4-19 愛してなかった
何も見えない暗闇の中を駆け抜けていく。
方向感覚はない。ただ闇雲にだ。
不思議と心は落ち着いているのが唯一の救いか。
踏みしめる地面は存在しているから、いつかは出口にたどり着けるに違いない。
心拍数が上がって、少しだけ息苦しい。
長くこの場にいると気が狂いそうな予感があった。
焦りそうになる心を抑え込むように、呼吸は一定のリズムを保つ。
惑わされないように。
「やはり、生きていたのね」
何もない暗闇の中、進路をふさぐようにミルドレットが現れた。
足を止めて再度対峙する。
この『弱み』を越えなければ<虫>から脱出することはできない、ということか。
闇の中で白色の服を見につけたミルドレットは、闇の中の唯一の希望のように見える。
救済を懇願してしまいたくなるほど。
「……ミルドレット」
「あなたの大事な人はもう誰も残っていないのに、どうして生きようとするの? 何をしても、もう無駄でしかないでしょう?」
「取り戻す為だ!」
生きて、生き延びなければ、<虫>を消滅させることはできない。
「本当に、時間は戻るの?」
「……」
「あなただけ置き去りにされるかもしれないのに。そもそも、時間が戻るというのは本当なのかしら? この世界を終えて新しい世界を作りだす、なんてこともありえるかもしれないでしょう?」
考えるな! と己を叱咤して浮びかけた疑問を振り切る。
今はこの問答さえ無駄だ。
「ごめん、ミルドレット」
自分が今からやるべきことを考えるだけで手が震える。
相手は<虫>だ。ミルドレット本人ではない。だが、彼女の姿をしたそれを斬るのは、想像するだけでも悍ましいものがあった。
進むためには避けられない。
セフィだって、あのまだ幼さが抜けきっていない少女だってやってみせたんだ。俺にだってやれるはずだ。
一歩目は大きく、続けて二歩目以降は素早く、足を踏み出してミルドレットに向かって駆ける。剣の柄を握り素早く鞘から抜き振りかぶり――十分間合いを詰めて振り下ろす。
手ごたえはない。
信じられない、と思っているのだろうか、ミルドレットは見開いた目で俺と俺の手にある剣を見比べて、その口を開いた。
「な……んで……?」
ゆっくりと、剣の軌跡から溶けるようにミルドレットの輪郭が崩れていく。
一瞬で消えないのは、レミーが言った通りこの剣にこめられた力があまり多くないせいか。
「嘘よ」
まだ、呆然とした様子でミルドレットは言う。
「復讐なんて嘘。私があの男に連れ添ったのは――」
まだしゃべれるのか。
こっちは罪悪感でつぶされそうなのに、早く消えてほしいのに。
「私があの男を心から愛したから。私はあなたを、愛してない」
一番、聞きたくなかった言葉を言われて、一瞬我を失いかけた。ミルドレットが笑い声を上げる。その彼女の美しい笑みに目を奪われかけて、まずいと感じるよりも早く――
――塗りつぶされる。
きい、きい、きい、と、ブランコが揺れるときに生じる木の枝と紐がこすり合うような音とともに視界が突然開けた。
自宅、だった。
部屋にある家具を見やればそこが母の部屋だと気づく。
そうだ、この音だ。
帰宅したとき、家の奇妙な音が聞こえたから出所を探して母の部屋に入った。そしてそこにあったものは。
天井の梁に紐をかけ、その紐に首を括った、物言わぬ母だ。
梁と紐が摩擦する音が時折鳴っていて。
これは、俺の日常が壊れ始めたその日だ。
歯の根がかみ合わないほどの震えを自覚していた。
あの日も、今の俺も同じだ。
吊るされている母を呆然と見上げることしかできない。
「うう……う……ああ……」
「なんで……」
声は、突然響いたその声は、母の遺体から響いた。
「……助けて、くれなかった、の?」
「……」
た、すけた、かった。
戻れるのならば、あの夜に戻って何もかもをやり直したかった!
胸中で叫び声をあげれば閉ざされた母の目が開き、俺をにらみつけた。
母なのに、母ではない。
「許さない」
母とは思えないほど、低く憎しみのこもったその声に、世界は暗転した。
棺の中おさめられているのは、ミルドレットだった。
町はずれの古ぼけた葬儀場だった。
貴族籍に入ったはずの彼女の葬儀は通常の市民のそれよりも質素なものであった。
普通ならば餞でいれられるであろう花すらなく、棺の中にはやせ衰えた彼女の遺体のみ。
弔問するものもまばらだ。視界の端に赤子を抱いたエセルの姿があるだけで、あとは知人もいない。彼女の家族すらも。
ミルドレットの葬儀だ。
シーゲル家に嫁いだ後、間もなく病死した彼女の。
この時の記憶はほとんどない。
死に化粧さえ施されていなかったが、相変わらずミルドレットは綺麗だと、そう機械的に感じたことはおぼろげに覚えている。
こんなもの、見たくなんてない!
湧き上がってきたのはそんな強い拒否感情だった。
彼女の死を、なんで何度も見なければならない? ずっと目を背けてきたのに。
「お前が! お前が! いなければ! うあああああ!」
また暗転して、雄たけびのような声にそちらに目を向ければ、あの男が何度も何度もディノの体を手にした刃物で執拗に突き刺していた。
実際はこんなに何度も突き刺すことを許してない。
もっと早く止めたはずなのに。あの男の息の根ごと。
「どうしてあなたが生きているのに――」
あの男の叫び声がこだまする中、アイリが俺に詰め寄ってきた。
何度も何度も繰り返し、声を上げることもなく刺し殺されるディノを背後にアイリは続ける。
あの瞬間を、何度も、何度も。
見たくない。それなのにアイリの後ろでは延々と繰り返されている。
「――ディノ様は死んでしまったのですかっ!?」
見えていないであろう目は狂気に染まっている。それをまっすぐに俺に向け、アイリは俺を責め続ける。
「ディノ様をどうして守ってくれなかったのですか!」
言いかけて、アイリはぴたっと言葉を止めた。
後ろを振り返り、何度も繰り返される凶行の瞬間をしばらく眺め、再び俺の方へと向けた顔からは表情が抜け落ちていた。
「あなたが、代わりに死ねばよかったのに」
「……」
俺もそう望んだ。
生き残るのが俺でどうするんだ。俺にはディノのような力はない。
フィルツを良い国に変えていけるのはディノだけだ。
「あなたが死んで、ディノ様が生き返るのならば私は、あなたを――」
「――躊躇いなく殺しているわ」
暗転して、耳元で響いた声に、喉が震えたのが自分でもわかった。




