3-32 逃避と奇跡
ケインを診察台から簡易ベッドに移して仰向けに寝かせて大きめの布をかける。
後はもうやれることはない。
「いつまでも突っ立ってんじゃねえ、座っとけ」
医師は背もたれのない簡易な椅子をセフィに乱暴に押し付けた。
セフィはのろのろとお礼を言いながら、その椅子を引きずってケインの横に置いた。
律儀にもう一度医師に向かって頭を下げてからセフィは腰を下ろす。
先ほどまでの強い意志を感じた雰囲気とは打って変わり、ケインを見下ろす目はぼんやりしたものだ。
ゆっくりと両手を伸ばし、ケインの右手を包み込んだ。
「……ケイン……」
微かに震えている力弱い声音で、ただ、ケインの名前を呼ぶ。
そんな彼女にしてやれることもない。
立っているのも覚束なく、俺は待合室側の壁にもたれかかった。
何もできない。
無力感が重くのしかかっているせいか頭痛がしていた。
ふと目についた医師の机の上には、空の消毒薬の瓶がいくつも転がっている。
うっすらと感じる消毒薬の匂いに、ここが診療所なんだということを今更ながら思い知った、というか。
そんなことを考えて、本当に考えなければならないことから逃避している自分を自覚する。
考えなければならないこと、は。
こうしている間にも、ケインの命は手で掬い上げた水のように指のわずかな隙間から流れ落ちていくのに。
ぼれた水はもう手の中には戻らないのに。
何気なく見下ろした手の平を見下ろして、すぐに手を握りしめた。
「……私、小さいころから、ケインの邪魔にしかなってない気がする……」
ぽつりと、セフィの呟いた声に、知らず知らずに閉じてしまっていた目を開けてセフィを見やった。
柔らかい声音でセフィはケインに語りかけているが、その内容までは聞こえない。
ひとしきり何かを語りかけたかと思えば、そのままセフィはケインの胸元に突っ伏した。
いつものように気絶したのか、と一瞬思ったが、そうではないらしい。
「……ごめん……」
セフィは小さく詫びて、顔を伏したまま言葉を続けた。
語りかけずにはいられないのだろう。
最後だから、と考えて、その思考に思わず蓋をしてしまいそうになった。
逃げても、何も変わらないのに。何もできないのは、変わらないのに。
そういえば、ケインと最後に交わした言葉はなんだったか。
そんな些細などうでもいいことを考えたまた逃避してしまう。
「おい、大男」
医師に呼びかけられ、視線は自然とそちらを向く。
歩み寄ってきた医師は、俺の横に立ち兄妹を見やった。
「あの娘、あれの身内か?」
「……妹だ」
「ああ、そうか、言われてみりゃ似てんな。……お前は?」
「あの二人の、護衛みたいなもの――だった」
そうだ。
護衛だったのに、結局その役目を果たすことができなかった。
自分自身に呆れて天井を仰ぎ見る。
「あれは助からん。死ぬ。それは覚悟しとけ」
そんなに何度も言われなくても、とただ頷く。
何度も思い知らされたくなどない。
「……覚悟をできんのか、あれ」
そう言って医師はケインに語り続けるセフィを顎で示した。
セフィが覚悟をできるのか、と言われても。
何だかピンとこなかった。ケインが「どこにでも連れていく」と言っていたとおり、ケインがセフィを連れてきた。
俺が見ている限りは、ずっと。
セフィが一人になるなんて、――考えもつかない。
しかし、それは現実になる――?
「……するしか、ないだろ」
「頭でわかったつもりでも、受け入れんのはまた別の話だ」
「……錯乱するかもしれないな」
冷静に考えればおかしいぐらいに今のセフィは普通な状態で。それはひょっとしたら現実を直視しているかもしれない。
そんな可能性もありえる。
だからこそ、その時を迎えたらセフィは崩れるかもしれない。
思い付きをそのまま言葉に出すと、医師は忌々しそうな雰囲気で頷いた。
「……面倒な。にしても、お前は随分落ち着いてんな。単なる金づるなだけだからか?」
落ち着いている、か。
多分、慣れているから、そんな気もする。
あの夜から、母親が無残に亡くなったあの夜から――ディノもドニも師匠も、全員失った。
いや、違う。
平気でいられるのは、考えていないからだ。
今だって、必死に気を散らそうとして、直視を避けようとして、そうしているだけで。
本当は――。
「――もう既にひと暴れしてきたからかもな」
感情に全てを任せてしまう感覚は、ディノの異母兄の喉を突いたあの時も感じたあの感覚は――熱くて、冷たい。
かっとなっているはずなのに、同時にひやりとしているものがある。
あれは駄目だ。セフィに偉そうに命を刈る覚悟なんて説教しておいて何をやっているんだろう。
……こんなのは、もう二度と、御免だ。そう思うのに、何で何度も繰り返してしまうのか。
――まただ、また、思考をそらしている。
「あれは奴隷だろう。奴隷の焼き印がある」
「!」
堂々巡りをしている俺の思考を止めたのは、医師の言葉だった。
ケインが隠したがっていたものを、この医師は見つけていたのか。
驚いて医師を見やれば、医師の目はずっとセフィたちに向けられている。
「どうする? 奴隷なら土葬は無理だ。共同火葬にせざるをえない」
「今、その話をするか……っ!」
まだ生きているのに、そんな気持ちで睨みつけても医師は涼しい顔のままである。
「いきりたつな。時間がある今だからこそ手が打てるんだ。土葬っつっても共同墓地なのは変わりないけどな。他の奴隷どもと一緒に火葬するよりゃマシだろ」
「……つまり、何が言いたい?」
「あのガキ、助けてやったんだろ。高熱で死にかけてたあのガキ」
ルカヤのことだろうと判断し、頷いて応える。
そのことを知っているのか。
「ここじゃ熱病は診ない。どうにもできないし、見捨てるしかなかった。まあ、その罪滅ぼしじゃないが」
「……いいのか。違法だろ」
「そんなの恐れてたら最初から奴隷なんて診やしねえさ」
この医師は本当に口は悪いが、色々と肝が据わっているというか。
「……まだ、あいつは生きている。でも、もしもこのまま助からなかったら」
口に出して急に心細いような気持ちに襲われた。
もしも、なんてありえるのか、という疑問を浮かべている自分に驚く。本当に覚悟ができていないのは、俺の方なのか。
「――頼む」
「わかった。準備しておく」
医師は診察室内の奥の机へと足早に近づいて行き、引き出しから書類のようなものを取り出すとガリガリと記入を始めた。
死んでもいないのに、その準備かよ、と、思ったが特に何も言わないでおいた。
「……外に、連れて行ってくれて、ありがとう……」
セフィはまだケインに語りかけている。
その語りかけている声に嗚咽が混じり、何度も喉につかえたように言葉が止まっては、またたどたどしく言葉が紡がれる。
何もできないもどかしさに、奥歯を噛んで耐えた。
「……約束、守ってくれてありがとう……」
……あの時、先に商人を仕留めておけば、せめて行動不能にしておけば。
考えても仕方がないことが浮かんでしまった。
そんなのは単なる、自己満足で、考えたって今更、どうにもできない。
わかっている。――くそ。
「……お兄ちゃん、で、いてくれて……ありがとう……」
震えた声でそれを口にするセフィに、知らず知らずのうちに奇跡を願っていた。
このまま朝が来て、ケインが目を覚まして、「何いってんだよ?」なんてセフィをからかうような言葉を発して笑って。そんなさっきまではごく当たり前にあった奇跡を。
奇跡なんて、起こらないなんて、わかっていた。




