第5話 どちらも、三つ目を訊かなかった
通されたのは、城の奥まった一室だった。
高い窓から差す午後の光が、磨かれた床に長い矩形を落としている。壁には見慣れぬ意匠の綴織。調度のひとつひとつが、この国の富をさりげなく語っていた。故郷の城の、質実で古びた重厚さとは違う。ここにあるのは、新しく、そして富める者の趣味だった。
その部屋の入り口で、ピルイン家の名代が、リューベック側の家宰へ深々と一礼した。
「アリシアさまを、確かにお引き渡し申し上げます。ピルイン選帝公家の名にかけて、恙なくお届けいたしました」
名代の所作は、非の打ちどころがなかった。選帝公家の格式を、指の先まで完璧に守った一礼。だが、その完璧さの底に何が沈んでいるかを、アリシアは知っていた。この男の役目は、預かったものを、言われた先へ過たず渡すことだった。それだけのことを、これほど美しい形式で果たしてみせる。
リューベック側が答礼し、引き渡しの儀は終わった。名代は再びアリシアへ向き直り、型どおりの言葉で暇を告げる。その眼が、ほんの一瞬、彼女の顔の上を滑った。労りではない。渡し終える前の、最後の一瞥だった。
アリシアは、静かに頷いて返した。
「大儀でした。家の者に、つつがなく着いたと」
「はっ。……どうか、お健やかに」
言葉だけは、慈しみ深かった。名代が退がり、扉の向こうへ消える。彼女をここまで運んできたものが、去っていった。
やがて、リューベック側の女官がしずしずと進み出て、慇懃に告げた。殿下がまもなくお越しになる、と。クリスは心得て、深く礼をし、下がっていく。扉が閉まる。
部屋に、アリシアは独り残された。
異国の、見知らぬ調度に囲まれて。送り届けた者はみな去り、これから相対する者は、まだ来ない。
――有能で、堅実。人を値踏みするような、醒めた眼の持ち主。
噂で組み上げた摂政王子の像を、アリシアは反芻した。相手が賢いなら、なおのこと隙は見せられない。すべては、良き妃の顔の下へ沈めておく。
袖口の縫い目を、指がひとりでに探した。もう、直すところはなかった。
緑の瞳を伏せ、その時を待った。
扉が開いたとき、アリシアはまず、その足音の軽さに気づいた。
重い威を纏って現れる男を、どこかで予想していた。だが入ってきたのは、思いのほか線の細い、少年だった。
こげ茶の髪。年の頃は、自分とそう変わらない。榛色の瞳は穏やかで、その佇まいには、身構えた相手の警戒をふと解かせるような、やわらかな信頼の気配があった。人がつい、本音を預けたくなる顔。――これが、あの噂の男。
供は敷居の外に控え、扉が閉まった。
「遠路、大儀だった。ピルイン公のご息女をこうして迎えられ、私も嬉しく思う」
声もまた、穏やかだった。アリシアは席を立ち、選帝公家の娘として非の打ちどころのない礼をとる。
「もったいないお言葉にございます。アリシア・ピルインと申します。ふつつかな身ではございますが、どうぞよしなに」
「長旅であったろう。掛けてくれ」
勧められるまま、アリシアは腰を下ろした。向かい合う。その距離で、彼女は改めて、目の前の少年を測った。
――穏やかすぎる。
噂の「醒めた眼」が、どこにも見当たらない。もっと油断ならない、剣呑な相手を想像していた。線の細い体つきと、それに合った穏やかな声。拍子抜けにも似た戸惑いが、胸の隅をかすめた。
「北の水は、口に合うだろうか。ピルインとは、ずいぶん風土も違おう」
答えは、考えるより先に出ていた。
「まだ着いたばかりでございますが……活気のある、豊かな都と拝見いたしました」
「そう見えるか」
少年は、やわらかく微笑んだ。
話はそのまま逸れて、式の日取りの確認へ戻っていく。旅の労い、風土の違い、段取りの念押し。互いに、型どおりの言葉を型どおりに交わす。表向きは、何ということもない、政略結婚の見合いの温度だった。
二日後の段取りが一巡したところで、アリシアは口を開いた。
「一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか。……この城で、わたくしが果たすべき務めがございましたら、お聞かせくださいませ」
「務め、か」
少年は、わずかに間を置いた。
「そう構えることはない。そなたは、着いたばかりだ」
アリシアは目線を落として頷き、続けた。
「では、殿下のお身のまわりで、心得ておくべき慣いなどがございましたら」
「城のことは、追って女官に伝えさせる。作法も、こちらのやり方に馴染んでもらえればよい」
やわらかい声だった。どちらの答えにも、掴めるものはなかった。
次に何を訊けばよいのかが、思い浮かばなかった。
少年が、腰を上げた。
「――式のことは、こちらで整えておく。そなたは、旅の疲れを癒すことだけ考えてくれればいい」
「……過分なお心遣い、痛み入ります」
答える声は、どこまでも従順な花嫁のものだった。
少年は頷いて、扉のほうへ歩いていった。足音は、入ってきたときと同じ軽さだった。
少年が退がったあと、アリシアはしばらく、その席を動かなかった。
窓の外では、午後の光がいくらか傾いている。磨かれた床の矩形が、来たときより少し伸びていた。部屋の静けさは、少年が入ってくる前と、出ていったあととで、何も変わっていない。
――大したことはない。
それが、初対面の見立てのすべてだった。
噂が、大きすぎただけだ。有能で、堅実。そこまでは聞いていたとおりだった。だが、あの噂の眼は、どこから出た話なのだろう。この部屋で相対したのは、穏やかで、堅実で、線の細い少年だった。それだけだ。
厄介では、なかった。
考えることが、一つ減った。
思いは、二日後の式へ移っていた。
立ち位置。順序。異国の作法が故郷とどう違うのか。どこまでが型で、どこからが目こぼしされるのか。教わる相手は、明日にでも寄越されるだろう。覚えることは、多い。
やがて扉が鳴り、女官が湯の支度の済んだことを告げに来た。
アリシアは席を立った。
異国の城での、最初の一日が、暮れようとしていた。
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