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政略結婚した令嬢ですが、夫が優秀な凡人なので世界の裏側は私が回します  作者: モモ
第1部 第1章

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第4話 弟には教え、自分には使わない

 発つ前夜、荷はあらかた縄をかけ終えていた。


 壁から掛けものが外され、部屋は明るいまま、どこか薄くなっている。クリスは最後の目録を検めに階下へ下りていた。


 扉が、控えめに鳴った。


「……姉上」


 ダーフィトが、敷居の内側に立っていた。入るとも帰るとも言わず、そこで止まっている。アリシアが目で示すと、弟は二歩だけ進んで、また止まった。


「明日、朝のうちに発つのですよね」


「ええ」


 弟は、積まれた木箱のほうを見ていた。


「兄上は、いずれこの家を継がれます。姉上は、北へ行かれます。……僕は、いずれどこかの代官にでも……」


 語尾が、いつものように細くなった。


「そうね」


 アリシアは、袖の紐を結び直しながら答えた。


「――代官になったら、帳面より先に、誰が誰に貸しがあるかを覚えなさい」


「……貸し、ですか」


「そう」


 弟は頷いた。分かったとも、そうでないとも取れる頷き方だった。


 アリシアは、紐の端を指で整えた。


「……それから。小金を得るより、人心を得ることです。それが、あなたの財産になりますから」


「……はい」


 ダーフィトは、それだけ言った。意味を確かめるふうでもなく、続きを待つふうでもなかった。


 やがて弟は一礼し、来たときと同じ静かさで部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 アリシアは、結びかけの紐に手を戻した。


   *


 翌朝は、よく晴れていた。


 城門の前に馬車が寄せられ、荷を積んだ車がその後ろに繋がれている。供の者たちが最後の縄を確かめ、馬が石畳を蹴った。


「支度は済んだな」


 父は、娘の顔ではなく、後ろの荷車のほうを見ていた。


「先方へは、儂から文を出してある。境までは我が家の者がつく。そこから先は、向こうの差配だ」


「はい」


「……この縁は、我が家にとって大きい。ピルインの名に、傷をつけるな」


「かしこまりました」


 アリシアは、頭を垂れた。角度も、間の取り方も、過たずに。


 父はそれで用が済んだらしく、傍の者を呼んで別の話を始めた。


 かわりに、兄が一歩前へ出た。


「体をいとえよ。長い道だ」


 コンラートはそれだけ言って、退がった。


 ダーフィトは、兄の隣に立っていた。父が話す間も、兄が言葉をかける間も、ただ立っていた。アリシアが馬車へ向かうときも、弟は何も言わなかった。


 扉が閉まり、車輪が回り始める。


 馬車は北へ向かった。二十日あまりの道のりの、その終わりに、リューベックの王都があった。


 城壁の門をくぐった瞬間、馬車の窓の外がにわかに色を増した。


「まあ……アリシアさま、ご覧ください。すごい人ですよ」


 向かいの席で、クリスが身を乗り出した。栗色がかった髪が窓の光に揺れる。幼い頃から傍に仕えてきた侍女は、いまは十八の娘らしい素直さで、目の前の景色に見入っていた。


「ザクソンのお祭りより、ずっと……。毎日がこうなんでしょうか」


 アリシアは、緩く頷いて返した。


 クリスの言うとおりだった。石畳の大路には荷車と人の波が絶えず、両側の間口の広い商館からは、聞いたこともない訛りの声が幾重にも飛び交っている。麻袋を担いだ男、量りを抱えた番頭、色鮮やかな反物を積んだ台車。荷を捌く怒声と、値を競る早口と、どこか遠くの呼び売りの声とが、一つの大きなざわめきに溶けて路上を満たしていた。


 匂いも、絶え間なく移り変わる。潮の湿り気に、焼けた鉄と煤。香辛料の乾いた刺激が鼻をかすめたかと思えば、次の角では魚と、なめした革の匂いが濃くたちのぼる。故郷の内陸の町とは、流れている血の速さが違う。ここでは、あらゆるものが休みなく動き、金に変わっていく。


「あちらの硝子、見てくださいまし。陽が透けて……あんなに綺麗なもの、初めて見ました」


 クリスが窓の桟に指を添えて、声を弾ませる。その頬は上気し、瞳は次から次へと移る景色を追うのに忙しい。故郷の祭りの露店を一つずつ覗いて回った、あの頃と同じ目だ。


 窓枠に頬杖をつくでもなく、アリシアはただ、その景色を眺めていた。


 ――豊かな国。


 誰の目にもそう映るだろう。海路と陸路が交わる北の交易の都。富がここへ集まり、ここから散っていく。クリスが「すごい」と感嘆するのは、正しい。この街は、間違いなく栄えている。


 けれど、と。


 凪いだ緑の瞳が、賑わいの表面を、そっと滑り始めた。


 賑わいは、一様ではなかった。


 大路を進むにつれ、アリシアの目は、街のつくりそのものを拾い始めていた。港の方角から吹き込む風には、鉄と煤の匂いが繰り返し混じる。硝子。この街の名を高からしめた品だ。商館の看板にも、荷車の積荷にも、店先に吊るされた見本の輝きにも、それは幾度も現れた。どの通りへ目をやっても、行き着く先にはあの品がある。一つの街が、一つの産物に凭れている――そこまで思って、思考が勝手に次の目盛りへ滑った。


