第3話 同じ策、ただし兄の口から
父の怒りは、十日が過ぎても冷めなかった。
夕餉の卓に、四人が着いていた。上座に父サイラス、その右に兄コンラート、向かいにアリシア、末席に異母弟のダーフィト。給仕の者が皿を置いて下がると、部屋には食器の触れ合う音だけが残った。
父はほとんど手をつけていない。杯を持ち上げては置き、置いては、また同じ話を始める。
「詫びの一言もなしよ。あの書状の、あの空欄を見たか」
誰も答えなかった。答えを求めている問いではないと、この卓の全員が知っている。この十日、父は同じ言葉を繰り返している。ケハルディンの不義。選帝公家の面子。境を越えるのに三日もかからぬ、と。
アリシアは、皿の上の肉を静かに切っていた。
あの執務室から、彼女は一度も口を開いていない。下がっておれ、と言われたのだ。それ以上の指示は、まだ来ていない。
末席のダーフィトは、背を丸めて皿を見ていた。父の機嫌が悪い日、十一の弟はいつもそうしている。
「父上」
兄が、杯を置いた。
「……一つ、思いついたのですが」
サイラスの眉が上がった。だが、手を振る仕草はしなかった。
「ケハルディンへ兵を向けるのは、おやめになったほうがよろしいかと存じます」
「……ほう」
「あの家が単独で父上に弓を引くはずがございません。後ろに、北東のあの御方がついております。我が家が北の隣家に兵を向ければ、待っていたとばかりに、北部の乱れを鎮めるという名目で兵が出ましょう。我が家とケハルディンが削り合えば、得をするのはあちらでございます」
言葉は、正確だった。順序も、ほとんど同じだった。
「ですから、逆でございます。南のハーベンブルク公と、手をお結びください。北西の我が家と、南のハーベンブルク。二家で北東を南北から挟めば、あの御方は迂闊に動けませぬ。ケハルディンの寝返りも、宙に浮きます」
アリシアは、肉を切る手を止めなかった。
「ハーベンブルクが、なぜ乗る」
サイラスが、杯の縁越しに息子を見た。
「南は遠い。北の揉め事に、わざわざ首を突っ込む道理がなかろう」
コンラートの口が、わずかに開いて、そのまま止まった。
「……それは。あちらにも、利がございますゆえ」
「利とは」
「……北東が、強くなりすぎるのは、南にとっても」
言葉が、そこで細くなった。
サイラスは、しばらく黙っていた。杯を置き、指先で卓を二度叩いた。帳尻を合わせる商人のような手つきだった。
「――そうか。シュタデーンが帝都へ手を伸ばせば、まず割を食うのは南よ。あの家は帝国の中枢に長く座っておる。新参に中央を荒らされて、黙っておるはずがない。……こちらから声をかけてやれば、乗らぬ道理がないな」
そこまで言って、サイラスは膝を打った。
音が、卓の上で跳ねた。
「見事だ、コンラート」
父の顔から、十日ぶんの険が引いていた。
「そうだな。挙兵など、あの寝返り者の思う壺だったわ。よくぞ気づいた。……儂も焼きが回ったな。倅に先を越されるとは」
笑いながら言っている。焼きが回ったなどと、微塵も思っていない声だった。嫡男が家の先を読んでみせた。この男には、それが何より嬉しいのだ。
「明日にも南へ使者を出す。文面は儂が見る。コンラート、お前も来い」
「はっ」
アリシアは、皿を見ていた。
同じ言葉だった。順序も、ほとんど。ただ、口が違った。
――ああ。
盗まれた、とは思わなかった。盗まれたと思うためには、それが自分のものだと信じていなければならない。彼女は、自分にそれだけの値があると思ったことがなかった。
だから、胸に落ちてきたのは怒りではなかった。もっと静かなものだった。あの広間で薄々分かっていたこと。この城の執務室で確かめたこと。それが今、身内の口から、事実として告げられただけだ。
筋は、正しかったのだ。
ただ、彼女の口から出ては、通らないというだけで。
父が使者の段取りを話し始めた。誰を立てるか、どの街道を使うか。兄が身を乗り出して相槌を打っている。
その卓の端で、ダーフィトが顔を上げた。
弟は、姉を見ていた。
それから、おずおずと父のほうへ向き直った。
「……あの、父上。姉上が、前に……」
「――いや、北回りでは日数がかかりすぎる」
父の声が、弟の声の上に重なった。サイラスは卓の向こうへ身を乗り出し、兄と道筋の話を続けている。
誰も咎めなかった。誰も、振り向きもしなかった。
ダーフィトの口が、半分開いたまま、閉じた。
アリシアは、弟に微笑んでみせた。それから、わずかに首を振った。
それだけだった。
