだ、これは! 話が違うではないか! いったいどこの部隊だ……!」
その視線の先で翻る旗印。
そこに描かれていたのは、一度見たら忘れられぬ、血塗られた蝙蝠の紋章。
「……あれが、噂に聞くアリティアの『蝙蝠部隊』……! 奴らがここにいるということは、右翼はすでに……」
――ザッ。
思考が追いつくよりも早く、背後から静かな声がかけられた。
「その見事な兜の羽飾り。さぞ、名のある御仁とお見受けする――このハスターと剣を交える気概は、お持ちかな?」
振り向くと、そこに一人の男が立っていた。
返り血を浴びた姿で。
口元には獲物を前にした捕食者のような。
そんな不敵な笑みを浮かべていた。
その圧倒的な存在感を前に帝国騎兵の隊長。
ただ息を呑みながら話しかける。
「ま、待て! そなたらは元をただせば、我らと同じ帝国の民ではないか!」
必死の形相で隊長が叫ぶ。
その声はわずかに震えていた。
「……ほう。たしかに、左様ですな」
ハスターは肩をすくめ、わざとらしく頷いてみせた。
その反応に、隊長は一縷の望みを見出した。
「な、ならば話は早い! 再び我らに従う気はないか? 我が陛下に取りなしてやろう。爵位も、金も、極上の女もくれてやる! ど、どうだ!?」
「……それは、また随分と魅力的なご提案ですな。我らをゴミのように切り捨てた帝国のお言葉とは思えませぬが」
ハスターは薄笑いを浮かべた。
そして、ゆっくりと隊長に歩み寄る。
その目は、獲物の出方を窺う蛇のように冷たかった。
(……馬鹿めが。こんな見え透いた口車に乗ると思ったか)
隊長は内心でせせら笑った。
(そうだ、もっと近づけ。油断したところを、この手で確実に仕留めてくれるわ)
「どうだ、悪い話ではあるまい。我らと手を組めば――」
隊長が手を差し伸べ、懐柔の言葉を続けようとした、
その瞬間――
「ところで……」
ハスターの声が、氷のように鋭く空気を切り裂いた。
「――その腰にぶら下げているクロスボウに指をかけているのは、どういった了見ですかな?」
「なっ……!?」
隊長の顔から血の気が引いた。
完全に意表を突かれたのだ。
「そ、それは……」
言葉に詰まり、思考が停止する。
もはやこれまでと覚悟を決めた隊長は、隠していたクロスボウを抜き放ちながら絶叫した。
「馬鹿め、死ねぇっ!」
だが、引き金を引くよりも早く、閃光が走った。
――ザシュッ。
乾いた音と共に、隊長の腕が宙を舞う。クロスボウが虚しく地面に転がった。
「ぐ、あああああっ……!」
噴き出す血を押さえた。
だが、隊長はその場に崩れ落ちる。
ハスターは、その無様な姿を冷ややかに見下ろした。
「……さすがは誇り高き帝国の兵士殿だ。まったく、信用がおけませんな。ふふふ」
その嘲笑に、隊長は意識を失った。
「隊長、ご無事ですか!」
副官のケーヘンヒラーが駆け寄る。
「ああ、問題ない。こちらももう大丈夫だろう」
ハスターは刃の血糊を振り払う。
そのあとゆっくりと遠くで続く歩兵戦へと視線を向けた。
「では、俺たちは右翼へ戻り、最後の仕上げに取り掛かるとしよう」
ハスターのその言葉を合図に、『蝙蝠部隊』は再び黒い潮流となって、主戦場へとその牙を剥いた。
§§§
帝国軍陣屋にて――
「なんだ、あれはっ! 左翼は何をやっている!?」
本陣の天幕からその光景を見ていたクラウス元帥。
信じられないといった表情で顔を紅潮させた。
右翼に続き、左翼までもが崩壊していく。
「つくづく使えぬ者ばかりだっ! 我が名誉に泥を塗りおって!」
激昂するクラウスに対し、副官ガクヒは冷静に進言する。
「陛下、もはや両翼は機能しておりません。これ以上の損害を避けるためにも、全軍に撤退の指示を」
「黙れっ!」
クラウスはガクヒの言葉を遮った。
「まだ負けておらぬわ! 中央にはまだ我が主力たる歩兵部隊がいる! 数ではいまだ我らが上だ!」
――ガシャァァン!
クラウスは怒りが収まらないのか、手に持ったグラスを地面に叩きつけた。
§§§
両翼の騎兵戦がほぼ決着した頃――
両軍の中央、主力たる歩兵同士の激突が始まっていた。
数の上で勝る帝国軍。
そのまま、アリティア軍の中央を押し込み始める。
アリティア軍の陣形は中央を頂点とした鋭い逆V字の形。
その先端がじりじりと後退していく。
「見ろ、ガクヒ! 我が軍が押しているではないか! あのまま中央を分断し、逆に包囲してやればよいのだ! わははは!」
クラウスは戦況が有利に転じたと思えた。
そのことに、高笑いを上げた。
だが、百戦錬磨のガクヒの目には、不自然に映っていた。
「……罠、ですな」
ガクヒは静かに呟いた。
「陛下、今すぐ全軍撤退の御命令を。敵中央の動きが、あまりにも意図的すぎます。あれは、我らを誘い込んでいるのです。このままでは……」
「うるさいっ! 臆したか、ガクヒ! 貴様はただ見ておればよい!」
勝利を確信したクラウスはガクヒの言葉に耳を貸そうとはしない。
むしろ、否定的な意見ばかりを突きつけてくることに苛立っていた。
(もはや、これまでか……)
ガクヒは、主君の愚かさに絶望しつつあった。
だが、忠臣としての最後の務めを果たそうと決意する。
彼は密かに自身の部隊の伝令を呼ぶ。
そのまま、誰にも聞こえぬよう、小さな声で命令を下した。
「……我が隊は、これより密かに後方へ移動。全軍の退路を確保せよ。これは、陛下のためではない。一人でも多くの兵を、生きて祖国へ帰すためだ」
ガクヒの予感は的中した。
帝国軍の中央歩兵が十分に深くまで誘い込まれた。
その瞬間、それまで後退していたアリティア軍。
そのの逆V字の陣形が、恐るべき変貌を遂げる。
後退していた先端が踏みとどまる。
逆に両翼が獲物を抱き込むように前進を開始。
その瞬間、逆V字は敵を飲み込む鋭角なV字へと反転した。
それと同時に、戦場を駆け巡っていたハスターの『蝙蝠部隊』。
それは帝国軍右翼の側面へ。
左翼で再編を終えたアリティア軍の重装歩兵と騎兵。
それが、帝国軍左翼の側面へと突撃を開始する。
帝国軍の中央主力は、三方から完全に包囲された。
ナナミが意図的に開けておいた後方の一点。
そこだけが唯一の逃げ道として残されている。
だが、そこに殺到すればどうなるか。
もはや、戦いの趨勢は誰の目にも明らかであった。