 富は、均されて配られはしない。


 窓の外を、人の流れが幾筋も横切っていく。上等な外套の一団が悠然と大路の中央を行けば、その足元を縫うように、痩せた身なりの子らがすり抜けていく。裸足の踵が石畳を蹴り、荷車の隙間へ吸い込まれて消える。同じ街の同じ刻に、着ているものの厚みがこれほど違う。毛皮の襟に顎を埋めた者と、継ぎの当たった単衣に肩をすぼめる者とが、触れ合わんばかりの近さですれ違い、互いに見てもいない。


 荷を担ぐ男たちの背は、一様に丸かった。重さのせいばかりではない。その顔には、故郷の農夫とは別種の疲れがあった。畑に根を張った者の日に灼けた疲れとは違う、もっと乾いた、寄る辺のなさ。土地を持たず、季節を持たず、ただ人の多い場所へ流れ着いた者の顔だ。


 ――流れ込んでいる。


 豊かな街には、豊かさの噂を頼って人が集まる。仕事を求めて、遠くの村から、痩せた土地から。だが街が抱えられる腕の数には、限りがある。あぶれた者は、どこへ行く。街の外へは、もう戻れない。戻る土地がないから出てきたのだ。ならば残る。この街の、どこかに。


 大路から逸れる細い路地の口が、目の端を過ぎた。


 表通りのひとつ裏。陽の差さないその奥で、幾つかの影がうずくまっている。積み上がったまま片付けられぬ空樽、饐えた匂いの気配、こちらを窺う視線の鈍い光。子どもか、老人か、判じかねる背中が壁に貼りついている。表通りの活気が明るく華やぐほど、その一筋奥の翳りは、対比の分だけ濃く沈んで見えた。光の強さが、そのまま影の深さになっている。


 賑わいと、その裏の澱み。像は、音もなく繋がっていく。人が集まり、あぶれ、澱み、澱みは掃き出す先もないまま膨らんでいく。膨らんだものは、いつか――。


 そこまで像が伸びて、ふと、その先で像の輪郭がほどけた。


 この澱みを、どうすれば。


 問いの形だけが、胸の内でくっきりと立った。だが、その問いに応える像は、結ばなかった。結ぼうとする手前で、何かがそっと逸れていく。答えを探す前に、探すことそのものが、遠い他人事のように薄れていった。――見えたところで。見えたところで、私に何ができるというのだろう。


「――この国は」


 気づけば、口が動きかけていた。


 街の綻びが、あまりに明瞭に見えてしまったから。栄えている、と誰もが言うこの都の、その繁栄がやがて自分の裏側で腐りかねないという、その筋道が。言葉は喉元までせり上がり、あと半歩で音になろうとして――


 ――小娘が、政を語るな。


 父の声が、反射のように喉を締めた。


 息が、喉の途中で止まる。せり上がったものが、行き場を失って胸へ引き返していく。


 アリシアは、目を伏せた。


「……いえ。なんでもないわ」


 飲み下す。喉の奥へ、胸の底へ。いつものように、深いところへ沈めて、蓋をする。


「アリシアさま?」


 クリスが、小さく首を傾げた。訝しむのではない。ただ、主が何か言いかけて止めたことに気づいて、気遣わしげに言葉を探している。その素直な瞳に、詮索の色はなかった。


「なんでもないの。少し、疲れただけ」


 アリシアは、頬にやわらかな線を作ってみせた。クリスの前でだけ許される、けれど今日は素の顔さえ仕舞い込んで、妃の顔の側へ寄せた微笑。クリスは安心したように、また窓の外へ目を戻す。


 馬車は、進み続けていた。


 賑わいも、路地の翳りも、後ろへ流れて過ぎていく。見えてしまったものは、もう見なかったことにはできない。けれど、見えたからといって、どうなるものでもない。


 やがて、街のざわめきが遠のいた。


 馬車は大路を抜け、緩やかな坂を上りはじめる。窓の外を流れる景色から、雑多な人いきれが少しずつ引いていき、かわりに石造りの塀と、手入れされた並木が続くようになった。車輪の音までもが、心なしか静かに変わる。喧騒の澱みは、もうどこにも見えない。ここから先は、統べる者の領分だ。


 坂の上に、それは現れた。


 北の交易国が富を注いで築いた居城。海に向かって開いた街を背後に従え、灰白色の石壁が午後の光を鈍く弾いている。壮麗ではあった。けれど、アリシアの目に映ったのは、美しさよりも先に、この壁の内側で待つものの重さだった。


 ――ここが、墓所。


 あの夜、書斎でひとり測った寸法の、その現物が目の前にある。良妻賢母という名の墓。これから自分が、息を殺して埋まっていく場所。


 馬車の速度が落ちていく。


 アリシアは、膝の上で両手を重ね、背筋を静かに伸ばした。


 瞼を一度、伏せて、上げる。


 顔から、余分なものが消えていた。緑の瞳は静かに凪ぎ、頬にはやわらかな線が戻っている。従順で、聡すぎず、角の取れた――良き妃の顔。この顔で、微笑めばいい。この顔で、頷けばいい。あの夜、決めたとおりに。


「クリス」


「はい」


 唇が、わずかに動いた。音になる手前で、アリシアはそれを自分で閉じた。


「……髪を、整えて」


「……はい、ただいま」


 クリスの手が、手早く後れ毛を直していく。その慣れた指の動きにだけ、束の間、身を委ねた。この娘の前でなら、まだ少しは息ができる。けれど、この門をくぐればもう、それも仕舞わねばならない。


 城門が、ゆっくりと開いていく。


 アリシアは、まっすぐに前を向いた。仮面の下に何を沈めたかは、誰にも知られぬまま。演じる妃が、その舞台へ入っていく。


 馬車は、静かに門をくぐった。



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