カンナエの戦いの再現③
平原の右翼で巻き起こった凄まじい土煙と轟音。
それはアリティア軍左翼に布陣する帝国軍部隊の焦りを誘うには、十分すぎるほどの光景だった。
「右翼の騎兵隊が…もう交戦しているのか!?」
「我々も遅れるわけにはいかん! 好機を逃すな!」
指揮官は眼前に展開するアリティア軍の布陣を値踏みする。
じっくり観察し、思わず舌なめずりをした。
(騎兵は千にも満たず、その後ろには少数の弓兵と農民兵…笑わせる)
(こちらには精鋭の騎兵が四千。この戦、もらったも同然だ)
それを見てとった帝国軍左翼の指揮官。
有無を言わさず騎兵の突撃の号令を上げた。
「好機だ! 騎兵隊、前へ! あの貧弱な騎兵どもを蹴散らし、一気に敵本陣の側面を突くぞ!」
号令一下、四千の帝国騎兵が鬨の声を上げる。
それは、大地を揺るがす津波となってアリティア軍左翼へと殺到した。
誰もが短期決戦での圧勝を信じて疑わなかった。
だが、それは脆くも打ち崩される。
彼らが見ていたのは寡兵のアリティア騎兵だけではなかったからだ。
突撃の先頭がアリティア騎兵との衝突距離まであとわずか。
その瞬間、それまで騎兵の影に隠れていた部隊が姿を現す。
密集方陣を組んだ千の重装歩兵。
その槍衾は、まるで鋼鉄のハリネズミのように陽光を反射し、帝国騎兵たちの目を焼いた。
「重装歩兵だと!? なぜここに!」
さらに帝国兵たちを驚愕させる。
なぜなら、その歩兵たちの背後に並ぶ異様な光景だったからだ。
車輪のついた無数の木製の台座。
その上には、屈強なスリンガー(投石兵)たち。
それが陣取り、頭上で投石索を不気味に唸らせている。
それはまるで、移動可能な簡易の城壁だった。
「なんだ、あれは……!?」
ここに来て騎兵の部隊長は驚愕する。
騎兵はわずか千。
対するこちらは四千。
背後に控える弓兵や農民上がりの兵士など、物の数ではない――
そう考えていたからだ。
だが、それこそがナナミの仕掛けた罠であった。
農民兵と思われた者たち――
実際には、彼が短期間で育成した五百のスリンガー部隊である。
それは魔術部隊も弓兵も右翼に投入したための代替案だった。
しかし、スリンガーもそれに引けを取らない。
むしろ、それ以上の威力を持っているかもしれない。
左翼の防御を補うには十分だと判断した配置だった。
石を『当てる』技は弓に劣らぬ年月を貪る。
だが、ただ『飛ばす』技に絞る。
それならば、日数や週で即戦力に変え得る――それがスリングの強みだ。
しかも石と投石索さえあれば即座に戦力化できる。
そんな彼らを短期間で数を揃えられる。
しかも、威力も弓に劣らぬ実戦的な兵科として編成されていた。
その昔、かのローマやカルタゴでさえスリンガーを恐れ、驚異としたほどの兵科――
さらに彼らは、ナナミの提案による車輪付きの移動式台座。
斜めに持ち上げれば車輪が地面と設置する。
いわば、旅行かばんを斜めにして持ち歩く感覚に近い。
これも、ナナミの発案だった。
常識的な軍略家ならば決して思いつかない。
あまりにも柔軟で、あまりにも異質な発想。
それこそが、神童ナナミの恐ろしさであった。
高さ・幅ともに70cmほどの正方形の台座。
そこに陣取り、通常の投石兵以上の射角と射程を得ていた。
アリティア軍左翼の布陣はこうだ。
最前線に千の重装歩兵が鋼鉄の壁を築く。
その背後から五百のスリンガーと百の弓兵が投射の雨を降らせる。
そして千の騎兵は、敵の回り込みを防ぐ機動防御の役割を担っていた。
正面を歩兵で固める。
上空から一方的に攻撃し、側面を騎兵で守る――
それは、圧倒的な数的不利を覆す、知略に満ちた陣形であった。
正面からの突撃は無謀。
そう瞬時に判断した帝国軍の指揮官は、すぐさま部隊に指示を飛ばす。
「迂回しろ! 側面へ回り込み、あの投石兵どもから叩き潰せ!」
騎兵隊は大きく弧を描くように進路を変えた。
そのまま、アリティア軍の側面へと回り込もうとする。
だが、それこそがナナミが仕掛けた罠だった。
側面へ回り込もうと隊列を伸ばした帝国騎兵。
その無防備な腹を完全にアリティア軍の射線に晒すことになった。
「放てっ!」
まず動いたのは、側面に配置されていたアリティア軍の弓兵たち。
数は寡兵で100にも満たない。
だが、正確に狙いを定められた矢の雨が、帝国騎兵の側面へと突き刺さる。
「ぐあっ!」
「側面から攻撃だ!」
混乱が広がる。
それに呼応するかのように、台座の上からスリンガー部隊の投石が一斉に放たれた。
――ヒュンッ、ヒュンッ!
空気を切り裂く音と共に、鉛玉や石弾が凄まじい威力で帝国騎兵の頭上へと降り注ぐ。
それは、ただの石ではない。
回転を加えられ、初速を増した死の礫だ。
兜を砕き、盾をへし折り、馬の脚を的確に破壊していく。
側面からの攻撃に隊列は寸断された。
そのまま騎兵たちは次々と落馬していく。
もはや前進もままならず、ただ一方的に消耗していくだけの地獄。
「退け! 退却だ! 一旦退いて態勢を立て直せ!」
指揮官の悲鳴に近い命令が響き渡る。
それを合図に、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う帝国騎兵。
その背中に、なおもアリティア軍からの無慈悲な矢と石の雨が降り注ぐ。
これ以上、ここで貴重な騎兵を失うわけにはいかない。
指揮官は屈辱に顔を歪ませながらも、撤退を命じたのだった。
しかし、撤退したとしても、新たな地獄がそこには存在していた……




