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4-9 <虫>の中

 濁流のように押し寄せる〈虫〉に、なすすべもなく全身が飲み込まれた。

 大量の水の中に飛び込んだような感覚だった。

 息をしたいのに、できない。なのに、苦しくはなかった。

 むしろ心地よさすら覚えるほど。


 抵抗するつもりもなく、ただゆっくりと落ちていく感覚に身を委ねた。

 

 目を閉じてしまっているせいで何も見えない。

 何も聞こえない。

 まるでなくなってしまったかのように。

 俺はこのまま消えてしまうのか。


 そう思った瞬間に、苦しくなった。

 駄目だ。まだ消えるわけにはいかない! 諦めてしまったら全部が消える!

 閉ざされた目をこじ開ける。


 目を開けると暗闇だが透明な何かがうごめているのが見えた。

 波打つように俺へと向かってくるそれを振り払おうと右手を伸ばした瞬間――うごめていたそれらが腕から下を一瞬で取り囲む。

 あまりの熱さに反射的に目を閉じた。


 一拍遅れてやってきた鋭い痛みにたまらず呻き声をあげた。

 持っていた剣が手の中から滑り落ちていく。

 痛みはまるで何もなかったかのように止んで、静寂が戻った。

 

 ――ここ、までなのか。

 自問とも諦観ともわからないその言葉を胸中で思いうかべた瞬間、背中が底に触れたような感覚が伝わった。

 

「……あの……」


 目を開けることさえ叶わないまま、せめてもの成功で地面と思われる場所で必死に身をよじった。

 体が思うように動かない。


 受け入れられない、そう思っているのに、どこか死が訪れるのを待っていることを自覚してしまった。

 目を開けて動かなければ、いずれそうなる――。



「あの! すみません!」


 どれぐらい時間が経ったのか、いきなり耳元で響いた声に驚いて目を開けた。

 動かないと思っていた瞼が簡単に動いたことに更に驚き声の主を探す。

 俺の顔を覗き込んでいるのは、まだあどけない顔をした少女だった。

 無造作におろしている、小麦の穂の色のような長い髪と、同じ色の目が印象的な娘。

 どこかで見たことがあるような気がするが、思考と記憶が上手く結びつかず答えはでない。


 目を動かせたり、考えることができたりするということは、俺はまだ生きている。

 俺という形が残っている、そういうことだ。

 

「……えっと、生きてます、よね?」


 困惑したような表情でそんなことを尋ねる少女を再び見やった。

 <虫>に飲み込まれたはずなのに、俺はなぜ人の形を保っているのだろうか。

 この少女も、俺と同じように<虫>に飲みこまれたのか?

 声を発することのない俺を不審に思ったのか、眉をひそめた。

 気遣わし気な表情の中にある澄んだ目が真っ直ぐにこちらを向いている。


「あ、あの、覚えてます? おにーさん上から落ちて来たんですけど」

「……ああ」


 落ちて来た感覚はあった。素直に頷くと、少女の表情に安堵が満ちた。

 少女を一瞥し、彼女が示す頭上へと視線を移すと、青空の中に両手を広げたぐらいの大きさの黒い穴が開いているのが見えた。

 あそこから落ちて来たのか?

 

「で、あの剣が」


 少女が指さす方を見るため上半身を起こす。

 俺の剣が地面に突き刺さっていた。抜き身の状態で手にしていたせいか鞘はない。


「ここに群がっていた<虫>を消し去ったんです!」

「<虫>……?」


 辺りは見渡す限り何もない平原という感じだ。<虫>に飲まれたはずなのに、群がっていたのなら<虫>に関係がある場所ではあるはず。

 

「私、<虫>のせいで身動き取れなくなってたんですけど、そのおかげ動けるようになったんです。ありがとうございます!」


 少女はそう言って頭を下げ、すぐに顔を上げると笑顔を見せた。

 どんな表情をしていても、どこか晴れ晴れとした顔つきに見えるのは真っ直ぐな目だからか。明るい光をたえた目は生命力に満ちていて見ているだけで元気になれそうな気さえした。


「それでですね、私も何か気づけばここにいて全然何が何だかわかってないんです。でもあの道が」


 剣の後ろ側にはまっすぐに伸びる道がある。

 少女はその道を指さしたまま続けた。


「外に続いてるんじゃないかな~って」

「外……?」

「多分、<虫>の中なんですよね、ここって」

「<虫>の、中……」


 飲み込まれたのだから、そうだ、多分その推察であっている。

 外は、<虫>の外側で、俺はそこに戻らなければならない……?


