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政略結婚した令嬢ですが、夫が優秀な凡人なので世界の裏側は私が回します  作者: モモ
第1部 第1章

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第2話 献策、ただし小娘が

 帝都からの噂は、馬より速く北へ届いていた。


 アリシアがピルインの城へ戻ったとき、城の者たちはもう何もかも知っていた。表向きは、何ひとつ変わらない。侍女は変わらぬ手つきで髪を梳き、家宰は変わらぬ辞儀で朝の予定を告げる。ただ、その言葉の選び方だけが、ほんの少し丁寧になっていた。触れてはならぬ器を扱うときの、あの慎重さで。


 廊下ですれ違う家臣たちの話し声は、彼女の足音に気づくと、きまって途切れた。途切れ方までが丁寧だった。


 ――憐れまれてはいない。


 彼女はそう読んだ。城の者たちが気を遣っているのは娘ではなく、この家の格に付いた傷のほうだ。傷がいくらの値になるのか、まだ誰にも分からない。だから、様子を見ている。


 その三日を、アリシアは自室で過ごした。


 することがなかったわけではない。何もするなと命じられたわけでもない。ただ、机の前に座って、頭の中で盤面を並べ直していた。あの広間で何が動いたのか。誰が誰を釣り、その釣り針は次にどこへ落ちるのか。帝都へ通じる北の門が開けば、まず削られるのはどこか。


 考えたところでどうにもならないと、分かってはいた。分かっていて、やめられなかった。指が勝手に数を数えるようなものだ。もう何の役にも立たないと知っている手が、それでも動く。


 書状は、噂の後を追うようにして届いた。


 ケハルディン侯爵家当主の署名と、家の印。婚約の解消を正式に通告する、一通。あの夜、広間で彼女が求めたとおりの体裁が、過たず整えられていた。


 そして、理由を記すべきところに書かれていたのは、これだけだった。


 ――双方の家の事情により、この度の縁組は解消いたしたく。


 ピルインの城に戻って三日、父の執務室に呼ばれたとき、アリシアは何を言われるか正確に見当がついていた。


「傷物だ」


 開口一番、父サイラス・ピルインはそう言った。選帝公の執務机を挟んで、娘を一枚の帳簿のように見下ろしている。


「公の場で婚約を破棄された娘など、帝国じゅうの物笑いの種よ。あの夜会からこちら、帝都で何と囁かれておるか知っておるか。ピルインは娘の躾もできぬ、とな。選帝公家の格に、たかが侯爵家の小倅が泥を塗ったのだ。……その上、これだ」


 卓上には、あの書状が広げたままになっていた。父はそれを指の背で弾いた。


「詫びの一言もなし。これが、選帝公家へ寄越す文か。ケハルディンめ、この儂に恥をかかせておいて、ただで済むと思うな」


 卓上で、父の拳が音を立てた。怒りは本物だった。だがその怒りが、娘の受けた屈辱に向いたものでないことを、アリシアは知っていた。傷ついたのは父の面子であって、娘の心ではない。


 アリシアは、書状の余白を見ていた。


 父にとって、あの空白は無礼の証でしかないのだろう。書く気がなかったのだ、と。


 ――いいえ。


 書けなかったのだ。


 家格の不釣り合いは、書けない。ケハルディンは侯爵で、ピルインは選帝公である。下から上への破約に、格を理由として並べることはできない。あの夜、広間で言い立てた文言はなおのことだ。聡すぎる、口が過ぎる――そのようなものを選帝公家宛の公文書へ載せれば、恥をかくのはあちらの家である。


 書ける理由が、一つもなかった。残っているのは、紙に載せられるはずのない一つきりだ。北東のあの御方と話がついている――そう書けば、家の印を押した謀反の証文を、選帝公家へ自ら差し出すに等しい。


