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政略結婚した令嬢ですが、夫が優秀な凡人なので世界の裏側は私が回します  作者: モモ
第1部 第1章

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第7話 動いたのは、心ではなかった

 式の喧騒は、とうに絶えていた。


 寝所。燭台の灯。祝祭の熱は、この部屋までは届いていない。満ちているのは、乾いた冷えのほうである。


 窓は細く開けられたままで、そこから秋の入り口の夜気が忍び込んでくる。昼のうち庭を渡っていた風は、日が落ちてから冷たさを増していた。壁に落ちた影が、灯の揺れにつれて、絶えず縁を変えている。


 クリスが、寝台の支度を整えていた。


 皺ひとつ残さぬように敷布を撫で、枕の位置を直し、燭台の芯を切って灯を調える。見慣れた手順を、この娘は今夜も違えなかった。ただ、指の運びがいつもより丁寧で、そのぶん、少しだけ遅い。


「アリシアさま。……お支度は、これで」


 声に、儀礼の硬さはなかった。


「ええ。ありがとう、クリス」


「――何か、御用がございましたら」


 言いさして、クリスは、その先を飲み込んだ。今宵ばかりは、呼んでも自分は来られぬ場所だと、この娘も心得ている。


 深く一礼して、クリスは退がった。扉が、低い音を立てて閉じた。


 その音が、思いのほか重く、胸の底へ落ちた。


 最後の余白が、いま、畳まれた。


 あとには、アリシアひとりだった。


 窓の向こうは暗い。北国の秋の、冴えた闇である。


 灯の届かない隅で、見慣れぬ調度が黒い塊になっていた。名も用途も知らぬものが、いくつも据えられている。ここでは、天蓋の高さも、敷布の手ざわりも、自分が選んだものではない。持ち込んだ荷は、まだ半分も解かれていない。この部屋には、自分の来歴を証すものが何ひとつなかった。


 アリシアは、寝台の端に浅く腰を掛け、膝の上で両手を重ねた。掌は、乾いて、冷たかった。心の臓は、ことさら速くも遅くもない。


 式のあいだと同じ温度が、そのまま、ここまで地続きに続いている。期待も、戸惑いも、色めいた予感も、そこにはなかった。


 世継ぎをなす。婚姻を、実務として完成させる。良き妃の型の、そのまた一つの型として。


 ――義務として向き合い、義務として果たせばいい。


 言い聞かせる声に、震えは一片もなかった。覚悟は、故郷を出るときに済ませてある。今夜は、その続きにすぎない。


 待つより、ほかにすることがなかった。


 この城へ来てから、あの少年が自分に求めたものは、一つもない。務めを訊けば「そう構えることはない。そなたは、着いたばかりだ」と返され、慣いを訊けば「城のことは、追って女官に伝えさせる」と返された。去り際にも、「そなたは、旅の疲れを癒すことだけ考えてくれればいい」。


 三度とも、しなくていい、と言われたのだ。


 その少年を、いま、待っている。この城へ来て初めて、果たさねばならぬものが与えられた夜だった。


 仮面は、これまで、人の集まる場でだけ保っていればよかった。寝所は、公の場ではない。それでも、外していい場所ではない。


 アリシアは、重ねた手に、わずかに力を込めた。窓の外で、北の秋の夜が、しんと更けていく。やがて廊の奥から、近づいてくる足音があった。


 扉が開いた。少年が、敷居をまたいで入る。


 夜着の上に、簡素な上衣を羽織っただけの姿だった。式の荘厳を解いた分、線の細さが、かえって際立って見える。こげ茶の髪が、灯にやわらかく縁取られていた。榛色の瞳は、初対面のときと同じ、穏やかな色をしている。


 アリシアは腰を上げ、妃としての礼を執ろうとした。


「――そのままでいい」


 低く、けれど角のない声が、それを止めた。少年は寝台の傍らまで来て、少し離れたところに腰を掛ける。務めを弁えた二人の、ほどよく隔たった距離だった。


 良き妃の顔は、崩さずにいられた。息を浅く、長く。衣ずれの音が立たないだけの角度で坐り、問われれば、いつでも答えられるようにしてあった。言葉の長さも、切り上げどきも、決めてある。


 けれど、問いは来ない。


 少年は、口を開かなかった。夜着の裾を直すでもなく、身じろぎ一つしない。ただ、そこにいる。灯が小さく爆ぜて、その音が、部屋の広さを教えるほど大きく聞こえた。


 沈黙が、長い。


 責められているのでも、迫られているのでもない。この少年が何を待っているのかが、分からない。分からなければ、応じようもない。


 衣ずれ一つ立てぬ角度を保っていることが、少しずつ重くなっていく。


 アリシアは、呼吸を一つ、深くした。それだけを、ゆっくりと。


 少年が、ふと口を開いた。


「畏まらなくていい」


 思いがけない一句だった。


 続く言葉も、同じ調子だった。


「私もそなたも、望んでここに座っているわけではないだろう。……せめて、面倒のない相手であってくれると助かる」


 飾りも、世辞も、そこにはなかった。妃を労わる甘い言葉でもなければ、夫としての威を示す高い言葉でもない。事実だけを、事実の温度のまま置いた声だった。


 アリシアは束の間、言葉を返しそびれた。


 虚を、突かれていた。


 構えていたのは、二択だった。甘言で懐柔されるか、低く扱われるか。閨で夫が妃へ向ける言葉など、そのどちらかだろうと思っていた。前者なら受け流し、後者なら黙って受ける。応じ方は、どちらの型も用意してあった。