卓を辞したのは、それから半刻ほど後だった。
廊下は暗く、燭台の灯が壁に長い影を落としていた。自室へ向かって歩き出すと、後ろから足音が並んだ。
コンラートだった。
兄はしばらく黙って隣を歩き、それから、思い出したように口を開いた。
「ああ、そうだ。……あれのことだが」
アリシアは足を止めた。兄も止まった。
「お前が言っても、誰も聞かんだろう。俺が言うから通る。家のためだ」
嘲る色はなかった。得意げでもなかった。年下の者に手順を教えてやるような、ごく淡々とした声だった。
反論する言葉を、アリシアは探さなかった。
探すまでもなかった。兄は、事実を言っている。あの広間で、彼女の筋に耳を貸した者は一人もいなかった。この城の執務室でも同じだった。そして同じ策が、兄の口から出た途端に通った。証明は、たった今、目の前で終わったばかりだ。
彼女は、頭を垂れた。
従順に見えるだけの角度で。
コンラートは満足したように頷き、先に歩いていった。妹が何も返さなかったことを、気にした様子もなかった。
廊下に、彼女だけが残った。
*
南へ使者が発ってから、城の空気が変わり始めた。
アリシアは自室からそれを眺めていた。街道を行き来する馬が増えた。夜半まで執務室に灯がともり、家宰たちが声をひそめて廊下を過ぎていく。父の機嫌は、日を追うごとに直っていった。
往来は、南だけではなかった。
北へ発つ者がいる。北から来る者がいる。南へ向かうのとは別の街道を、別の紋章の馬が使っている。南の首尾がどうなったかを彼女に告げる者はいなかったから、窓から数える馬の数だけが、それを教えた。
――商談が、まとまりかけている。
傷物の娘を抱えた父が、これほど早く上機嫌を取り戻すからには、答えは一つしかない。値の下がった駒に、思いのほか良い買い手がついたのだ。
やがて、父に呼ばれた。
「北へやる」
サイラスは、もう怒ってはいなかった。あの執務室の激情は跡形もなく、かわりに、手の内の駒が高く売れると気づいた商人の満足が、その顔に浮かんでいる。
「お前を欲しがっている家がある。北の、な。悪い話ではないぞ。むしろ我が家にとっては、ケハルディンの一件を帳消しにして釣りがくるほどの良縁よ」
父は上機嫌のまま、付け加えた。
「しかも、話は向こうから来たのだ。こちらが頭を下げたのではないぞ。傷物を抱えて売り込んだのでもない。向こうが欲しがったのだ」
そこで父は、満足げに言葉を切った。相手の名は、告げなかった。告げるまでもないと思っているのか、それとも娘に考える余地を与えぬためか。
アリシアは、また従順に頭を垂れ、下がった。
書斎の扉を閉めると、城の喧騒が遠くなった。
アリシアは窓辺に寄り、外の暮れかけた空を見るともなしに眺めた。父の上機嫌も、家臣たちの気忙しさも、この部屋の扉一枚で届かなくなる。ここでだけ、彼女は表情を仕舞うことができた。
北へやる、と父は言った。
感情を脇へ置いて、彼女は父の言葉を反芻し始める。悔しさでも、不安でもなく、ただ盤面を読むように。父が「釣りがくるほどの良縁」と呼び、名を伏せた相手。北の、我が家が欲しがられる家。この、半月あまりの水面下の往来。
北。帝国の北に接する、外の国。
情報の断片が、ひとりでに並び始めた。北部でのシュタデーンとの睨み合い。アンハントを巡って、もう何代も削り合っている。父が欲しいのは、あの家に対する足場だ。北の外に一つ後ろ盾を持てば、北東を東西から見ることができる。
それに――帝国がいつか北へ手を伸ばすことがあれば、その足がかりを先に押さえていた家が、主導権を握る。「北伐」の話をするときの父の、あの妙に熱のこもった声。もっとも、帝都がそれを本気で決めたという話は、まだ一度も聞かない。あればよし、なければそれまでの、保険のようなものだ。
足がかりとして最も欲しい相手は――北の交易国。海路と陸路の要衝を押さえ、北方随一の富を持ちながら、帝国とフラリンに挟まれて自立の足腰は脆い、あの国。
――リューベック。
像が、音もなく結んだ。
北の交易王国リューベック。その世継ぎ。名は、アルベルト。
父の思惑が、透けて見えた。リューベックは背後を固める後ろ盾が欲しい。父は北東に対する足場が欲しい。婚約破棄で値の下がった娘を、その継ぎ目に嵌める。半月あまりの間、水面下で交わされていたのは、この取引だったのだ。
――釣りがくるほどの良縁。
その言い方は、正確だった。良縁の値が高いのではない。娘の値が下がったから、釣りがくるのだ。
話は向こうから来た、とも父は言った。