 だから欄が空いた。空いた欄が、そのまま答えになっている。


 アリシアは、それを口にしなかった。


 言えば、あの広間と同じ言葉が返ってくるだけだ。


 父の斜め後ろに、兄が立っていた。


 コンラート・ピルイン。ピルインの嫡男である。家の面子にかかわる話であれば、いずれ跡を継ぐ者が同席するのは当たり前のことだった。兄は窓を背にして手を後ろで組み、父と妹のやり取りを黙って眺めている。口を挟む立場ではないし、挟む理由もない。


 アリシアは、そこに視線を留めなかった。


 この部屋で向き合うべき相手は、父だけだった。


「兵を挙げるおつもりですか」


 静かに問うと、サイラスの眉が跳ねた。


「当然だ。ケハルディン領は目と鼻の先よ。五日もあれば、兵は境を越える。しかも、あの書状だ。理由の一つも添えぬまま、下から上へ一方的に約を破りおった。非はあちらにある。帝国のどこへ持ち出しても、理は儂にあるのだ。あの寝返り者に、選帝公家を軽んじればどうなるか教えてやる」


 名分としては、正しい。


 ――だから、危ないのだ。


 名分のある戦ほど、止まらない。理はこちらにあると信じている者は、退く算段を立てない。


「おやめくださいませ」


 アリシアは、声を荒げなかった。この三日、幾度も頭の中で組み直した筋を、そのまま差し出した。届かぬかもしれぬとは思っていた。それでも、言わずに済ませられる話ではなかった。兵を挙げれば、真っ先に焼かれるのは境の村である。家が傾けば、傾いた家に残る者は、みな一様に値を下げる。父の面子で済む話ではないのだ。


「ケハルディンが単独で父上に弓を引くはずがございません。あの家の後ろには、北東のあの御方がついております。ここで我が家が兵を向ければ、待っていたとばかりに、あの御方が『帝国北部の乱れを鎮める』名目で兵を出しましょう。我が家とケハルディンが削り合えば、漁夫の利を得るのは――」


「シュタデーンだ、と言いたいのか」


「はい。ですから、逆でございます」


 アリシアは、わずかに機を進めた。


「北で睨み合う我が家に、南のハーベンブルク公と手を結ばせるのです。ハーベンブルク公とて、シュタデーンが帝都へ手を伸ばすのは望んでおられぬはず。北西の我が家と、南のハーベンブルク。二家で北東のシュタデーンを南北から挟めば――」


 視界の端で、兄がわずかに顔を上げた。


 兄は昔から、人の話をよく聞く。聞くだけだ。アリシアは目を父へ戻し、続けた。


「――シュタデーンは迂闊に動けませぬ。ケハルディンの寝返りも、宙に浮きます。兵を挙げるより、よほど――」


「もうよい」


 父の声が、娘の筋を断ち切った。手を振る仕草が添えられていた。卓上の埃を払うような、ごく短い動作だった。


 サイラスは、娘を見てはいた。だが、その言葉を聞いてはいなかった。娘の口から出た策の中身ではなく、娘が策を口にしたという事実そのものに、うっすらとした不快が滲んでいる。


「小娘が、政を語るな。そういうところだ。そういうところが、ケハルディンにも見限られる因よ。……下がっておれ。お前の身の振り方は、いずれこの儂が決める」


 アリシアは、口を噤んだ。


 筋は通っていた。父もそれを、頭のどこかでは分かっているはずだった。老練な選帝公が、シュタデーンの脅威に無自覚なわけがない。それでも父は、娘の策を「策」として受け取れない。娘は策を出す器ではなく、嫁がせて使う駒なのだから。


 ――ああ、また、これだ。


 あの夜会と、何ひとつ変わらない。理が正しいかどうかは、問われない。それが女の口から出たという、ただその一点で、全ては床に落ちて踏まれる。籠の格子は、実家の壁にも寸分たがわぬ形で嵌まっていた。


 アリシアは、頭を垂れた。従順に見えるだけの角度で。


「……仰せのままに」


 それ以上、何も言わなかった。言葉は、もう床に落ちるだけだと知っていたから。



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