第8話 妹君も私も、よく取り計らわれている
夫は、朝のうちに政庁へ発っていた。
部屋は、片づいていた。壁際にあった櫃は空になり、蓋を閉じて寝台の足元へ寄せてある。衣は衣掛けに吊られ、櫛と手鏡は化粧棚の上に並び、書物は棚の下の段へ、背の高さを揃えて入っていた。詰めてきた包みは、一つずつ開かれ、畳み直されて、それぞれの場所へ分けられていた。どれも、収まるべきところに収まっている。
クリスが、衣掛けの前に立って、それを見ていた。まだ、何も言わない。
アリシアは卓へ寄り、端の燭台と水差しを片側へ寄せた。卓の一角が、木目のまま空く。何か渡されるものがあれば、そこへ置けばいい。
やがて取り次ぎの者が来て、式部省より女官が参りますと告げた。
現れたのは、五十ほどの女だった。背は高くない。立ち方に、無駄がない。
「ヒルデガルトと申します。式部省より、こちらの館の差配を預かってまいりました」
声は低く、平らだった。
「妃殿下におかれましては、この度のご婚儀、まことにおめでとう存じます。本日は、奥向きの慣いをお伝えに上がりましてございます」
アリシアが席を勧めると、ヒルデガルトは浅く掛け、膝の上へ紙の束を置いた。
「第一に、年中行事と、儀礼の次第にございます」
束の上から順に、日取りが読み上げられた。秋の収穫の祭儀。冬至の礼拝。年明けの拝賀。春の祈願。それぞれに、時刻と、順序と、装束と、供の数がある。どの日に誰が先に立ち、どの唱和をどの高さで受けるかまで、みな決まっていた。
「妃殿下は、その日、その場にお立ちいただければ足ります。次第書は、すでに写しを作らせてございます」
アリシアは、読み上げられる名を順に追った。故郷とは呼び方の違うものが、いくつかあった。順序の違うものも、二つ三つあった。どこがどう違うのかは、聞けば分かった。訊くべきことは、出てこなかった。
「ご案じなさいますな。すべて、こちらで整えてございます」
ヒルデガルトは束から一枚を抜き、差し出した。
「第二に、妃殿下付きの女官と侍女にございます」
アリシアは受け取って、目を落とした。
格の高いものから順に、名と、役と、家の名が並んでいる。女官長格が一名、女官が四名、侍女が六名。誰が朝の身支度に付き、誰が衣裳を預かり、誰が文の遣り取りを扱うか、役の欄に細かく書き分けてあった。日ごとの当番も、月の半ばで入れ替わる順まで割ってある。下の者には、家の名の代わりに、どの筋からの推挙かが小さく添えてあった。
「すでに組んでございます。お顔合わせは、明後日に」
名の脇には、仕えた年数も書き添えてある。長い者は、この館が整えられた年から数えられていた。
アリシアは、名を一行ずつ追っていった。半ばで一度、指が止まった。読み方の分からない綴りの姓が一つあった。それにも、役と年数が付いている。指を進める。最後の一行まで行って、目を上げた。
ヒルデガルトが手を伸ばし、紙を引き取った。
「清書のうえ、後日お手元へお届けいたします」
壁際で、クリスが息を吸った。言葉には、ならなかった。
ヒルデガルトは、手にした束を膝の脇へ置き、別の束を上へ移した。
「第三に、下賜と、見舞と、返礼の作法にございます」
どの家へ、どの折に、何を贈るか。慶事には慶事の型、弔いには弔いの型。文の書き出しから結びまで、文言が定めてある。品も、相手の格に応じて幾通りかが決めてあった。北の三家には織物、南の家筋には硝子、聖堂へは蝋と油。年の初めに送るものと、年の暮れに送るものとで、品目が入れ替わる。
「先方より届きましたものにも、返しの品と、返しの文の格が、対で定めてございます。当日中にお返しするもの、三日を置くもの、季を改めるもの。取り違えますと角が立ちますゆえ、こちらで見分けて調えます」
束の途中で、一つ、家の名が出た。
「殿下の妹君にかかわるものも、この内にございます。妹君は、フラリン王国の第二王子アラン殿下とご婚約でいらっしゃいます。またとないご縁にございます。フラリンは南の大国にございますれば、贈答も、文の格も、この国のものとは別に立ててございます。季ごとの品、慶事の使い、先方の宮廷への口上まで、みな筋を通してございます。先方は宮廷の格式が厳しゅうございますゆえ、文の紙も、墨も、こちらとは別に取り寄せてございます。使いの者も、フラリンの作法を修めた者を選んでございます。……そちらも、こちらで整えてございます」
アリシアは、聞いた。
「第四に、ご応接なさる相手の格にございます」
どの家の者を、どの部屋へ通すか。茶を出すか、出さぬか。席を立って迎えるか、座したまま受けるか。相手の家格と、その日の用向きとで、みな決まっていた。取り次ぐ者、次の間に控える者、下がる頃合いまで。
アリシアは、口を開いた。
「わたくしが決めますのは、どれでございましょう」
「みな、決めてございます。……ご案じなさいますな。すべて、こちらで整えてございます」
アリシアは、渡された四つを胸のうちで並べ直した。次第。名簿。作法。格。四つとも、欠けたところがない。誰かに厚く、誰かに薄いという傾きもない。人の手が触れた跡が、どこにもなかった。
誰が、何のために、この形を作ったのか。読もうとして、指が空を掻いた。
歓迎されていないのだ。
ヒルデガルトは膝の上の束を揃え、両手で持ち直して、立ち上がった。
「以後、お心にかかることは、いつなりとお申し付けを」
ヒルデガルトは辞儀をして、廊のほうへ去った。部屋に、二人が残った。
「……荷は、わたくしがやるつもりでした」
クリスは、衣掛けの袖に手を掛けたまま言った。
「昨日のうちに、順を決めておいたのです。書物は下の段へ、櫛は窓寄りへ、と。今朝、来てみたら、もう」
言葉が途切れた。手が袖から離れて、下りた。
「よく片づいております。片づいておりますとも。わたくしがやるより、ずっと。ただ、わたくしは」
その先が、出てこないらしかった。目の縁が、赤くなっている。
「……何と申し上げればよいのか、分かりません。悪いことは、何も起きておりませんのに」
アリシアは立ち上がり、衣掛けのそばまで行った。掛かっている袖の縁を、指の背で一度だけ撫でて、手を下ろした。
「――クリス」
「……はい」
「みな、行き届いているわ」
「……行き届いております」
クリスは頷いて、それから、頷いたことに得心がいかないという顔をした。
「……アリシアさま」
「なあに」
「わたくしは、この城のことを、何ひとつ存じません」
「わたくしもよ」
アリシアは、少し笑ってみせた。
「二人とも、これから覚えるのよ」
「……はい」
クリスは袖で目の縁を押さえ、それから、押さえたことを恥じるように手を下ろした。
クリスも退がった。
アリシアは、部屋の中を見た。
櫃の蓋は閉じたまま、寝台の足元にある。衣掛けの袖は掛けられた形のまま垂れ、化粧棚の櫛と手鏡は、間を空けずに並んでいる。書物は棚の下の段で、背の高さが揃っている。どれも、朝に見たときのままだった。
窓が細く開いていた。庭の木は、葉の縁からもう色を変えはじめている。風が入って、衣掛けの袖が一度だけ膨らみ、もとの形へ戻った。
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