3-15 代償行為
裏路地の更に奥、漂う臭いに口を覆いながらも先へと足を進める。
ケインも顔をしかめながら先を速足で進むイリーの後を追った。
腐敗臭だ。
遠い記憶がよみがえる。
気を抜けばえづきそうになるほどの強烈な悪臭は、死臭だ。
近くに動物の死体があるのだろう。こんなに広範囲にわたって広がっているのは小動物ではなく、大型の――恐らくは人の死体。
進んだ奥の袋小路になっている場所にはまるで人形のように複数の人の死体が無造作に転がっていた。
まだ息がある者もいるのかうわごとのようなか細い声がいくつか飛び交う。
光がほとんど届かない薄暗い中にあるその光景は、まるで地獄絵図のようだった。
恐らく先日遭遇した老人のように棄てられた奴隷の成れの果てなのか。
「……兄ちゃん」
イリーはそんな光景にも臆することなく足を進め、その景色に溶け込むように仰向けに倒れている小さな体の前に立った。
「ねえ、兄ちゃん! 返事してよ! さっきまでは目ぇ開けてくれたじゃん!」
「イリー」
ケインはイリーの横にしゃがみ込んで、兄と呼んでいた体を揺さぶる彼女の手を押さえて止めた。
そして、仰向けに寝ている兄の方の様子を観察して、イリーに言った。
「……ひどい熱だ。でもまだ呼吸がある」
奴隷とは言え、まだ生きている人間をこんな墓場のようなところに――と思って、先ほど死臭を思い出した感覚が再び蘇った。昔、まだ子どもの頃だ。見たことがある。
高熱があるということは、ひょっとしてフィルツで起こったあれが、ここで起こっているとでもいうのだろうか。
「熱病か?」
「熱病!?」
ケインが意外そうな声をあげる。
転がっている死体を見れば年寄りばかりではなく、若い者も多い。
恐らく、致死率の高い流行り病だ。
フィルツで熱病が流行ったときに、次から次へと人が死んでいった。
亡くなった人は埋葬が間に合わず墓地の前に死体の山が築かれた。
熱病が終わりに近づいた頃、ようやくその遺体は焼却され、共同墓地に埋葬されることになった。
墓地に漂う死臭と、腐りかけた死体の山。
あの時、見てしまった光景、そして今目の前にある現実はよく似ていた。
「……イリー、お前熱は?」
「あたしは普通」
「周囲に発熱してた奴はいたのか?」
「……兄ちゃんが熱を出す前に、二人ぐらいいたけど、みんな熱が出て動けなくなった途端棄てられた」
熱病の対処法がこれなのか。
ケインの顔が嫌悪感に染まるのがわかった。俺も同じ気持ちだったから、その心中は察するに容易い。
そんな扱いをするのか。できるのか。そんな消耗品のように扱えるのか。
「ちょっと下がってろ。ヒュー、イリーを見といて。お前も近づくなよ」
熱病は感染するからだ。
じりじりと後退してきたイリーの肩を掴んで俺の背後まで下がらせる。
「ケイン、俺は罹ったことがある。一度罹ったら二度は罹らないんだろう」
「ああ、けど用心に越したことはない。違う病の可能性もあるし」
ケインはそう言いながらもハンカチを取り出すと、イリーの兄の口元を覆うとその体を担ぎあげた。
「行こう」
「ああ」
背後のイリーを促し裏通りへと戻る。
しばらく歩いて表通りとつながる通路の前まで来て足を止めた。
足を止めたとたん、三人同時に大きく息を吸って吐いた。ようやく新鮮な空気を吸い込めたそんな感じだった。
「やっぱ臭いが残ってる気がするな」
敢えてだろう、ケインが明るい声音で言ってくる。
体に染み込んでいるようなそんな感じがした。
「宿には、戻れないか。なあヒューちょっとだけこいつ任せていいか」
ケインが、イリーの兄を降ろして俺に言った。
頷いて受け取り、彼を背負う。
「唾液で病がうつるから、気を付けてくれよ。お前が倒れたら洒落にならねーからな」
「わかった」
「イリーもこの怖いお兄さんとここで待ってろ」
そう言い残し、ケインは表通りに駆け出していった。
何をするつもりなのかはわからないからただ待つしかない。
「あいつ、バカなの?」
しばらく黙っていたが、突然イリーがそう吐き捨てた。
俺に問いかけているようで、恐らくそうではないのだろう。イリーを横目で見やる。
彼女の視線の先は俺が背負っている兄だ。
「あんたも何で止めないの?」
「止める必要がないからな」
明確な問いかけだったので答えれば、答えが返ってくるとは思っていなかったようで、イリーは驚いて跳ね上がった。
「と、止める必要ないって、だってあたしたちは奴隷だよ、助けたってお金なんか持ってないし、あんたらには何の得にもならないでしょ」
「助けないことが損になるんだ」
「助けないことが、損?」
意味がわからないと言わんばかりの態度でイリーは眉を寄せている。
怖がっているのは声が震えているからわかる。怖がっているのを隠したくて虚勢を張っている、そんな様子がわかってしまって、俺は地面に視線を落とした。
「多分あいつが言ってたのが全てだろ。兄だから、よその妹でも助けたい」
「そんなの、バカのすることだ」
でも、それ以上の理由もない。
特別な絆なんだろうな、とケインとセフィを見ていると感じることがある。
俺には兄弟がいない、と思っていたが、ディノは兄弟のようなものだ。同じ母を持つ兄弟。
いなくなってもまだディノの思いのようなものは俺の中に息づいている。
『俺は王族としてその責務を果たす。だからお前も貴族としての責務を果たせよ』と。
弱者は切り捨てるべきではないと言い続けていたあいつの信念を俺も守りたい。
だから、この兄妹は救いたい。そうすることでディノを救えなかった自分を救える気がして。
「あんた、ヒューって言ったっけ、熱病に罹ったことあるっていったよね、かかっても助かる人、いるんだよね?」
「比較的、子どもは軽症なことが多くて、周りにも治ったやつは多かった」
「軽症なら、助かる……の? 本当に? だって、たくさん人、死んでたじゃない」
先ほどの、無造作に転がっていた死体を指して言っているのだろうとわかった。
フィルツでも、助かった者と助からなかった者の違いは分かっていなかったように思う。
強靭な体を持つ人間――つまり俺の父親だが――は助からなかったが、か弱い女性や子どもは比較的軽症で命を落とさずに済んだ者が多かった。
その理屈は今もわからないから、説得などできない。
「さっきケインが言ってただろ、信じろ。それしかない」
「そんなこと言われたって! 何にもわかんないのに、信じられるもんか」
「俺は、助かった。俺の友人も助かった奴がたくさんいる、それでも信じられないか」
「でっ、でも、あんたたちと兄ちゃんは違う! あんたは奴隷じゃないし、薬だって――」
「なぁに言い争ってんだよ」
ケインが何やら大荷物を背負って戻ってきた。そのケインの後ろにはセフィがいた。
宿まで迎えにいったのだろう。どこか眠そうな表情のまま、俺とイリーを順番に見やって、ケインに視線を送っていたが、ケインはその視線には気づいていないようだった。
そのケインは人差し指に引っ掛けた鍵のようなものを弄び、俺たちに言った。
「いいから行くぞ」




