第9話 躾がよいのだと、誰も疑わなかった
名を呼ばれた者から順に前へ出て頭を下げた。
東の間である。窓が三つあって、朝の日がまっすぐ床へ落ちている。十一人が、名簿の順のまま並んでいた。女官長格が一人。女官が四人で、侍女が六人。夫は、この日も政庁だった。
読み上げているのは筆頭の女で、四十の半ばに見えた。背筋が伸びていて、声に抑揚がない。名を読み、役を読み、家の名を読む。書いてある順のまま、そのとおりに読む。
「ドロテアと申します。妃殿下付きの一同、これにみな揃っております」
四人目の女官のところで、ドロテアは読み上げをやめ、その者へ譲った。
「シシュマンと申します」
女は自分で名乗った。二十代の後半か、もう少し上か。手を前で組み、頭を下げる角度は、他の者と変わらない。
「シシュマン」
アリシアは一度その名を口にして、次の者へ進んだ。
クリスは列にいない。壁際にいて、列からは離れている。
十一人が並び終えるまで、アリシアは一人ずつの顔を見た。館の内を検めるのは女主人の務めである。紙で渡されたものに、今日から顔が付く。
その日から、書を持って館を回った。
名簿には役の欄がある。身支度の当番も、衣裳の預かりも、文の遣り取りも、それぞれ受け持つ者の名が入れてあった。
衣裳の間へ入ると、女官が一人、卓の脇にいた。手を動かしているのは侍女である。裾の折り返しに針を入れ、留める位置を指の腹で測っている。名簿では、この役は女官の欄にある。
「衣裳は、あなたが預かっているのね」
「さようにございます」
女官はそう答えた。侍女の欄で、年数だけが長く伸びている。数え始めは、この館に人が入った年だった。
廊でドロテアにあたった。
「名簿の役と、実際に手が動いている先と、合っていないところがあるようだけれど」
「そのように承っております」
ドロテアはそう答えた。書のとおりであった。
文の遣り取りの役は、名簿では別の者にある。だが、返しの文の下書きを揃えて持ってきたのはシシュマンだった。日付と、相手の家の名と、前に来た文の控えが、順に並べてある。誰の名で出すかという欄だけが空いていた。シシュマンの名は、名簿の下のほうにある。家の名の欄は空で、代わりに推挙の筋が細く入っていた。
三つ目は、朝の身支度の当番だった。名簿では、半月ごとに順が回ると書いてある。実際は、同じ二人が毎朝入っていた。順の回った月が、どの月にもない。
もう一度あたっても、出てくるのは書に書いてあることだけだった。
洗い場のほうへ足が向いたのは、その次の日である。
繕い物の布をどこで受け渡しているのか、名簿には出ていない。取次の者に問うと、廊の先を指した。
「あの者にお尋ねを。あれが、いちばん長うございます」
洗い場は館の北の端にあった。石の流しが二つ並び、湯気が窓の桟のあたりで途切れている。竿は三本渡してあって、手前の一本にはもう隙がない。
四十ほどの女が、袖をたくし上げて濯いだ布を絞っていた。絞り終えた端から順に、竿へ掛けていく。手が止まらない。
アリシアが近づくと、女は一度だけ頭を下げた。
「マルタと申します」
名乗って、すぐ手へ戻った。
アリシアは幾つかを問うた。朝の当番に実際に入っているのは誰か。衣裳の裾を縫っているのは誰か。文の下書きを揃えているのは誰か。マルタは、そのつど短く答えた。名を言い、日を言い、それ以上を言わない。当番の二人については、いつからその形になっているかまで出てきた。衣裳については、縫っている侍女の名と、預かっている女官の名の両方を並べた。どちらが手を動かしているかは、並べただけで分かった。
手は、答えている間も動いていた。絞って、伸ばして、竿へ掛ける。幅の広い布ほど、掛ける間を空けてある。
「あなたは、いつから」
「十一年になります」
名簿に、その名はない。役の欄にも、年数の欄にも、推挙の筋の欄にもない。十一年は、この館に人が入った年より前である。