 ぼんやりとそんなことを反芻してから、はっと我に返った。

 外、すぐにでも脱出しなければ、<虫>を消滅させて、それで――全部を元に戻す! それが俺の成すべきことだ。

 それに、飲み込まれる前に耳に届いた、か細い声が耳に残っている。あの場に取り残されてしまっているのだろうか。<虫>を相手に一人で。

 

「私一人じゃ<虫>に太刀打ちできないので、もしご迷惑でなければ、ご一緒してもいいですか?」


 少女の言葉に再び我に返った。

 焦っても仕方ないことはわかる。ここにいても何もできない。

 だから何とでもここから抜け出すのが最善の道だ。


「外に出られるのか?」

「確証はないです。でもいつまでもここにいるわけにもいかないですし、行く場所があるんだったら行ってみないと」

「わかった。行こう」


 いくら急いでいても少女を見捨てるわけにもいかない。

 即決する俺に、少女は驚いたように目を見開いた。


「え、……あ、はい! <虫>が戻ってくるかもなので、すぐに行きましょう!」


 そう言いいながらも、少女は下ろしていた髪をどこからか取り出した紐で括って立ち上がった。

 やはり見たことがあるような気がするが、やはり誰なのか――


「私、セフィって言います!」

「は?」


 少女が口にした名は思いがけないもので、思わず間抜けにも聞き返してしまった。

 同じ名前を持つ少女は、こんなにも生き生きした表情をしていない――はずなのに。

 

「よろしくお願いします!」


 見覚えがあるのは、髪と目が同じ色だから――だけじゃない。

 よくよく見れば、外にいるぼんやりとした印象の少女と同じ顔だ。

 表情と髪型が違うだけで、こんなにも違うのか!

 ――この子は、まさか――?


「……そういえば、腕、<虫>にやられたんですか」

「……?」


 『セフィ』の視線を辿れば俺の右手の方へと向かっている。

 先程酷い痛みを感じた場所だ。見れば肘から指先まで切断したようになくなっている。

 やはりあれは<虫>に食われたのか。

 痛みを思い出してしまい、顔が引きつった。それを誤魔化すために大きく息を吐いてから頷いた。


「腕だけで済んでよかった――っていう言い方は悪いかもですよね」

「はあ?」

 

 明るい口調であんまりにもあんまりな内容を言ってくるので、思わず聞き返してしまう。

 腕だけでよかった、と言われれば、確かに全部食い尽くされるよりはマシなのか。

 いや、だが利き手だから――。


「私、実体がないんです。見てください」

「え?」


 えへへと軽い調子で笑い、俺の目の前にかざしてくる彼女の手を見れば、向こう側が透けて見えている。

 まるで幽霊のみたいな姿に驚きを隠せず『セフィ』を凝視すると、なぜか少しだけ恥ずかしそうに首を横に振った。

 しかし、明るく笑いながら言うような内容ではない。


「なんか<虫>に飲み込まれた時に色々あって、身体と切り離されたっぽいんですよね。多分」

「切り、離された?」

「はい、だから外に出て身体を探して元に戻らないと。多分外で抜け殻みたいになってるんじゃないかなって思うんで」


 やっぱり、この少女はセフィなのか。

 <虫>に食われたと言っていた、セフィのもう半分。

 虚ろな目をした娘の欠けた魂がこんなわけのわからない空間に存在していたってことなのか。

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