それも読めた。リューベックは長く南のフラリンに寄りかかっている。寄りかかる先が一つきりというのは、寄りかかられる側にとってだけ都合がいい。あの国は、帝国へ通じる細い管が欲しいのだ。ならば選帝公家の娘は、値が下がっていようと釣り合う。
筋が通ってしまえば、それ以上を掘る理由はなかった。
噂に聞く世継ぎの像を、彼女は淡々と組み上げていく。才走った暴君でもなく、無能でもない。よく見れば十分に有能な、堅実な世継ぎ。人を値踏みするような醒めた眼の持ち主だ、という話も、どこかで耳にした気がする。――だが、それがどうしたというのだろう。相手が賢かろうと愚かだろうと、嫁ぐ娘に選ぶ余地はない。
彼女は、その男に会ったことがない。
窓の外で、最後の光が屋根の向こうに落ちた。
冷静に盤面を読み終えた、その裏側から、別のものが静かに突き上げてきた。
――結局、私は。
どれだけ筋を読もうと、どれだけ先を見通そうと。父の武力報復を止める策を組み上げても、シュタデーンの企みを見抜いても。その頭のすべては、床に落ちて踏まれるだけだった。あの夜会でも、この城でも。
一度だけ、踏まれずに拾われた。拾ったのは、彼女の手ではなかった。
そして今また、彼女は北の盤面へ張られる一枚の駒として、値をつけられ、送られていく。
子を、産む道具。
その言葉が、これほど正確に自分を言い当てる日が来るとは思わなかった。家と家を継ぐ腹として、値の下がったところで北へ回される。頭の中身は、値には数えられない。数えられるのは、生まれと、腹だけ。
どこへ行こうと、同じだ。
実家の壁も、婚約者の腕も、北の見知らぬ城も、格子の形が違うだけで、みな籠だった。逃げた先にまた籠がある。聡いから、それがはっきりと見える。見えるのに、出られない。見える分だけ、逃げ場がないと正確に分かる。――知恵など、こんなときには何の慰めにもならなかった。むしろ、絶望の輪郭を鮮明にするだけだ。
アリシアは、窓辺で長いこと動かなかった。
やがて、胸の底で何かが、ゆっくりと沈んでいくのを感じた。怒りではない。怒りなら、まだ熱がある。これは、もっと冷えたものだった。
――もう、いい。
才も、正しさも、もう振るうまい。振るったところで、こうなる。それを、彼女は今日までに充分すぎるほど思い知った。振るえば黙殺され、踏まれ、そのたびに籠の格子を確かめるだけだ。ならば、振るわないほうがいい。しまい込んで、鍵をかけて、二度と開けないほうが。
テンプレ教の教える、良き妻。夫を立て、余計な口を挟まず、子を産み、家を守る。世が女に許した、たった一つの生き方。それを、演じよう。
演じきって、そこに埋まろう。
北の大地は、彼女にとって、新しい何かを始める場所ではなかった。今の自分を――理を読み、盤面を組み替え、先を見通してしまうこの厄介な自分を――静かに殺して、埋める場所だった。良妻賢母という名の墓に、自分の手で入るのだ。そうすれば、もう踏まれて痛むこともない。痛む「自分」を、先に消してしまえばいい。
それは、諦めというより、投降に近かった。世界に向かって、両手を挙げる。もう抗いません、と。籠を壊そうなどとは、露ほども思わなかった。壊す力もなければ、壊す意志も、もう湧いてこない。ただ、籠の中で息をひそめ、少しずつ自分を薄くしていく。それが、いちばん傷の浅い生き方だと思えた。
窓に映る自分の顔を、アリシアはしばらく見つめた。
あどけない少女の顔だ。緑の瞳は、今は静かに凪いでいる。この顔で、微笑めばいい。この顔で、頷けばいい。聡さは、この奥へ沈めておく。誰にも見つからないよう、深く、深く。
演じる妃になろう、と彼女は決めた。
それは、仮面の下で牙を研ぐための決意ではなかった。仮面をかぶって、その下の顔ごと窒息させるための決意だった。感情を殺し、聡さを隠し、良き妻の型に自分を流し込む。型からはみ出すものは、そのつど切り落とせばいい。切り落とすものが尽きたころには、たぶん、楽になっている。
北へ発つ日取りは、じきに決まるだろう。
彼女は窓辺を離れ、灯を一つだけ点した。小さな明かりが、書斎の隅をぼんやりと照らす。その光の中で、アリシア・ピルインは、これから自分が入る墓の寸法を、静かに測り始めていた。まだ見ぬ北の城の、まだ知らぬ夫の隣で、どう息を殺していくか。そればかりを、淡々と。
外は、すっかり夜だった。
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