 この少年は、そのどちらでもなかった。


 ――そういえば。


 帝都の広間で、自分は問いを一つ、口にした。答えは、返らなかった。問いの筋に触れる者は、そこにいなかった。咎められたのは、問うたのが誰であるか、その一点だけだった。退がる娘のために、人垣はきちんと開いた。開き方そのものに、言葉より多くのものが表れていた。


 父の執務室でも、同じだった。筋道を並べている途中で、父の手が動いた。払うほどの力もない、短い動きだった。策の先は、最後まで聞かれなかった。


 同じ策を、後になって兄が自分の言葉として述べたとき、父は頷いた。同じものが、出どころを変えただけで通った。


 どれも、腹を立てるだけ無駄な話だった。そして、どれも同じ一つの手つきでできている。こちらの言い分を、聞く前に仕分ける手つき。仕分ける先は、はじめから決まっている。


 この少年の言葉には、それがなかった。


 面倒のない相手であってくれると助かる。求められたのは、淑やかさでも、慎みでもない。面倒がないこと、それきりだった。それは、女に向ける言い方ではなかった。たまたま隣に据えられた誰かに向ける、言い方だった。


 ――この少年は、ひょっとすると。


 そこで、思うのを止めた。会ったのは、二日前に一度と、今夜と。これだけの材料で人を決めてしまうことの危うさは、よく知っている。


「……承知いたしました」


 短く、そう返した。妃の声で足りる場面だった。


 座標が、ほんのわずかに書き換わった。それだけのことだった。


 身じろぎする気配が、隣にあった。


 務めが、始まる。


 燭台の芯がまた短くなって、部屋の影を深くした。窓の外の夜気。遠くで、梢を渡る風の音。それらが、ふいに遠ざかっていく。


 義務として向き合い、義務として果たす。ほかには何も要らなかった。


 そして――目を伏せた。


 灯の揺れも、少年の気配も、まぶたの裏へ閉じ込めるように。


   *


 どれほどの時が経ったのか。


 務めは、果たされた。


 天蓋を見上げたまま、アリシアは動かずにいた。隣で、夫の呼吸が寝息に変わった。燭台の火はいつか落とされ、寝所は闇に沈んでいた。外では、梢を渡る風の音だけが、遠く続いている。


 身体は、確かに重ねた。婚姻は、実務として完成した。


 けれど、心は、動いていなかった。


 自分の裡を、順に確かめていった。あれほど身構えた閨だった。それなのに、残ったのは驚くほど平坦なものだった。羞じらいもない。悦びもない。嫌悪すら、ない。


 あとは、義務を一つ果たしたという乾いた事実だけだった。予想したとおりの、温度のない夜だった。


 ただ――動いたものが、一つだけあった。


 認識だ。


 あの、畏まらなくていい、という一言。


 身体を重ねたことは、朝が来れば、果たした務めとして数えられるだけのものになる。けれど、あの一言は違った。今夜の私に残ったのは、そちらのほうだった。


 この男は、何者なのか。


 その問いだけが、醒めた、知的なものとして残った。噂は有能で堅実と言い、二日前に会ったときは穏やかなだけの人に見え、今夜の言葉はそのどちらの絵にも収まらない。三つは、まだ一つに繋がらない。


 それでいい、と思った。


 情はいらない。ここで息を殺して生きていくのに、要るものではない。要るのは、隣で眠っているこの人を正しく読むことだ。読み違えれば、この先の何もかもが狂う。読み違えずにいられれば、少なくとも、次に何が来るかは分かる。


 夫の寝息は、変わらぬ間隔で続いていた。


 今夜得たのは、そのための、一枚の手がかりだった。


   *


 一夜が明けた。


 朝の光は、薄く、澄んでいる。窓から入る白さが、寝所の調度を、昨夜とは違う色で見せていた。夫は、すでに床を出て、政務へ向かったあとだった。


 寝台の隣は、すでに直されていた。


 クリスが、朝の身支度を整えに来ている。城付きの女官が一人、慣例に従って付き添っていた。


 髪を梳かれ、装いを改めながら、アリシアは女官の話を耳の端で受けていた。事務の合間に、声の調子も変えずに、女官は言い添えた。


「――エディトさまのお住まいは、東の棟にございます」


 愛妾が一人あることは、輿入れの前から聞いていた。


 その名を、頭が涼しく受け止める。エディト。おそらくは、どこぞの家が殿下に献じた娘だろう。この宮廷の勢力図のどこに、その名は置かれるのか。アリシアは、一項目を隅へ淡々と書き留めた。読むべき力学が、一つ増えた。


 ――あの夫は、愛妾のもとでは。


 ふと、そんな問いが、頭の隅で立ち上がりかけた。昨夜の、あの物言い。あれと同じ顔を、東の棟でも見せるのだろうか。それとも――


 櫛が、髪を分けていく。指が、耳の上でひととき止まり、また動いた。


 この宮廷で、妃としてどう振る舞うか。女たちの序列の、どこに自分を置くか。読むべきことは、ほかに幾らでもある。


 エディトという名は、勢力図の一項目として書き留めた。それで、済んだことだった。


「アリシアさま。……北の朝は、冷えますね」


 クリスが、肩へそっと羽織りものを掛けながら言った。


「ええ」


 アリシアは、羽織りものの前を軽く合わせた。窓の外には、北国の秋の朝が白く澄んで広がっている。昨夜の闇も、あの平坦な務めも、もう遠い。


 胸の底に、一枚の手がかりが残っている。この夫を、これからどう読むか。始めるとすれば、そこからだった。


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