第6話 父は慈父を、私は花嫁を
北の短い夏は、もう終わりかけていた。
支度の間の高窓から差し込む光は、三週間あまり前の帝国のそれよりも幾らか薄く、乾いている。庭の木々のいくつかは、早くも葉の縁を色づかせていた。冷えを含んだ風が、開け放たれた窓から絹の裾を撫でていく。婚礼の朝だというのに、アリシアの胸のうちは、その風とよく似た温度に凪いでいた。
「アリシアさま。……ほんとうに、お綺麗でございます」
鏡の脇から、クリスが声を弾ませた。今日、仕える相手が妃になる。この娘にとっては、それだけで晴れがましい朝なのだった。
「ありがとう。……あなたも、今日は忙しいでしょう」
「いいえ、ちっとも」
アリシアは、その返事に静かに頷いた。
父が着いた、と告げられたのは、支度が半ばを過ぎた頃だった。
サイラス・ピルインは、選帝公の格式をそのまま身に纏って、支度の間へ入ってきた。旅装ではない。北の地の婚礼にふさわしい、重厚な礼装。娘の花嫁姿を認めると、その顔に、ゆっくりと笑みが刻まれた。
「見違えたな、アリシア」
声は、柔らかかった。
「先ほど、殿下にもご挨拶申し上げてきた」
そう言うと、父は娘へ目を戻した。
「北まで、長い道のりであったろう。息災であったか。……こうしてお前の晴れ姿を見られるとは、私も、父として、これに勝る喜びはない」
――私、と父は言った。
アリシアは、その一語を静かに受け止めた。
二月半ほど前、あの執務室で聞いた声を、思い出さずにはいられなかった。あの日、この同じ口が「傷物だ」と言い放ち、娘を一枚の帳簿のように見下ろしていた。卓を叩いた拳の怒りも、あれは本物だった。あのとき父は、自らを「儂」と呼んでいた。むき出しの激情のままに、娘を叱りつける声で。
だが今日、この国の妃となる娘を前にして、父は「私」を選んでいる。同じ口が、場に応じて自らの呼び方すら選び分ける。
これは、演技だ。
むき出しの冷淡さなら、まだよかった。あの日の「傷物」という言葉は、少なくとも嘘ではなかった。だが今日の父は、労りを、喜びを、そつなく演じている。
その慈愛の底で、この人が本当に噛みしめているものが、アリシアには見えていた。あの日、自分を値の下がった駒と数えた。その駒が、いま北の祭壇に立っている。値の下がった駒を、破損なく北の得意先へ納めきった、商人の安堵。父自身が「ケハルディンの一件を帳消しにして釣りがくる」と言った、その取引を、まとめおおせたのだ。計算の一切を、父はこの温かな笑みの下へ、残らず仕舞い込んでいる。
情のある顔をされるからこそ、情のなさが際立った。むき出しの冷たさよりも、この演じられた温もりのほうが、よほど深く冷える。
「ありがたく存じます、父上」
アリシアもまた、花嫁の声で答えた。声の高さも、頭を下げる深さも、喜びの分だけを過不足なく。父が見事に慈父を演じているように、娘もまた、見事に幸福な花嫁を演じてみせる。
――ああ、そうか。
答えながら、腑に落ちるものがあった。
私は、この術を、この家で学んだのだ。本音を儀礼で覆い、情のない中身を情のある形式で包む。この完璧な仮面の被り方を、ほかならぬこの父から、幼い頃から見て、覚えてきた。血は、争えない。私がこれから北の城で演じようとしている「良き妃」は、いま目の前で父が演じている「慈父」と、地続きの技だった。
父は、二言三言、婚家への如才ない挨拶の言葉を並べ、それから娘に、健やかであれと告げた。その一つ一つが、正しく、美しく、そして何も入っていなかった。
「よき妻になりなさい。ピルインの名を、辱めぬように」
最後の言葉にだけ、ほんの微かに、父の素が滲んだ気がした。娘の幸福ではなく、家の面目。それが、この人の餞だった。
