第2話 献策、ただし小娘が
帝都からの噂は、馬より速く北へ届いていた。
アリシアがピルインの城へ戻ったとき、城の者たちはもう何もかも知っていた。表向きは、何ひとつ変わらない。侍女は変わらぬ手つきで髪を梳き、家宰は変わらぬ辞儀で朝の予定を告げる。ただ、その言葉の選び方だけが、ほんの少し丁寧になっていた。触れてはならぬ器を扱うときの、あの慎重さで。
廊下ですれ違う家臣たちの話し声は、彼女の足音に気づくと、きまって途切れた。途切れ方までが丁寧だった。
――憐れまれてはいない。
彼女はそう読んだ。城の者たちが気を遣っているのは娘ではなく、この家の格に付いた傷のほうだ。傷がいくらの値になるのか、まだ誰にも分からない。だから、様子を見ている。
その三日を、アリシアは自室で過ごした。
することがなかったわけではない。何もするなと命じられたわけでもない。ただ、机の前に座って、頭の中で盤面を並べ直していた。あの広間で何が動いたのか。誰が誰を釣り、その釣り針は次にどこへ落ちるのか。帝都へ通じる北の門が開けば、まず削られるのはどこか。
考えたところでどうにもならないと、分かってはいた。分かっていて、やめられなかった。指が勝手に数を数えるようなものだ。もう何の役にも立たないと知っている手が、それでも動く。
書状は、噂の後を追うようにして届いた。
ケハルディン侯爵家当主の署名と、家の印。婚約の解消を正式に通告する、一通。あの夜、広間で彼女が求めたとおりの体裁が、過たず整えられていた。
そして、理由を記すべきところに書かれていたのは、これだけだった。
――双方の家の事情により、この度の縁組は解消いたしたく。
ピルインの城に戻って三日、父の執務室に呼ばれたとき、アリシアは何を言われるか正確に見当がついていた。
「傷物だ」
開口一番、父サイラス・ピルインはそう言った。選帝公の執務机を挟んで、娘を一枚の帳簿のように見下ろしている。
「公の場で婚約を破棄された娘など、帝国じゅうの物笑いの種よ。あの夜会からこちら、帝都で何と囁かれておるか知っておるか。ピルインは娘の躾もできぬ、とな。選帝公家の格に、たかが侯爵家の小倅が泥を塗ったのだ。……その上、これだ」
卓上には、あの書状が広げたままになっていた。父はそれを指の背で弾いた。
「詫びの一言もなし。これが、選帝公家へ寄越す文か。ケハルディンめ、この儂に恥をかかせておいて、ただで済むと思うな」
卓上で、父の拳が音を立てた。怒りは本物だった。だがその怒りが、娘の受けた屈辱に向いたものでないことを、アリシアは知っていた。傷ついたのは父の面子であって、娘の心ではない。
アリシアは、書状の余白を見ていた。
父にとって、あの空白は無礼の証でしかないのだろう。書く気がなかったのだ、と。
――いいえ。
書けなかったのだ。
家格の不釣り合いは、書けない。ケハルディンは侯爵で、ピルインは選帝公である。下から上への破約に、格を理由として並べることはできない。あの夜、広間で言い立てた文言はなおのことだ。聡すぎる、口が過ぎる――そのようなものを選帝公家宛の公文書へ載せれば、恥をかくのはあちらの家である。
書ける理由が、一つもなかった。残っているのは、紙に載せられるはずのない一つきりだ。北東のあの御方と話がついている――そう書けば、家の印を押した謀反の証文を、選帝公家へ自ら差し出すに等しい。
だから欄が空いた。空いた欄が、そのまま答えになっている。
アリシアは、それを口にしなかった。
言えば、あの広間と同じ言葉が返ってくるだけだ。
父の斜め後ろに、兄が立っていた。
コンラート・ピルイン。ピルインの嫡男である。家の面子にかかわる話であれば、いずれ跡を継ぐ者が同席するのは当たり前のことだった。兄は窓を背にして手を後ろで組み、父と妹のやり取りを黙って眺めている。口を挟む立場ではないし、挟む理由もない。
アリシアは、そこに視線を留めなかった。
この部屋で向き合うべき相手は、父だけだった。
「兵を挙げるおつもりですか」
静かに問うと、サイラスの眉が跳ねた。
「当然だ。ケハルディン領は目と鼻の先よ。五日もあれば、兵は境を越える。しかも、あの書状だ。理由の一つも添えぬまま、下から上へ一方的に約を破りおった。非はあちらにある。帝国のどこへ持ち出しても、理は儂にあるのだ。あの寝返り者に、選帝公家を軽んじればどうなるか教えてやる」
名分としては、正しい。
――だから、危ないのだ。
名分のある戦ほど、止まらない。理はこちらにあると信じている者は、退く算段を立てない。
「おやめくださいませ」
アリシアは、声を荒げなかった。この三日、幾度も頭の中で組み直した筋を、そのまま差し出した。届かぬかもしれぬとは思っていた。それでも、言わずに済ませられる話ではなかった。兵を挙げれば、真っ先に焼かれるのは境の村である。家が傾けば、傾いた家に残る者は、みな一様に値を下げる。父の面子で済む話ではないのだ。
「ケハルディンが単独で父上に弓を引くはずがございません。あの家の後ろには、北東のあの御方がついております。ここで我が家が兵を向ければ、待っていたとばかりに、あの御方が『帝国北部の乱れを鎮める』名目で兵を出しましょう。我が家とケハルディンが削り合えば、漁夫の利を得るのは――」
「シュタデーンだ、と言いたいのか」
「はい。ですから、逆でございます」
アリシアは、わずかに機を進めた。
「北で睨み合う我が家に、南のハーベンブルク公と手を結ばせるのです。ハーベンブルク公とて、シュタデーンが帝都へ手を伸ばすのは望んでおられぬはず。北西の我が家と、南のハーベンブルク。二家で北東のシュタデーンを南北から挟めば――」
視界の端で、兄がわずかに顔を上げた。
兄は昔から、人の話をよく聞く。聞くだけだ。アリシアは目を父へ戻し、続けた。
「――シュタデーンは迂闊に動けませぬ。ケハルディンの寝返りも、宙に浮きます。兵を挙げるより、よほど――」
「もうよい」
父の声が、娘の筋を断ち切った。手を振る仕草が添えられていた。卓上の埃を払うような、ごく短い動作だった。
サイラスは、娘を見てはいた。だが、その言葉を聞いてはいなかった。娘の口から出た策の中身ではなく、娘が策を口にしたという事実そのものに、うっすらとした不快が滲んでいる。
「小娘が、政を語るな。そういうところだ。そういうところが、ケハルディンにも見限られる因よ。……下がっておれ。お前の身の振り方は、いずれこの儂が決める」
アリシアは、口を噤んだ。
筋は通っていた。父もそれを、頭のどこかでは分かっているはずだった。老練な選帝公が、シュタデーンの脅威に無自覚なわけがない。それでも父は、娘の策を「策」として受け取れない。娘は策を出す器ではなく、嫁がせて使う駒なのだから。
――ああ、また、これだ。
あの夜会と、何ひとつ変わらない。理が正しいかどうかは、問われない。それが女の口から出たという、ただその一点で、全ては床に落ちて踏まれる。籠の格子は、実家の壁にも寸分たがわぬ形で嵌まっていた。
アリシアは、頭を垂れた。従順に見えるだけの角度で。
「……仰せのままに」
それ以上、何も言わなかった。言葉は、もう床に落ちるだけだと知っていたから。
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