繕い物の受け渡しは月に三度で、これも書には出てこない決まりだった。
「助かりました」
「いえ」
マルタは竿のほうを向いて、次の布を取った。
書き換えたのは、その日の午後である。
東の間の卓に紙を広げ、名簿を左に置いた。名簿には手を入れなかった。式部省の写しは写しのままにして、右の紙へ、実務の順で書き移していく。
衣裳は、針を持っている侍女の名を上へ。預かりの女官の名は、その下に残した。文の遣り取りは、下書きを揃えているシシュマンの名を上へ。朝の当番は、実際に入っている二人をそのまま書き、回るはずの順を落とした。繕い物の受け渡しは、月に三度と書き入れた。
書き終えると、欄が二つ空いた。文の控えを綴じる者と、部屋の書物と紙を扱う者である。十一人は、みな役が埋まっている。
ドロテアを呼んで、紙を渡した。ドロテアは上から下まで目を通し、承りましたと言って、廊の先へ下がった。
クリスは、廊の突き当たりにいた。呼ぶと、こちらへ来た。
「クリス。この二つを、あなたに」
紙は、そのまま渡した。クリスは紙を開いて、上から下まで目を通した。
「控えは、日付の順で」
「そうしてちょうだい」
「書物は、下の段のままで」
「そのままで」
「では、そのように」
クリスは紙を折って袖の内へ入れ、廊の奥へ行った。
*
ヒルデガルトが館へ来たのは、三日の後だった。
東の間へ通すと、前と同じように浅く掛けた。膝の上に紙の束がある。
「妃殿下付きの向きに、お手を入れられたと伺いましてございます」
書き直した紙を差し出すと、受け取って、上から順に目を落としていった。指が欄の端をなぞって下りる。最後まで下りてから顔を上げた。
「当方では、ここまでは見ておりませんでした。写しは、こちらのとおりに直させます」
その紙は、膝の束の上へ重ねられた。
「当番の順は、半月ごとに回るよう申しつけてございました。回っておりませんでしたのは、こちらの落ち度にございます」
紙の端を、指が押さえた。
「ご実家のお躾の賜物にございます」
膝の紙は、そのままである。声も、前と変わらない。
アリシアは頷いた。
「北の家は、娘御に館の内をお仕込みになると伺っておりました。妃殿下をお迎えして、得心がまいりました」
「妃殿下付きの向きは、これで筋が通りました。以後、この形で参ります」
束を抱えて立ち上がると、そのまま部屋を出た。足音が遠ざかり、やんだ。
*
清書が届いたのは、さらに数日の後である。
布に包まれて、盆に載って来た。開くと、紙の質が前のものと違った。厚みがあって、縁が裁ち揃えてある。墨も濃い。書いた者の手が違うのが、字の起こしで分かった。
役の欄は、書き直したとおりに移されていた。文の遣り取りの欄に、シシュマンの名がある。当番の欄には、二人の名がそのまま並んでいる。順の回る月は、どこにもない。
添え状が一枚、上に載っていた。
署名は、ケストナー子爵。
文言は丁重だった。この館へ来てから受け取ったどの文よりも丁重で、そのぶん字の間が硬い。書き出しの敬称が一つ増えている。用向きは三行で済み、残りはみな型の文だった。結びには、以後の差配について式部省より改めて申し上げる旨が書き足してあった。
前は、ヒルデガルトが口で言った。清書のうえ、後日お手元へ、と。今度は、子爵の名で紙が来る。
アリシアは添え状を二度読んで、畳んだ。
渡されるものは、いつも足りている。今度も足りていた。足りたまま、遠くなった。
初めに読んだとおりだ、と思った。
東の間には、日が差していた。床に落ちた光が、窓枠の形のまま奥へ伸びている。乾いた日で、紙の縁が少し反っていた。
窓の外で庭の木が鳴った。葉の乾いた鳴り方だった。風が来て、鳴りが強くなり、やんで、また来る。
廊の先から、布を打つ音が届いた。一つ打って、間を置いて、また一つ。音は途切れずに続いた。やがて風が高くなり、そちらへ紛れた。