アリシアは、深く頭を垂れた。
「――仰せのままに」
もう、床に落ちる言葉を、拾い上げてもらおうとは思わなかった。
婚礼の式は、荘厳に執り行われた。
テンプレ教の聖堂に、無数の灯が点されている。高い天井まで昇っていく香の煙、居並ぶ参列者の衣擦れ、聖職者の低く長い唱和。北の交易国の富が、この一日のために惜しみなく注がれていた。硝子を透かした光が、床に色の斑を落とし、アリシアの純白の裾の上でゆっくりと揺れる。
誰の目にも、それは美しい婚礼だったろう。
アリシアは、その荘厳の中を、静かに進んだ。隣には、夫となる少年が並んで立っている。線の細い体を、この日は重い礼装が包んでいた。儀礼の相方として、ただ彼女の隣に在るだけ――そう思っていた。
祭壇の前で、二人は向きを変えた。
参列の席が、そのまま視界に入った。
帝国の側は、席が埋まっていた。皇帝の名代として遣わされた皇族。有力な諸侯の、それぞれの代理。この一日のために、これだけの人が北まで来ている。その厚みの中に、父がいた。帝国が、一つの意思で動いたように見えた。
フラリンの側には、この国に駐在する大使が、ひとり。
病を得た者があり、日程の調整もつかなかった――昨日、式次第を教わったときに、そう聞かされていた。参列者の名も序列も、紙の上で先に読んである。目の前に並んでいるのは、知っていたとおりのものだった。
王家の席には、こげ茶の髪の少女が、ひとりで座っていた。十三か、そこらだろう。この国の王は病篤く、息子の婚礼に出ていない。
アリシアは、それだけを見た。そして、目を祭壇へ戻した。
そのとき、視界の端に、隣に立つ少年の眼の動きが入った。
少年の視線は、彼女にではなく、参列の席にいる父へ向いていた。娘の晴れ姿を喜んでみせる、あの隙のない慈父の顔。少年はそれを、静かに、いくらか長く見ていた。
それから、その眼がゆっくりと滑って、隣の花嫁――アリシア自身の、寸分の乱れもない微笑の上へ移った。
口元が、ごく微かに動いた。
父の顔と、娘の顔と。少年は続けて検めて、それから、一人で頷いた。
視線は、じきに祭壇へ戻った。式の間、二人の言葉が交わることは、二度となかった。
聖職者の言葉が、二人の頭上を流れていく。永遠の契り。夫への従順。家を守り、子をなす務め。
アリシアは、凪いだ緑の瞳で、その一つ一つを受け止めた。
これは、誓いの言葉ではない。墓標に刻まれる銘だ。
ここで私は、良妻賢母という名の墓に、自分の手で入っていく。故郷の書斎で、ひとり寸法だけを測った墓。この城の門をくぐったとき、ここが墓所だと見定めた、その場所。その現物の中へ、いま、荘厳な儀式の手を借りて、静かに横たわろうとしている。
参列者たちが、祝福の面持ちで二人を見つめていた。だがアリシアの醒めた眼には、それは祝福というより、一つの承認に見えた。
北の盤面へ張られた駒が、正しく所定の升目に収まったことへの、立ち会いの承認。誰も、この花嫁の中身になど、目を留めていない。帝国でも、この北の聖堂でも、それは何一つ変わらなかった。
誓いの所作を、アリシアは滞りなく果たした。
従順に。聡すぎず。角を取って。良き妃の型から、指の先ほどもはみ出さぬように。素顔の聡さは、この純白の裾の下へ深く沈めて。灯の揺らめきの中で、彼女は微笑み、頷き、そして「妻」になった。
器が、公的に嵌まった。
唱和が終わり、儀式が結ばれても、アリシアの胸のうちは、朝の風と同じ温度のまま、凪いでいた。
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