4-17 嘘でもいいから
目を開ければ、まだ俺という形は存在していた。
また、生かされた、と思った。
すべてが黒で塗りつぶされた場所だ。
目の前にいるのは、ミルドレット、いや、ミルドレットの姿を模した<虫>だ。
『<虫>ごときに心を動かされてたまるか!』
セフィの言葉がぼんやりと思考が覚束ない脳裏を横切る。
そうだ、心を動かされてはならない。<虫>の餌になるのだけはごめんだ。
だから、これはミルドレットじゃない。俺の記憶から生成された、ミルドレットの偽物だ。
本物の彼女はもういない。
「久しぶりね、ヒュー。会いたかった」
ほのかに頬をそめて、ミルドレットは言う。
俺の記憶なのだから、覚えている彼女の姿と寸分も変わらないのは当たり前だろう。
「ずっと会いたかったっていうのに、さっきの女の子誰よ? なんであんなに親しそうにしてたの?」
考えないと自分に言い聞かせていたが、突然飛び出してきたその言葉にはさすがに面食らってしまった。
ちょっと、待ってほしい。
さっきの子はセフィのことで間違いないと思うが、なんでこんな反応なんだ?
「待ってくれ、子どもだろ?」
「子ども? 女なんてすぐに成長するんだから、いつまでも子どもじゃないの!」
咎めるようなミルドレットの言いざまに、飲まれかけていたことを自覚して剣を握ったままの手の甲で額を拭う。
感情を殺せ! と自分に言い聞かせてゆっくりと息をついた。
「助けてくれた恩人だ。そんな感情を抱いたことはない」
「そんなの信じられない」
ぷいっと拗ねたように視線を逸らすしぐさも、とにかく懐かしい。
だが、それだけだ。
それ以上は考えない。
「どうして、ヒューはいつもそうなの? 私が一番欲しい言葉を絶対くれないのはなんで?」
「……」
「あなたの誠実なところ、大好きだし、長所なんだってわかっているつもり」
考えない、考えない、頭の中でそれだけを繰り返す。
目の前のミルドレットは本物のミルドレットじゃない。
「でもね、それでも言って欲しかった。嘘を吐いて欲しかった」
彼女の言いたいことはわかっているつもりだ。
だが、もう全部終わったことだ。
今更掘り起こしても傷口を抉るだけの行為に過ぎない。
「約束できない将来を誓うことはできない」
しかし、どうしても言わずにはいられなかった。
一度も口にしていなかった、本音だ。
「できないんだ、できもしないことは、言えない」
「嘘でいいっていってるでしょ! 私は言ってほしかったの! 私が一番だって! 例え世界が滅んだとしても私が欲しいって! 私がいればそれ以外いらないんだって! 私を世界で一番幸せにするって! 嘘でいいの、そういう言葉が欲しかった!」
激昂したようにまくしたてるミルドレットの台詞は、真正面から聞いていたら、あちこちが痛くてたまらなかっただろう。
ミルドレットは決してそれを口にはしなかった。だから俺も何となく気づいていて気づかない振りをしてしまっていた。
今はわかる。嘘でもいい、というその意味も。
大事だったら言葉で伝えておかなければならなかった。こんなに後悔するぐらいだったら。
――駄目だ。これ以上は考えてはいけない。感情を抑えなければ俺が<虫>の苗床になってしまう。
「こんなこと口にしてあなたを追い詰めている自分が嫌い。可愛くて優しいあなたの好きな私でいたいのに、だんだん醜くなっちゃう。これ以上私に私を嫌いにさせないでよ」
「……」
「私を嫌いにさせるヒューなんか嫌い。だから傷つけてやりたかった」
俺が沈黙を続けても、気にする様子もなく、ミルドレットは独白するように俺を責め続ける。
俺を見る目に少しずつ憎しみが籠っていくのが分かる。
「私をないがしろにするあなたに、復讐してやりたかった」
「……復讐……」
ただ黙って聞いているよりは、会話にした方が気をそらしやすいか、とその言葉を反芻するように呟いてみた。
復讐、ミルドレットが俺にした復讐?
「あなた以外の男に私を触れさせること」
「……復讐で、あの男に、差し出したのか、自分自身を?」
「あなたでなければ誰でもよかったのよ、ちょうどあの男が私に近寄ってきたから利用しただけ。私が傷ついた分、あなたが深く傷つけばいいと思った」
感情を抑えつけすぎて、目の前がくらくらしてきた。
正直、聞きたくないと思った。
無情にも目の前の彼女は勝ち誇ったような目を俺に向けて浅く笑いながらも口を開く。
「だから、あの時、私があの男に抱かれていた時のあなたの顔、最高だったわ」
呼吸が荒くなるのを自覚する。
これを抑えるなんて、不可能に近い。
「これも全部、あなたのせい」
「俺の、せい」
全部、俺のせいなのか。
ミルが亡くなってしまったのも、全部全部、俺のせいなのか。
「あなたのせいよ! 全部あなたのせい!」
これ以上は――聞きたくない。
両耳を覆うとして、片腕がないことに気づく。
塞ぐことすらできない。怨嗟の声からは逃れられない。
「そして、私の物になってくれなかったあなたなんていらない! そうね、全部<虫>に食べられてしまえばいいんだわ。私に触れられない手も、近づいてくれない足も全部不要ね。四肢を貪り食われ、この世界の地の底で永久の時を苦しみ続ければいい!」
力を込めてミルドレットは俺を後方へと突き倒した。
あ、と口にする前に背中から落下した。
音もなく<虫>が音もなく全身に集ってくるのがわかる。
ミルドレットが言うように、足に、腕に、食いつきその度に激痛が走る。
いたるところに発生する激痛に声を上げることもかなわない。なすすべなく、俺の手足が失せていくことだけがかろうじてわかるだけ。
痛い……、痛いって、何だ……それすら、わからなくなりそう、だ。
再び闇に飲まれる感覚に、ゆっくりを目を閉じた。
もしかしたら、もう目覚めることはないかもしれない、と思いながらも。




